産田神社
(うぶたじんじゃ)


紀伊国牟婁郡
三重県熊野市有馬町1814
(P有)

■旧社格
郷社

■祭神
伊弉冊尊
伊弉諾尊 天照皇大神 大山祇命 木華開耶姫命 神武天皇


「熊野灘」の海際に鎮座する花窟神社から西へ1kmほどに鎮座する社。背後から早くも深い山中となる熊野ならではの地形に。
◎ご本殿の左右両側の瑞垣内に弥生時代の神籬(ひもろぎ)跡が、完全な形で残る貴重かつ希有な社。また伊弉冊尊が軻遇突智尊を産んで崩御した地であるとされます。
◎紀の第五段 一書 第五の記述には、「イザナミ神が火の神(カクツチ神)を生んだとき陰部を焼かれて亡くなった。紀伊国の熊野の有馬村に葬った(大意)」、これが当社のことではないかと。もう一つの候補地が花窟神社、当社地は産んだ「産屋」であるとも考えられ、社名由来ともなっています。明治の頃までは当地の氏神は当社であり、花窟神社は神社ではなく墓所とされていたようです。
◎ご祭神については永正十八年(1521年)の棟札に「二所大明神」とあることから、伊弉冊尊
軻遇突智尊の二座であろうと考えられています。
◎神籬跡が弥生時代のものとされるのは、弥生時代の土器片が瑞垣内から発見されたことによるもの。神籬跡は社殿両脇に配されています。つまりご本殿が建てられた後のものであり、到底弥生時代に社殿があったとは思えず、これはかなり後の時代のものと考えます。もちろん弥生時代から祭祀が行われており、その霊地にて祭祀が継承されたということは十分に考えられますが。
◎当社の奥宮ではないかとも考えられているのが、「天の真名井戸(まないたさん)」 ~1~2。当社から北西1kmほど奥地の山中にあり、巨石がびっしりと。名称からしても上古からの聖地であったことが窺えます。さらに奥地の丹倉神社の磐座大丹倉、そして海際の獅子岩鬼ヶ城までをも関連付けて考えるのは飛躍し過ぎでしょうか。
◎地元の伝承として「当社の神霊を熊野本宮大社に遷した」とされています。これは崇神天皇の夢見によるものと。江戸時代までは熊野本宮大社の巫女舞に「有馬」の下りがあり、これは当社で奉納されていたものと同じとのこと。

※写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。






以下写真3枚は神籬跡。