竈山神社


紀伊国名草郡
和歌山市和田438
(社前にP有)

■延喜式神名帳
竈山神社の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社

■祭神
彦五瀬命
[配祀 左脇殿] 稲飯命 御毛入沼命 神日本磐余彦命
[配祀 右脇殿] 高倉下命 可美眞手命 天日方竒日方命 天種子命 道臣命 大久米命 椎根津彦命 頭八咫烏命


神武東征の砌、「孔舎衛坂(くさのへのさか)」で負傷し戦死した兄の彦五瀬命を祀る社。境内にはその治定墓もあります。
◎神日本磐余彦命(神武天皇)は末子で、彦五瀬命は長兄。当時は長兄が祭祀を担い、末子が政治を担いました(末子相続)。「祭」と「政(まつり)」は同じ、祭政一致の時代。長兄がまず神に伺いを立て、授かった教え(神託)をもとに末子が実行に移す、そういった具合に進められていたのではないかと思います。重要なのは「祭」であって、「政」は手となり足となり神託を実行に移した者といったところでしょうか。
◎彦五瀬命は「孔舎衛坂」で長髄彦軍の流れ矢に当たり負傷、和泉国日根郡の「男の水門(おのみなと)」で失命(関連記事 → 男神社)、後に当地に葬られたとされます。
◎想像するに彦五瀬命は「孔舎衛坂」での敗戦責任を取ったのではないかと。司祭者たる者、それほどの重責を担っていたと考えています。
彦五瀬命を失い代わりに司祭者となった二男の稲飯命と三男の御毛入野命は、海神が暴れ熊野灘の暴風を鎮められなかったことを原因に、ともに入水しています(【書紀抄録】稲飯命と三毛入野命の入水の記事参照)。
◎明治に官弊中社に列格するまでは(大正時代には官弊大社に)、小さな社と小さな塚であったようです。それまでは97代にわたり鵜飼家が神職を務めていたとされます。
鵜飼家は記紀神話に登場する「贄持之子(にえもつのこ)」の裔。「吉野川(下流は紀ノ川)」で鵜飼いを行っていた、阿太隼人の子孫(詳細は阿太比売神社贄持神社にて)。この鵜飼家が古代より神職を務めていたという事実こそが、彦五瀬命の墓である証になろうかと思います。
◎「右脇殿」の配祀神には、神武東征に活躍した神々等が列しています。明治の再興に際して配されたのでしょうか。

※写真は2017年2月と2021年12月撮影のものとが混在しています。


鳥居は南東側に。








官弊大社に相応しい壮重な造り。






境内社 青葉神社