☆高天原
(たかあまはら)


 大和国葛上郡
奈良県御所市高天350
(「橋本院」という寺院の駐車場内)



「高天原」と言えば日向国高千穂でしょう。
少なくとも現在はそう思われています。


ところが本居宣長は江戸時代に
「高天原は」天上界にあるとしました。

古事記崇拝者の宣長らしい、しごくもっともな考え。


その少し前に国学者 新井白石は常陸国にあったとしました。
現在の茨城県の最北の海側、多珂郡。


では白石や宣長がそのような説を出す前は、どこであるとされていたのか。

それは大和国葛上郡(現在の御所市辺り)。
大和国と河内国に跨がる金剛山の大和側、高天彦神社から北東側一帯の台地。


「蜻蛉日記」に「天の戸ざしは…」という歌に続いて「…葛城山(金剛山、あるいは北隣の葛城山)に…」とあることから、
「高天原」が葛上郡であったと考えていたのは平安時代に始まると考えられています。

「延喜式」が成立したのは927年、「蜻蛉日記」は957年(推定)のこと。

「延喜式」が成立した当時には
「高天原」は大和国葛上郡であったという可能性が高いと言えます。

その後の文献などでもずっと
「高天原」は大和国葛上郡のことでした。


つまり少なくとも平安時代後期~江戸時代までは
「高天原は大和国葛上郡」というのが都では「常識であった」わけです。


事実、古代の多くの書には「金剛山」という山名は見えず、「高天山」と記されています。

「高天山(金剛山)」中腹には高天佐太雄神社、高天岸野神社が鎮座(いずれも未参拝)、麓には最高社格 名神大社 高天彦神社が鎮座します。


この説を唱えるのは鳥越憲三郎先生くらいのものですが、

元々は高天山(金剛山)を舞台に創作されたストーリーが
高千穂に落とし込まれたのではないかとも思っています。


とある葛上郡の宮司さんが
「奈良県のPRが下手くそでなければ、高天原は金剛山というのが当たり前となっていたと思う」と。


ちなみに「高天原」の読みは
「たかまがはら」というのは間違いです。

定説はないものの「たかあまはら」が妥当なところでしょうか。






高天彦神社の参道。