☆ 南郷遺跡群



大和国葛上郡
奈良県御所市南郷



古墳時代に大王家(いわゆる天皇家)と肩を並べるほどの勢力を誇った葛城氏の、
これまでに発見された主要な遺跡を網羅した案内板が、「御所市南郷」の集落内に立てられています。

もちろん祖神は葛城襲津彦。

居住地は「御所市名柄」とも言われるため、名柄の遺跡等を含めてもいいのかと思うのですが。
場所は④や⑤の上方(北)の、ちょうど緑の切れている辺り。

そもそもで言うならもっと東方には玉田宿禰、北方の葛下郡には葦田宿禰と、襲津彦の御子神たちの拠点があるのですが。

「南郷遺跡群」と名した以上、限られた周辺の遺跡のみを網羅したということかと。


「極楽寺ヒビキ遺跡」は葛城氏の政庁跡と考えられていますが、主要建造物は「高殿」。

遺跡から見下ろす景観は、大和盆地南部を一望できる素晴らしいもの…などと呑気なことを言っている場合ではなく、

盆地にいる人々を見下ろせる位置。

古代の視力や空気の澄み具合から鑑みて、
一挙一動に至るまで手に取るように把握できたと思います。もちろん動く人物の特定までも。

つまり葛城氏に常に監視されているが如くの状態であったかと。

襲津彦の時代から大王家の宮は河内国や摂津国に営まれることが多くなりますが、それでも大和盆地を拠点としていた豪族も多くいました。すべての行動が葛城氏に監視されていたと思うのです。

この時代は「大王家」と「葛城氏」とが、対等に近いくらいの立場だった可能性もあると考えています。

仲哀天皇の皇后は神功皇后ではない…
また御子の応神天皇は神功皇后と武内宿禰との間の御子(密通した)であった…政権交代がなされた…

仮にそう考えるのであれば
武内宿禰の御子である襲津彦の権力は、「大王家」に匹敵するものであるのは当然のことかと。












麓の「御歳山」を。

「高天山(金剛山)」方面を。