◆ 「二上山」慕情 
【 ~11 王族の魂と二上山 (2)】




とうとうこのテーマも佳境に。
大津皇子のところまで来てしまいました。

勝手に独り盛り上がっておりましたが
今回は特にそれが顕著になるかな~



悲劇の皇子。

今回は叙情たっぷりにお届けしたいと考えているのですが…。

いかんせんこの時代は知見不足。
やるからにはそれなりなものにしないと…。


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第9回の記事では『王族の魂と二上山 (1)』と題し、飛鳥時代まで進めたものの…

『二上山の神々』をやるのを忘れていて、第10回の記事(前回の記事)として挟み込みました。

今回は第9回の記事の続きとなります。


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飛鳥時代になると、王族の魂が「二上山」に葬られるようになるというところまで進みました。


「王陵の谷」などと呼ばれ、
聖徳太子を始めとしたヤマト王権の皇族たちの墓が次々と築かれます。

これらは「二上山」の向こう側、つまり飛鳥の都から見て河内側(大阪側)の谷地に築かれました。仏教の西方浄土思想が影響しているとか。

特に聖徳太子の墓は、「二上山」と「三輪山」とを結んだライン上の河内側に築かれています。しかるべき場所であると思います。

元々は「再生の地」とされていた「二上山」。仏教ではそこに極楽(?)安楽(?)があるとされるようです。仏教のことは知りませんが。既にこの頃には仏教思想に侵されていたことと思います。

このような流れを受け、大津皇子は「二上山」に葬られることになりました。




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大津皇子についておさらいを。
あまりに有名なのでごく簡単に。


天武天皇 第3皇子(「懐風藻」は長子とする)。母は大田皇女。

文武両道に優れ人望も厚く、天武天皇の次の皇位継承を目されていたようです。ところが自身の子である草壁皇子に継承させたい鸕野讃良皇后(後の持統天皇)が背後に関わり、謀叛を起こそうとした罪により葬られました(死因は自害)。

異説が多くあるものの、定説は上述のもの。

政争の中で無実の罪により葬られた悲劇の皇子としてみられています。また「二上山」は皇子が眠る山としても認識されています。



享年24歳…

若き有望なプリンスの生涯はあっけなく幕を閉じました…。

現世では浮かばれず、せめてあの世では安楽に…仏教思想ではこのようになるのでしょうか。この「二上山」にこそ皇子は葬られなければならないと。

もちろん神道の世界観も残っています。それはまた後ほどに。


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大津皇子の治定墓は「雄岳」山頂付近にある「大津皇子 二上山墓」

皇族の御陵というのは「延喜式」の巻第二十一「諸陵式」に一覧が掲載されています。ところが大津皇子は謀叛人扱いされているため、当然ながら記載は無し。

大津皇子の墓所が示されている文献はというと…「万葉集」巻2に「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時 大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首」とある文面のみ。

「二上山」のどの場所かは特定されていません。そうして上げられている二首のうち有名な…

━━うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と わが見む━━(巻2-165)

明日から「二上山」そのものを弟(大津皇子)として見ることにしよう!
この歌から山頂にあるものと解釈され、江戸末期から明治にかけての治定に繋がったようです。


ところがそもそも霊峰「二上山」の山頂に墓を築くなど有り得ない!と考える学者・研究者が増えてきています。

現在は東麓の鳥谷口古墳とするのが有力視されています。

7世紀後半のものとされ時代としては合致するものの、副葬品などは発見されておらず被葬者は不明。ただこの時代のこの規模で他に有力者も考えにくく、大津皇子の墓と考えてよいのでしょうか。



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大津皇子の墓は「万葉集」に、「二上山に移し葬る」と記されています。

うっかり見過ごしてはなりません!
改葬されているのです。

改装前はどこだったのか手掛かりはありません。想像というのが許されるのであれば「桜井市吉備」だろうと考えます。

以下の記事からもうここで間違いないだろう!というくらいに分かると思います。



ではなぜ改葬された?

ここで神道の世界観です。これはもう祟りが起こったと考えるしかないでしょう!!!

祟られる者はもちろん身に覚えのある人物に限ります。そうです!草壁皇子に祟ったのです。

それは大津皇子の死からわずか3年後のこと。
当時は大津皇子を慕う者が圧倒的に多かったと思われるため、草壁皇子が崩御した際には「ほれ!みたことか!」と口々に…


持統天皇は大慌てで鎮魂の手段を考えます。そうして考え抜かれたのが「二上山」へ葬ること。

飛鳥の都からは常に見えます。来る日も来る日もこちらの方向に陽が沈みます。安楽の地へ移し、日々鎮魂の儀を行う…これでしか大津皇子の祟りは鎮まらないと考えたのだろうと。



…といった妄想をしてみました。

個人的にはこの通り!
…と疑いなどまったくありませんが(笑)



次回は皇子にまつわる万葉歌を載せてみたいと考えています。