楢神社


大和国添上郡
奈良県天理市楢町443
(P無し、社前道路の境内の南端にギリギリ寄せて停め置くか、近隣の商業施設を利用するか)

■延喜式神名帳
奈良豆比古神社 鍬靫 の論社

■旧社格
村社

■祭神
五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)
鬼子母神(キシボジン)


良き風情を残す街道沿いのような集落の中に鎮座。立派な社殿や鳥居に、整えられた境内が印象的な神社。
◎元々は東へ1kmほどの「東大寺山」にあったとされ、そこからの遷座。その辺りは和珥氏が拠点としていたところ。
和爾下神社(上治道天王)東大寺山古墳(和爾下神社古墳)につながっています。その東大寺山古墳の北西に隣接したところに高塚公園があり、その外れに鬼子母神社が鎮座。こちらが旧社地だったのでしょうか。
◎ちなみに「鬼子母神」とは仏教のものであり神道とはまったく関係のないもの。子授けや安産、子育てなど子供に関わる仏のようです。手元資料では旧社地に神明神社とあり、情報が混乱しており不明。いずれにしても旧社地名を「上の宮」、当社を「下の宮」と呼ぶそうです。
東大寺山古墳は4世紀後半の築造とされ、「中平鉄刀」が出土しています。鉄刀は2世紀後半の「中平」という中国の元号が記されたもので、全24文字の金石文が確認されています。
◎当社から発見された古版木には「神護景雲元年(767年)加賀国の白山の峰に石川比売命が出現された。天つ真榊という榊の葉に乗って大和国添上郡石川の楢山に着くと、楢の木の枝に影向された。このことが称徳天皇の耳に入り、神殿を造って祀るよう命じられた。これが訶梨帝母(かりていも)であり鬼子母神である━━(意訳)」とあります。多分に仏教の影響を受けてしまっているもよう。
また別の版木にも当社のご祭神は石川比売命とあるようです。現在の五十狭芹彦命となったのは維新以後のことで、理由は不明。
◎東大寺二月堂修二会で読誦される東大寺上院神名帳に和邇・楢・巻向とあり、和爾坐赤阪比古神社に続いて奈良豆彦神社が見えます。それを当社(旧社地)のこととする説があります。
◎さらに当社より東方3kmの西山古墳群の一つから発見された墓誌には、「佐井寺僧道楽師 族性 大楢君 素止奈の孫 和銅七年(714年)…」と記されています。楢族の遠祖、奈良豆比古を祀る「奈良豆比古神社」があっても不思議ではなく、まして神仏混淆の時代、僧侶を擁する氏族が鬼子母神を奈良豆比古神社に合祀しても不思議ではないと当社では考えておられるようです。
◎また奈良豆比古神は四道将軍として派遣された五十狭芹彦命(吉備津彦命)と同神とする説がありますが、崩御したのは北陸であり、古版木に見える北陸の地から神名は違えども当社に影向したというのも符号するとしています。
真相は不明ながら、当社が考えておられることに対しては十分に納得のいく内容かと思われます。
◎なお式内社 奈良豆比古神社の比定社は、10km以上も北方の奈良豆比古神社

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。