高天彦神社
(たかまひこじんじゃ)


大和国葛上郡
奈良県御所市北窪158
(P有)

■延喜式神名帳
名神大 高天彦神社の比定社
月次 相嘗 新嘗

■旧社格
村社

■祭神
高皇産霊神
市杵嶋姫命
菅原道真公


「高天山(金剛山)」の大和側手前、美麗な三角錐、いわゆる神奈備山型をした「白雲峰」(標高694m)を御神体山とする社。ご本殿は無し、拝殿のみを構え、古い信仰形態を今に残しています。
◎当社は葛城氏の最高神、そして高天原の総司令塔でもあった高御産霊神を祀ります。社前麓に広がる台地は「高天原」と称され、平安中期から江戸初期までは、記紀神話の「高天原」はここであるとされていました(→ 高天原の記事参照)。またその麓には葛城氏の居館跡「極楽寺ヒビキ遺跡」が広がっています。

◎故鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」から引用します。これが当社のエッセンスをもっとも的確で明瞭に表現されたものであると信じています。
━━本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえ、社殿ができる以前は、この神体山の聖林に祭神を祀っていた。古杉のそびえる参道は北窪・西窪の集落に通じているが、そこがかつての葛城族の住地である。彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのである。
葛城族は弥生時代中期に、現在の柏原の地に移って水稲栽培を始めた。そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。日本書紀に掖上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしおせりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、なおアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。とある掖上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名を残している。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来する。葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びるとされるが、竹内宿祢によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲された。これら葛城一族の祖神を奉斎することから、延喜の制では名神大社となった古社である━━
*「橿原宮」 … 神武天皇社の境内説を取っています。
*「ホホマ丘」 … 神武天皇社背後の丘(→ 嗛間丘)。他に國見神社背後の丘(→ 嗛間丘)

◎個人的な見解を付け加えると元来のご祭神は高天彦神ではないかと。「高天山」(現在の「金剛山」のこと、「大和葛城山」も含む可能性も)から下界すべてを見下ろし、時に手を加えることも。つまり最高神であったと考えています。結局のところ高皇産霊神も同様の神格を持っていますが。
◎真っ直ぐに伸びた杉の樹々が作る参道、その奥に控える古社殿。ここは神が宿り神が息づく聖地です。

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*写真は過去数年の参拝時のものが混在しています。















蜘蛛塚










「極楽寺ヒビキ遺跡」のすぐ近くから仰ぐ「白雲峰」(写真中央)。


「高天原」から仰ぐ「白雲峰」(写真中央)。



参道途中から少し外れた所にある蜘蛛窟