伴林氏神社
(ともばやしのうじのじんじゃ)


河内国志紀郡
大阪府藤井寺市林3-6-30
(P有)

■延喜式神名帳
伴林氏神社の比定社

■旧社格
府社

■祭神
高皇産霊神
[配祀] 天押日命 道臣命


「大和川」に「石川」が合流する西側畔に鎮座する社。当社北側を東西に「大津道」(古代の官道、後の長尾街道)が走る要衝。東方500mほどには河内国府跡とされる国府遺跡があり、400mほどには河内国総社となった志貴縣主神社が鎮座。南東500mほどには第19代允恭天皇陵が築かれています。
◎創建年代は不詳。大伴氏の同族とされる林氏が奉斎した社で、祖神を祀ったものと推されます。「三代実録」の貞観九年(867年)二月条に、河内国志紀郡の「林氏神」が官社に預かったという記事が見えます。また同十五年(873年)十二月条に、天押日命が従五位下への神階授与があったという記事が見えます。さらに「神名帳」(延長五年・927年)には式内小社に列しています。
◎林氏については「新撰姓氏録」に、「河内国 神別 林宿祢 大伴宿祢同祖 室屋大連公男御物宿祢之後也」とある氏族。
大伴宿祢とは同書に「左京 神別 天神 大伴宿祢」とあります。古代の最古級氏族。軍事的部民を率いて、ヤマト王権の軍事を管掌していたものと思われます。
天押日命(天忍日命)は高皇産霊尊の五世孫とされます。紀の神代下 一書に以下のようにあります。
━━天槵津大来目を率い、背に天磐靫(あまのいわゆぎ)を負い、臂に稜威高鞆(いつのたかとも)を著き(しるき)、手に天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って高千穂の峰に降り来る━━(大意)
◎道臣命(日臣命)は「古屋家家譜」「伴氏系図」によると天押日命の孫。紀には以下のようにあります。

━━神武即位前戊午年六月、神武天皇東征に於いて、大来目部(大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣の名を賜わる。同年ハ月に天皇の命を承け、菟田県の首長兄滑(エウカシ)を責め殺す。同年九月、神武天皇が高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となり「厳媛(イツヒメ)」と名付られる。同年十月、大来目らを率い国見丘の八十梟師(ヤソタケル)の残党を討伐。辛酉年、大来目部を率い諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。神武即位の翌年には、「築坂邑(つきさかむら)に宅地を賜わる━━(大意)

◎室屋は第19代允恭天皇から第23代顕宗天皇の御代に仕え、大連として活躍した人物。
◎大伴氏は遠祖を高皇産霊尊としますが、これはおそらく系譜を仮託したものと思われます。

宝賀寿男氏は、彼らは日本列島で原始的な「焼畑農業」を営んだ「山祇族」系統であり、本来の「ムスビ(産霊)」は「古屋家家譜」に見える安牟須比命、その実体はカグツチ神(=火産霊神)であったとしています。

◎高皇産霊尊はともかくも、林氏が始祖三座を奉斎した社と言えるかと思われます。「和名類聚抄」には、当地が志紀郡「拝志郷」とあります。西側に隣接して拝志廃寺があったとも。

貞観八年(866年)に大伴氏嫡男の大納言善男が、応天門の変に敗れ伊豆配流となり衰退していくのとは対照的に、上記の通り翌年当社が官社に列したのは皮肉なところ。

これらとは別に、社名より伴林氏という氏族が奉斎した社とする見方も。「続日本後記」の天長十年の条に、伴林宿禰御薗等四人に伴宿禰姓を賜姓した記事が見えるも、国郡名の記述がなく、奉斎氏族とするには難ありかと。

◎当社が俄に脚光を浴びたのが、昭和七年に陸海軍が軍人勅諭御下賜50年を記念して調査が始まり、当社が軍神大伴氏の祖神を祀る唯一の神社だとされたということ。陸海軍両大将と府知事、財界が協力して現在のような大きな神社としたようです(それまでは小さな社)。「西の靖国神社」とも呼ばれ、手水舎も靖国神社から移贈されたとのこと。実際のところ、紀伊国名草郡の刺田比古神社でも祀られており、しかもそちらは大伴氏族の紀直(紀伊国造家)の氏地。他にも越中国や越後国等でも祀られる社が存在し、政治力が働いたと見られます。
敗戦後は官社から外れたたため、この巨大な神社を氏子だけで支えていかねばならず、宮司の悩みの種であるようです。

*写真は2018年1月と2024年8月撮影のものとが混在しています。


社殿の豪荘さは「西の靖国神社」とされたことによるもの。










手水舎

橘が植えられています。



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