☆ 極楽寺ヒビキ遺跡



大和国葛上郡
奈良県御所市大字極楽寺
(アクセス、駐車は下部写真にて)



Wikiの紹介が非常に分かりよいので、そのまま引用します。

━━御所市大字極楽寺にある、5世紀前半(古墳時代中期前半)の豪族居館遺跡。


遺構は、橿考研による発掘調査で概ね明らかとなっている。葛城山麓の高台の上に位置し、北と東が谷に面し、南と西には濠と塀が巡らされていた。大型建物跡の床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級になる。古代豪族葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に位置し、その政庁の跡と推測される。


建物や塀はほとんどが焼失しており、葛城氏が雄略天皇の軍勢の攻撃によって滅びたとする「日本書紀」の所伝を裏付けるものとされる。政庁の存続期間は20~30年とされる━━



概要は以上の通り。



外側は13メートル四方、内のりは8メートル四方の巨大高床式建造物。

これとよく似た形の家型埴輪が、葛城襲津彦の墳墓ともされる室宮山古墳から出土しています。また祭祀遺跡、工房、住居跡も発見されました。ここは葛城氏の中枢施設、首長が政を行った「高殿」でした。

襲津彦の孫であり、玉田宿禰の子である葛城円(カツラギノツブラ)の「高殿」ではないかとされます。


葛城円(円大臣)は、「眉輪王の変」に関わる一連の流れの中で、雄略天皇により眉輪王らと共に焼き殺されています。そして葛城氏は没落。

これがWikiに記されている…
━━葛城氏が雄略天皇の軍勢の攻撃によって滅びたとする「日本書紀」の所伝━━ということ。


ここは「高天山(金剛山)」の麓ですが、
大和朝廷を見下ろす位置に、逆に言うと大和朝廷はこちらを見上げる位置に。皇室に次々と后を送り出した葛城氏の権力誇示の意味合いもあったのかもしれません。

*写真は2018年2月と2021年10月撮影のものとが混在しています。


アクセスは住吉神社(御所市南郷)からのものを掲載します。境内の裏手(西側)の道を南東へ進みます。この石垣の上が住吉神社


こちらのちょうど裏側に遺跡はあります。極楽寺跡というのは別にあるようですが。中に入ると礎石らしきものなどが散在しています。

住吉神社から300mほど進むとカーブミラーのあるこのような辻に。ここを右折(西へ)します。当日は帰りに撮影したので車は反対方向を向いています。

やや狭い集落内の道路を抜けて来ると右手はこのような景色に。中央から左手の樹叢の中を中心に、この辺りまでが遺跡の範囲。

両側に田園、正面(西方向)に美しい三角錐の「白雲峰」が見えるところに。「白雲峰」は葛城氏の総氏神と思われる高天彦神社の御神体山。このドン突きのところに車を停め置きました。

ドン突きを左折したところ。この先はかなりの凸凹道。過去2回はこの道を進みましたが、車をかなり傷めたので今回はこの手前に停め置き、現地まで歩きました。

振り返るとこのような景色。先ほどのドン突きのところの右手が、ちょうど車1台分のスペース、その先は荒れ地になっていたのでちょうど良いかと。

どんどん進むと一軒の民家有り。

民家を過ぎたところに分岐が有り、右折します。

未舗装の農道を進みます。

写真のちょうど真ん中辺りに侵入口があります。

こちらが侵入口、看板など案内標示は一切ありません。

一気に視界が開け、このような田が広がっています。ここが遺跡の中心部。




左手に見えるのが「御歳山」、葛木御歳神社の御神体山。こうして見るとなぜここに社が祀られたのかがよく分かります。さらに左は天気が良ければ奈良市の「若草山」まで見渡せるとか。