奈良豆比古神社
(ならつひこじんじゃ)


大和国添上郡
奈良市奈良阪町2489
(いつも社前道路にギリギリまで寄せて停めています)

■延喜式神名帳
奈良豆比古神社 鍬靭 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
平城津比古大神(ナラツヒコノオオカミ)
[左殿] 春日宮天皇
[右殿] 春日王


大和国と山城国とを結ぶ「京街道」沿いに鎮座する社。俗に「きたまち」と呼ばれるエリアの北端辺り。
◎創建由緒に関しては社伝によると、第49代光仁天皇の御宇、宝亀二年(771年)に施基皇子(シキノミコ)を「平城山(奈良山)春日離宮」に祀ったとしています。
これは天智天皇の第七皇子である施基皇子(志紀皇子とも)を、かつての隠居所であった「春日離宮」に祀り創建に至ったというもの。この社伝においては「奈良豆比古大神(平城豆比古大神)」は、施基皇子のことであるとされます。
◎天武天皇の吉野行幸時になされたとされる、いわゆる「吉野の盟約」において列席した一人。これは天智天皇・天武天皇兄弟の皇子たちが揃い、草壁皇子が皇位を継承すること、またそれぞれが争いを起こさないようにと誓いあったというもの。この時、他の皇子たちが叙位を授かるなか、施基皇子のみが授かっていません。和歌を好み、文化人としての生活を送ったとされますが、それが理由なのでしょうか。ちなみに六男の白壁王が第49代光仁天皇に即位しています。
◎ところが「春日離宮」比定地は、奈良市矢田原町に鎮座する春日宮神社(未参拝)とする説が有力。その北方1kmほどの須山町南端に春日宮天皇陵が築かれています(光仁天皇が即位したことから天皇の追尊を受けた)。「田原天皇」などとも称されることから、そちらが妥当かと思われます。当地からはずいぶんと離れた奈良市東部の山村地、なぜ当地をもって「春日離宮」としたのかは不明。
◎この矛盾する事象に、明確な「答え」とも言うべき説を上げているのが谷川健一氏。民俗学の視点から考察された卓見に値するもの。
当社は大和国と山城国の国境の関に祀られた「境の神」を祀る社であったとし、元の鎮座地を現在よりもう少し北のいわゆる国境付近としています。この「境の神」というのは簡略すると「境界の神」のこと。具体的な場所は村外れ、河辺、坂、峠などで、「奈良阪(旧 奈良坂村)」という地名、地理地形がそれを表していると。
こういった地は人が住むには適さない辺境地で、つまり一般社会から阻害・排斥された人々が住み着いた地。具体的にはハンセン病患者であろうとしています。
「シュク(宿、夙)」「サカ(坂、境)」「スク」などがいわゆる「隔絶」を意味するものであるとし、そして「宿人」「夙人」などと呼ばれていたと。
◎ご祭神の右殿に見える春日王(田原太子)が、このハンセン病を患っていたとする伝承があります。春日王は施基皇子の御子。おそらくは当地に追われ、隠棲していたのであろうかと思います。谷川氏は春日王の伝承は「奈良坂村」の住人たちが創り上げたものとしてはいますが。
◎現在のご祭神三座には、平城津比古大神と春日宮天皇という同一神が並ぶ格好となっており、これは不自然。平城津比古大神こそが「境の神」であり、そこに春日王と父の施基皇子を配祀したと思われます。
◎当社の特筆すべきものとして「樟の巨樹」と「翁舞」が上げられます。「樟の巨樹」は、春日王が重い癩病(ハンセン病)を患ったため大木繁る平城山(奈良山)の一画に造られた小さな庵に引き籠って暮らしたという伝承によるもの。「翁舞」は下部写真の通り、春日王の病気平癒を祈願して奉納された舞であるとのこと。