勾玉のはじまり
太古の昔、人々は獣や魚、貝類を削り穴をあけ、身に付けていました。
それは当時、狩猟民族であった人々が、獣や魚の魂の呪いを恐れまたその精霊の力を自分の身に付けることにより守られると考えていたようです。
石を道具として使ったのは、約60万年前(石器時代)。
また石を身に付ける風習は1万2千年前からあったと、(北海道知内町湯の里の遺跡)からの出土品でわかります。
中国からは7000年~6000年前から石の装飾品が入ってきています。(福井県金津町桑野遺跡)
現在、日本最古とされる翡翠の大珠は、山梨県北巨摩郡大泉村天神遺跡(縄文時代前期末)で出土され、長さ約5.5cm。最大のものは、富山県朝日貝塚(縄文時代中期)約10cm。
ひすい大珠は、全国で約200個出土されています。
北陸、中部、関東で全体の約70%縄文時代後晩期には九州に出現しますが、近畿・中国地方では出土例はまだありません。
翡翠大珠とは、楕円形のような形で、上の方に穴があけてあり、5~10cmほどのものが多く、初期のものは転石に穴をあけただけのものもみられます。
では、鉄器のないこの時代、どうやってかたい翡翠に穴をあけていたのでしょう?
一説によると、研磨剤を使った磨製石器の技術がシベリアから伝わったといわれています。
石英砂などの研磨剤を濡らし、竹管を回転させ、途方もない時間をかけて穴をあけていたと考えられています。
主に、新潟県糸魚川近くの長者ヶ原遺跡や寺地遺跡に工房のようなものがあったと思われます。
約3500年前の沖縄県兼城上原遺跡からも出土され、その翡翠の産地は新潟県糸魚川産のものと判明しました。
穴もしっかりと開けられたものがこの時代に、1500Kmもの旅をしたのですね。
大珠は縄文時代の中期に75%後期には20%と急に少なくなります。
この頃から勾玉をはじめ、管玉や丸玉がつくられるようになります。
糸魚川周辺から翡翠原石は各地に運ばれ、玉作りは広まっていきます。
「たまつくり」という現在の地名は、勾玉をはじめとする「玉作り」が行われていたところと考えられています。
こうして、勾玉文化は広まり、瑪瑙、ガラス、金属等でも作られるようになっていきます。
大珠から勾玉へと代わっていった理由は、いまだわかっていません。
縄文時代晩期の遺跡からは良質の翡翠製品がほとんどの遺跡から出土されるのに対し、弥生時代に入ると急に出土されなくなり、また弥生時代中期になると、また数多く出土されます。
これは銅や鉄などを輸入する為、翡翠製品や勾玉を交易品として使ったと考えられます。
魏志倭人伝(三世紀前半の日本の事が書かれた書物)にも出てきますが、邪馬台国の王・壱与(卑弥呼の次の女王)が、人間30人、真珠5000個、勾玉2個を魏の王に貢ぎ物として送っています。
この例を見ても勾玉はとても高価なものであった事がわかります。
美しい翡翠の勾玉は、北九州に多く出土され、それは縄文時代の形と同じである事が多いようです。
これは北九州地方に大きな勢力があり、縄文時代の勾玉を集めたと思われます。
勾玉の出土を調べていくと、物の流れや文化、権力の移り変わりが分かってきます。
大珠が近畿・中国地方から出土されないのは近畿・中国地方と関東・中部・北陸地方の部族とは異なった部族だったと考えられています。
【勾玉屋様HPより】
たしか翡翠の勾玉を一つ作るのに約2年かかるみたいですね。
( ̄▽ ̄;)
今も昔も日本人の技術力は凄いですね。
あと勾玉の捕捉と翡翠について
【勾玉専門店 玉造り工房ふるたまのやしろ様HPより】
『勾玉とは』
語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。
語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。
遺跡、古墳などの発掘調査で発見される勾玉(曲玉)は日本特有の祭具・神器であり、古代中国からは発見されない。
朝鮮半島の一部の古墳からは発見されているが、これらのすべてが交易により日本から輸出されたものと考えられている。
他に例のない形状
その独特の形は、月の形、動物の牙、胎児の形などと言われているが、決定的な事については文献等の記述が残っておらず、何もわかっていない。
ただ、古代人の信仰において重要な存在であったことは疑いようがない。
玉の分類
遺跡より発見される玉類は、その形状により次のように分類される。
丸玉…球状を呈するいわゆる玉。
平玉…丸玉の両面を押しつぶして扁平にした玉。
小玉…丸くて極めて小さい玉。
切子玉…平らな底面を共有し、断頂多角錐状を呈し、一見して硝子の切籠(きりこ)に似た玉。
棗玉(なつめだま)…長い切子玉の稜角を取り去った形の玉で、棗の実に似ている玉。
蜜柑玉(みかんだま)…丸玉の側面に縦状に凹線を刻み、蜜柑や南瓜に似た形の玉。
梔子玉(くちなしだま)…平らな底面を共有し、円錐体の側面に縦状の凹線を刻み、梔子の実に似た形の玉。
管玉…円筒状を呈し、竹を短く切ったような形の玉。
臼玉…管玉を極めて短く切った玉で、長さが直径以下のもの。
勾玉…長く湾曲した玉で、多少扁平になる傾向を示すものが多い玉。
玉を形状により分類すると、これらの形状にはおのずから系統が立てられる。
すなわち、玉の形をした丸玉に長く伸ばす力を加えると棗玉になり、その棗玉の稜を立てると切子玉になる。
その側面を圧して円筒状にいっそう伸ばすと管玉になる。
そして、丸玉の上下両面を圧迫して、さらに平らにし、底面をつけると平玉になり、さらにそれを小さくすれば小玉、小玉の角取り去ると臼玉になり、その臼玉を長く伸ばせば管玉になる。
玉の形状を系統立てると、どの玉もこの一系の系列の中にあるが、勾玉だけはどう考えても、丸玉や管玉のいずれからも分離した形状とは考えられない。
しかも、勾玉以外の玉は諸外国に類似の玉が存在するが、勾玉だけは上記のように我が国特有の玉といってよい。
勾玉はいわゆる玉の概念をはみだした、「玉ならぬ、玉」なのである。
勾玉に使用された素材
水晶、硝子、玉髄、蛋白石、ろう石、碧玉、木片など古代人はありとあらゆる素材で勾玉を作成しているが、その中で最も貴重で珍重された素材は翡翠であり、権威の象徴であった。
この貴重な翡翠をどこで求めたのだろうか?
翡翠の原産地である新潟県糸魚川の姫川や青海川の上流では、何トンもある翡翠の原石がゴロゴロしているが、古代人はそこまで採りにいってないようで、原産地から流れた転石を海岸で拾っているようだ。
遺跡から出土する原石は、海岸で拾える原石と、形や大きさが似ている。
永遠の象徴
古墳を発掘した際、弥生時代・古墳時代の墓で死者がまとっていた衣類の断片が残っているのは極めて稀である。
それから、死骸が残るのもの稀であり、歯だけとか頭骸骨だけが残る例もかなり少ない…。全部、腐ってしまうのである。
それから、一緒に埋めてあった木製品、編み物であるとか、鉄の刀なんかも、場合によってはボロボロになっている…。
そういう場合でも、もとの輝きを残しながら、きちんと残っているのが翡翠の勾玉なのである。
古代人にとって、人間の死骸が腐った後も、人間のかわりに少なくとも数千年後まで、輝き・形・色そういうものをきちんと残してくれるものであったのである。
『翡翠について』
古代人が愛した石
ヒスイと日本人の関わりは深く縄文・弥生時代から利用されているが奈良時代以降、昭和の初期までその存在は忘れられていた。
しかし、昭和十三年八月十日に再発見され今では日本・東洋を代表する宝石として親しまれ愛されている。
学名、翡翠輝石岩、別名「硬玉」ともいう。
高圧の変性鉱物として、広域変成岩や曹長岩に伴って産出される。
極めて緻密な結晶の集合からなり多様な色調を示す。
比較的低温(300℃位)で、地下100㎞程度の高圧状態で生成すると考えられている。
地表付近でも、ある程度の圧力(プレート境界での岩石どおしの破砕による摩擦力の.高圧)と、その際、発生する熱の条件で生成すると言われている。
しかし、物体に圧力を加えれば高温になるはずであり、翡翠生成における「低温」「高圧」条件については、今だなお不明な点は多い。
硬くないが堅い石
硬くないが堅い石…。
禅問答みたいであるが、この石の特徴である。
硬さというのはモースの硬度であらわされる。モースの硬度で言えばヒスイは6.5~7.0ぐらいになる。
この硬度は石としては決して硬いわけではない。
石英は7.0、長石は6.0である。石英と長石はどこにでもあるような鉱物で、それと同じ位の硬さしかないという事は傷つきやすいという事である。
しかし、かたさには、もう一つの「かたさ」がある。
それは、「堅さ」言い換えると壊れにくさ、加工しにくさである。
こちらの方は、ダイヤモンドを凌ぐ程の堅さがある。
であるので、ヒスイは硬くないが堅い…そういったものである。
ヒスイの産地
日本のヒスイの産地は、新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町などであるが、糸魚川市姫川流域以外ではいわゆる宝石質の翡翠は産出されない。
その名の由来
ヒスイは漢字で「翡翠」と書く。二つの文字に「羽」という字がついているのである羽に関係していると思われるが、その羽を持つ鳥は「カワセミ」である。
この翡翠はヒスイと読むが同時にカワセミとも読む。
カワセミはスズメほどの小さな鳥であるが、たいへん綺麗な羽の色をしている。
この翡翠という漢字は雌雄を表していて「翡」が雄。
「翠」が雌である。
こういった熟語は「麒麟」、「鳳凰」などにも見られ、同様に前の文字が雄、後ろの文字は雌である。
また、翡翠という漢字は雌雄だけでなく、色も表している。
「翠」は緑色、では「翡」はというと知らない方が多いと思われるが「翡」を少し分解して非に糸偏をつけると「緋(ひ)」と読み赤色という意味がある。
なぜそうなるかと言うと、多くの方は翡翠は緑の宝石だというイメージがあるが、オレンジ色、赤っぽい色の翡翠も存在する。
実のところ、昔、この石には名前がなく、名前がないと呼ぶのは不便なので、何か適当な名前をつけようと考えた。
その時に思い当たったのがカワセミという鳥であった。
カワセミという鳥は背中が青緑色、お腹がオレンジ色である。
ヒスイ製品が使われた時期
翡翠がたくさん出現するのが縄文時代中期(約5500年前~4500年前)である。
遺跡からたくさん出現するのは、縄文時代後期(約4500年前~3300年前)のはじめぐらいの遺跡が多い。
それでは、いつから翡翠が使われるようになったかと言うと、縄文時代中期以前ということは確実だが、いまひとつあいまいで、今後の研究が待たれる所である。
古代における”アオ”その色へのこだわり
古代におけるヒスイは、特に色に由来するものが重要となる。
例えば、古代の遺跡から発掘される勾玉の多くは緑色である。
他の色のヒスイが存在するにも関わらず玉となるものは緑色である。
糸魚川の海岸や川にはラベンダー、白色、黒色などの別の色のヒスイが数多くしているが、それらを選別して、なお、緑色にこだわって神器に使用している。
古代人はなぜ緑色に、こだわったのか。
古代において緑色をミドリとは表現せず、”アオ”と呼ばれていたようである。
では、青(アオ)とは、どういったものであるのか、また、その意味するものは何か。物事の始まりは、言葉が最初である。
言葉はすなわち、音である。
最初の音は「あ」という音である。
それで「アオ」とは始まりと言う意味を持ち、「ある一定の方向に向かって集中した力を発揮するベクトルをもつ」その青(アオ)は、水の色であり、海の色であり、宇宙空間の色でもある。
古代の特別な人達(伝統を備えた工人)は、このヒスイと他の石を選別する事が出来た(鉱物学的にでもなく、数値的にでもない。すなわち科学的でないという事)もちろん、選別に慣れると言う事はあるのかも知れないが、それだけでは説明がつかない部分がある。
明らかに、その人達は、この石を”分ける”事が出来る能力を持っていた。
古代の特別な人達の脳の中には、その事を、前者から受け継いでいた。
この事は石を選別するだけではなく、形を整えることにまで及ぶ。
ヒスイの組成は肉眼では見ることが出来ないが、それを、その脳を持つ者たちは鑑得する事が出来る。
重要なことは我々、現代人は万世一系というわけではないが、脈々とこの特別な能力を持つ人達の脳を知らず知らずのうちに受け継いでいるのである。
以上、引用
一度、翡翠の勾玉を作ってみたいですね。