志貴縣主神社


河内国志紀郡
大阪府藤井寺市惣社1-6-23
(P無し、鳥居前に寄せて路駐し足早参拝しか方法なしか)

■延喜式神名帳
志貴縣主神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
神八井耳命
[配祀] 天照大神 春日四神 住吉四神


河内国の総社でもあり、志貴縣主たちが奉斎した社でもある式内大社。
まず河内国総社について。当社の東200mほどに「国府遺跡(こういせき)」があり、国府跡と考えられています。旧石器時代から縄文、弥生と連綿と続く石器や土器などが出土、90体もの人骨も。地名から国府跡であろうと推定されています。10世紀中頃に総社に指定されたようです。
次に志貴縣主。古代の有力な豪族でありながらあまり研究がなされていないのは、没落時期が早かったためでしょうか。神武天皇の長子である神八井耳命を始祖とする氏族で、多氏と同祖とされています。
古事記に有名な記述があります。「雄略天皇が生駒山を越え日下(くさか)へ行幸した際に、山の上から国内をご覧になると屋根に鰹木を付けた志貴大縣主の大きな屋敷が見えたので、天皇の屋敷に似せて造っていると怒り焼き払おうとした。志貴縣主は献上品を奉って詫びたので天皇は焼くのを止めた。」なんとも不可解な記述。いかようにも考えられますが、とにかく皇室と同じくらいの権力を保持していたことは間違いないでしょうか。
そして問題は大和国にも「志貴(磯城)」という地名も氏族もあること(他に和泉国などにもあります)。同族とするかどうかは意見が別れています。
記紀に最初に登場するのは「兄磯城・弟磯城(エシキ・オシキ)」。こちらを同族とするかどうかも意見が別れています。神武東征の際の大和入りに対して立ち向かう氏族。ところが弟磯城が神武軍についたので、兄磯城は敗れこれをもって神武天皇(神倭磐余彦命)は大和入りを果たします。
ここで分かるのが少なくとも大和盆地の南西部を支配していた氏族であり、ここを攻め落とすことで初代天皇(当時はまだ大王)になることができたということ。それほどの権力を有していたということです。そして志貴氏から次々と歴代天皇の妃が迎え入れられます。第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮があったとされる志貴御縣坐神社もあります。
なお祖神は大物主神とも饒速日神ともいわれます。第10代崇神天皇の辺りを期に影が薄くなり、やがて没落していったとされます。また春日縣主や十市縣主に派生したとも。
ここで当社の方に戻りますが、「河内名所図絵」では当社のご祭神を「磯城縣主黒速」としています。この神名は弟磯城のこと。やはり大和の「志貴(磯城)」と河内の「志貴」を同族と考えるべきでしょうか。雄略天皇の説話に皇室と同等の屋敷を建てていたということも合点がいきます。
大和の志貴縣主が当地へ移住してきたと捉えることができます。また物部氏系氏族でもあると考えるなら、当社周辺を物部氏が拠点としていたことも頷けます。