☆ 嗛間丘
(ほほまのおか・ほうまのおか)



大和国葛上郡
奈良県御所市柏原・本馬、橿原市観音寺町
(南東側の「人権ふるさと公園」P利用)



神武天皇が即位三十一年に「国見」をしたという、「掖上(わきがみ)」の「嗛間丘(ほほまのおか)」。

2箇所の候補地があり、そのうちの一つ。
山名は「本馬山」、標高143m。

南麓に神武天皇社(現在記事改定作業中、リンクには飛びません)が鎮座、こちらは「橿原宮」説も有り。また中腹には燕神社が鎮座します。

当地付近は「掖上」と呼ばれ、麓には「本馬」という地名が残ることなどから有力視されています。


もう一つは御所市原谷の「国見山」
麓に國見神社が鎮座、「国見山」山頂は國見神社の旧社地。


「国見」をして事件など何かしらの変化があったわけではありません。「嗛間丘」が知られるのは、2つの理由があるかと思います。

紀には以下のように記されます。
「神武天皇即位三十一年、天皇は国内を巡幸しようと掖上の嗛間丘に登り、国状を見廻し言いました。『ああ!良い国を得たものだ !狭い国ではあるが蜻蛉(あきつ、=トンボ)が連なり飛んでいるようだ!』これが秋津洲(あきつしま、=日本国)と名付けた由来です」と(大意)。

この後に続けて
◎伊弉諾尊が…「浦安の国」「細戈の千足る国」「磯輪上秀眞国(しわがみのほつまのくに)」と名付け、
◎大己貴大神が…「玉垣内国(たまがきのうちつくに)」と名付け、
◎饒速日命(天磐船に乗り大空を廻りこの国にしようと降臨)が…「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたと。

「蜻蛉が連なり…秋津洲」が有名なところ。
神武天皇が感慨深げに「嗛間丘」から「国見」をする様子が見てとれます。

そりゃもう日向から遥々やって来て
幾多の困難を乗り越え打ち立てた政権。
感慨深くもなることでしょう。

「嗛間丘」が知られる理由の一つ。


もう一つは「秋津洲」の命名譚。

この前の記述は即位四年の
「鳥見山」にて「霊畤(まつりのにわ)」を設け大孝を述べたというもの。

つまり日本初の「大嘗祭」。
そこから一切の記述が無く国号の命名譚。

この次の記述は神武天皇の崩御。
紀の編纂者が「神武天皇編」のまとめ作業に入っています。


ここでは「狭い国」と述べています。
これが日本全土を指してのことか、神武天皇が治めた一角を指してのことかは分かりません。

治めた一角を指してのことと考えるのなら、見方が変わると考えています。見渡したのは東方の一角のみ。

全土を指してのことと考えるのなら、見渡したのは鴨族が盤踞する「高天山(金剛山)」方面。


いろいろあったがよく頑張ったものだ…
こんな狭い一角を治めただけだが…
それでも良い国だ…

などと感傷に耽り「終活」をしたのでは?
などと想像してみたりしています。


なお「国見」をした場所は燕神社の境内であり、
村人にはそれが伝承として残りその場所に創建されたのではないかとロマンを抱いています。

神武天皇社は記事改定作業に入っており、リンクには飛びません。UPは本日22時02分を予定しています。



公園から燕神社への登拝道。



境内から北東方向を。

境内から南東方向を。写真中央は山頂に斉明天皇 越智崗上陵が築かれた丘陵。

南西方向。孝安天皇 玉手丘上陵や奥に「高天山(金剛山)」が見えます。

神武天皇社越しに「嗛間丘」を。