コロナ禍とウクライナ侵攻のさなかに迎えた11回目の「311」~復活していた「いわき」号富岡系統~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東日本大震災から11年が経過しました。

 

新型コロナウィルス感染症の流行とロシアのウクライナ侵攻で、それどころではない騒然とした世相ですが、新聞やネット記事には、11年経っても自宅に戻れない福島第一原子力発電所周辺地域の人々に焦点を当てた記事を散見します。

ウクライナ問題については、ロシアの暴挙に強く抗議したいところです。

 

コロナ禍だけでも人類は手一杯なのに、余計な問題を起こしやがって──

 

そう思いません?

しかも、ロシアの大統領が核の使用をちらつかせる、という言語道断の振る舞いに及んでいます。

ウクライナの原発をロシア軍が攻撃した、チェルノブイリ原発の送電をロシア軍が破壊したために核燃料の冷却が出来なくなっている、という報道に、11年前の福島第一原発の事故を思い浮かべた人も少なくないのではないでしょうか。

同時に、原発事故による不安と焦燥感の中で過ごした日々のことも。

ロシアの政治家は、36年前のチェルノブイリ原発事故と、11年前の福島第一原発事故から何も学ばなかったのでしょうか。

チェルノブイリとフクシマが、今もなお、どのような惨状を呈しているのか、知らないとでも言うのか、と怒りとやるせなさが込み上げてきます。

 

 

『静寂に包まれた夜の町に10年10カ月ぶりの明かりが灯った。

東京電力福島第一原発事故の被災自治体で、唯一全住民の避難が続く福島県双葉町。

事故前は約7千人が暮らしていたこの町で、自宅などでの宿泊が特例的に認められる「準備宿泊」が1月20日に始まり、この日は4世帯5人が参加した。

立ち入りが制限される「帰還困難区域」は、今なお福島県内の7市町村で指定されているが、住民たちは復興に向けて少しずつ歩みを進めている。

一方、2011年3月11日に起きた東日本大震災による避難生活を続ける人が、全国に約3万8千人、そのうち福島県からの避難者が約2万6千人いる(22年2月8日現在)』

 

Yahooに掲載された記事の引用ですが、今も避難を続けている人からは、

 

『おそらく一生消えない思いを背負っていくのだと思います』

 

との投稿があったとも書かれています。

 

帰還困難区域を除く地区では、復興に向けた建設工事が進んでいますが、墓参に戻った避難者は、

 

『子どもが通っていた小学校、中学校も取り壊されていますし、新しい建物が建って、景観はすっかり変わっています。私の知っている浪江町ではないですね。11年間は生活するのに一生懸命で、あっという間でした。ただ、まだ浪江町から住民票を移してはいないんです。長年住んだ家の住所が消えてしまいますし、なんとなく負けたような気がするというか。移したくて移すわけでもないのに、と思うんですね。夫は長男なので、お墓は守らないといけないと思っています』

 

 

別の被災者は、

 

『すぐに帰れると思っていたんですよ。双葉町で建設会社に勤めていて、「原子力明るい未来のエネルギー」という看板をいつも見ていました。そういう安全神話の中で生活していたので、「まさか」でした』

 

と語っています。

富岡町にあるというその方の自宅は居住制限区域だったが、平成29年4月1日に避難指示が解除され、環境省による被災建物の解体除染の期限が迫って、自宅の解体を決めたと言います。

減免されていた固定資産税が令和3年度から満額負担となったこともあり、原発周辺の自宅の維持も負担になりつつあるのです。

 

『年に何度か家を見に行きましたが、窓が割れていて、ネズミの死骸があったり、動物の荒らした跡があったり。泥棒が入った様子もありました。昔は庭で藤やブルーベリーを育てるのが楽しみだったんです。その庭もジャングルみたいになっていて。家も街も住める環境ではないので、このタイミングで壊すしかないなと。終のすみかのつもりでしたから、切なくてね。取り壊しの途中はとても見に行けなくて、更地になってから行きました。帰る選択肢を捨てたわけじゃない。帰るか帰らないか、気持ちは半々です。避難当初は孤立感が大きく、そんな中で私も妻も体調を崩し、通院する生活になりました。みんなあちこちに分散してしまって、寂しいと思うんですね。だから、避難者の人たちが集う機会を継続的に作っています』

 

被災地を通り抜ける常磐線の代替バスが運行を開始した平成28年に、福島第一原発事故の被災地で車窓から目の当たりにした凄絶かつ悲惨な光景が、脳裏に甦って来ます(「原発事故に揺れる街へ~帰還困難区域を走る竜田-原ノ町鉄道代行バスに乗って常磐線を行く~前編」「原発事故に揺れる街へ~帰還困難区域を走る竜田-原ノ町鉄道代行バスに乗って常磐線を行く~後編」)。

内気循環にして外部との通気を絶ち、被災地に全く停車することなく走り過ぎるだけの代替バスの実情が、曲がりなりにも常磐線が繋がったと言う喜びよりも、心に重く圧し掛かってくるような車中でした。

 



 

放置された無数の住宅1戸1戸で生活を築き上げていた人々が、等しくこのような思いを抱いているのか、と思うと、深い哀しみの念を禁じ得ません。

このような思いを抱きながら11年間を過ごした人が、まだ全国に2万6000人も残っているのです。

災害とは、被災した人々の生活や人生を大きく破壊し、変えてしまうものなのでしょうが、それが11年も続くというのは、異様としか言いようがありません。

 

福島第一原発周辺の避難地域は、現在7割が解除され、残り3割も優先的に除染を進めて近日中に解除する方向と報じられています。

一方で、たとえば全町域が避難対象地域となっている双葉町では、避難解除に向けての試験宿泊制度の利用が僅か3家族に止まり、また避難している人で地元に帰ると答えたのは3割に達しなかったと言うのです。

説明会では、町内に残された資産をどのように処分したら良いのか、という質問が目立ったそうです。

 

11年──

 

避難した方々が避難先で生活を組み立ててしまうには、充分な時間なのでしょう。

不謹慎な言い方ですが、双葉町は、消えてしまうのかもしれません。

 

肝心の福島第一原発の処理作業については、気が遠くなるような工程が、日本原子力学会から報告されています。

 

2023年春:処理水の海洋放出を開始。30年から40年かけて放出見込み

2029年:帰還困難区域の避難指示解除。希望者全員が帰還できるよう必要箇所を除染

2031年3月末:復興庁の設置期限

2041〜51年:福島第一原発廃炉予定

2045年:除染で出た土の最終処分の期限。福島県外で処分することが法律で定められている

2065年3月:福島第二原発廃炉予定

最短でも100年後:福島第一原発の敷地の再利用の可能性

 

公式文書であるにも関わらず、年号が使われていないのですね。

あまりにも遠い未来に及ぶ工程ですから、畏れ多くて年号が使えないのでしょうか。



$†ごんたのつれづれ旅日記†

 

東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センターの関谷直也准教授は、

 

『東京電力福島第1原発事故による原子力災害において、その被害の過程は長期に及びました。震災前と同じ状態に戻ることは困難です。「復興」を、震災前と同じ状態に戻るという意味で捉えるならば、復興が完了するということは「ない」と思います』

 

と断言しています。

 

『被害の様相が固まり、復旧をどう組み立てるかが見えるまでさえ、数年かかりました。数年間、状況が定まらない間に人々は各方面に避難し、多くの人が避難先で生計を立て、生活を営んでいます。新しくできた商業施設も、小中学校でさえも、震災前と同じ人口規模を前提にしているわけではありませんし、被害を受けた人全員が戻ってくることを前提にしているわけではありません。ただ、移住されている方もいます。2011年以前のコミュニティ、つながりを大切にしつつも、震災前とは異なる、新しい地域のビジョンや未来像を作り、それに進んでいくことが復興なのだろうと思います』

 

原発事故の影響を受けた町を元に戻すことは不可能、新しい社会を創るしかない、と言うのです。

やっぱりそうなのか、と思いました。

直面したくない現実です。

もちろん異論もあるでしょうし、あってほしいのですが、地域社会を元に戻すことが出来ない災害など、僕らの国は、これまでに経験したことがあったでしょうか。

 

僕らの国は、地震、噴火、台風など様々な災害を、逞しく乗り越えて来た歴史を持っています。

それでも、めげずに新しく自分の家を建て直し、町を再建してきたのです。

巨大地震でかろうじて残った我が家を、10年も経過してから取り壊さなければならないような災害、10年以上も住み慣れた故郷に帰れない災害、深刻な後遺症をなくすのに1世紀もかかるような災害を、平成23年3月11日に、僕らは経験したのです。

僕らの国は、福島第一原発事故によって、間違いなく、国土の一部を失ったのです。

 

福島の復興のために出来ることは?──という質問に対し、関谷准教授は以下のように答えています。

 

『まずは知ることだと思います。一度でも構わないので、訪問して、目で見て、「福島県」を体験してほしいと思います。原発事故や処理水のことを知ることも必要ですが、住民や地域に関わる人の思いに触れること、色んな場所を訪れてこの地域ならではの魅力を知ることも大切だと思います。この10年間、道路が開通し、人が住めるようになり、コンビニやスーパーができ、電車が通り、飲食店や居酒屋が再開してきました。こういった小さなことが、本当に大きなニュースだったりします。行ってみて、話をすることで、放射線量の数値や農家の考えなどを意識できるようになり、復興を後押しするのではないでしょうか。一度、途切れてしまった、人とモノの流れを新たに再構築することこそ、この地域の復興そのものだと思います』

 

僕らは今一度、福島で何が起きたのか、そして11年後にどのような状況に置かれているのか、知る必要があります。

他人事ではなく、僕らの国に起きた事実として、唇を噛み締め、血の滲む思いで、深刻に、懸命に考えなければなりません。

 

ロシアのウクライナ侵攻により、エネルギー危機が起きる可能性が出てきました。

福島第一原発事故の直後に、先進国の中でいち早く脱原発を唱えたドイツは、ロシアからの石油・ガスへの依存度が高いために、ロシアの石油禁輸措置など経済制裁を強く打ち出せません。

僕らの国でも、エネルギー安全保障の観点に立った議論が巻き起こっています。

当然、その中で、原発の見直しがクローズアップされることになるのでしょう。

現状では、それもやむを得ないことなのかもしれません。

 

ただし、ひとたび原発が事故を起こせば、人間はそれを制御できないかもしれない。

そして、住み慣れた我が家や故郷を、掛け替えのない国土の一部を、失うことになるのかもしれない──

 

このような「フクシマ」の現実を踏まえて、そのリスクを充分に承知し、覚悟を決めた上で、議論を進めて欲しいと思うのです。

「一生消えない思い」を、僕らの国は背負い続けながら、未来を切り開いていかなければならないのです。

 

 

固い話になりました。

 

鉄道と高速バス趣味を兼ねていることは否定できませんが、僕も、震災後の福島を幾度か訪ねてきました。

このブログでも、福島第一原発の近くを運行する高速バス路線や鉄道の被災状況や復興について取り上げています。

 

今でも印象深いのは、東京といわきを結ぶ高速バス「いわき」号について記した記事です。

 

『東日本大震災のために全便が運休を余儀なくされた「いわき」号であったが、1週間後の3月18日から東京-いわき駅間で運行が再開されたものの、その後も最大で1日24往復と、震災以前の本数には及んでいない。

それでも、復旧できた系統はまだ幸いである。

南相馬系統と小名浜系統は、長期運休のままであった。

 

平成30年6月、7年ぶりに小名浜系統が復活し、また「常磐高速バス」とは無関係に、さくら観光が池袋・東京鍛治屋橋と南相馬・相馬を結ぶ高速路線バスの運行を平成27年に開始する。

一方、時刻表の「いわき」号南相馬系統の欄には「当分の間運休」と、素っ気ない注意書が書き込まれているだけの空欄となり、平成27年の時刻表からは、力尽きたように、南相馬系統の枠すら消えてしまった。

 

「当分の間」……。

 

フクシマが、未だに、先が見えない困難な闘いの最中にあることを、「いわき」号の空白の時刻表は何よりも雄弁に物語っている』(「常磐高速バス盛衰記~東京-平「いわき」号の苦難~」

 

 

「いわき」号南相馬系統は、東京駅八重洲南口を起終点として、常磐自動車道を経由し、いわき勿来IC、いわき湯本IC、いわき好間、いわき中央IC、広野IC、常磐富岡IC、大熊町役場、双葉町役場、浪江駅、原町営業所、道の駅南相馬と停車し、まさに、後の原発事故の被災地を貫いて運行されていました。

 

東日本大震災発生以降は、運行を休止したままだったのです。

無理もない、と思ったものでした。

福島第一原発事故により、運ぶべき住民が住む地域が消え失せたのですから。

 

 

このようなことは、どのような災害でも、通常は起こり得ません。

震災の後ですら、他の被災地には、程なく高速バスが走り始めていますし、「いわき」号もいわき駅止まりの系統は1週間で再開されているのです。

原発事故の未曾有の深刻さが窺えます。

 

「いわき」号南相馬系統の空白の時刻表は、僕にとって、なかなか復興が進まない「フクシマ」の象徴のように思えたものでした。

だからこそ、「いわき」号南相馬系統の代わりに、別の事業者が東京-相馬間に高速バス路線を開業した時は、感無量でした(「原発事故に揺れる街へ~ドリームふくしま・横浜号と福島-相馬特急バス、相馬-東京直通高速バス~」)。


 

ところが、先日、時刻表を開いてみると、「いわき」号の欄に、東京駅からいわき駅を経由して六十枚入口、広野IC、Jヴィレッジ、道の駅ならはに停車しながら富岡営業所まで運行される系統が登場しているではありませんか。

令和元年6月20日に、まず常磐富岡IC発着で暫定的に運行が開始され、同年9月1日より富岡営業所まで延伸されたのです。

 

 

迂闊にも、全く知りませんでした。

思えば、この年の12月に中国の武漢で初めて新型コロナウィルス感染が確認されています。

翌年の1月には我が国でも初の感染者が確認され、以後の爆発的かつ世界的な流行については、皆さんも御存知の通りです。

 

そして、僕は高速バスに乗れなくなってしまいました。

20歳前後で高速バスファンになってから、これほど長い期間、高速バスに乗らなかった経験はありません。

以前は、毎月時刻表をめくって新路線をチェックすることが楽しみだったのですが、いつしか、その習慣もやめていたのです。

 

そう言えば、平成元年に創刊されてから最低でも年2回刊行されていた交通新聞社の「高速バス時刻表」も、ついに力尽きたかのように、令和2年冬の発行を最後に、新刊が出版されなくなっています。

毎号、欠かさず買い求めていただけに、大いに落胆したものです。

これが、新型コロナ感染の恐ろしさなんですね。

人間とは、集い、出掛けることで、社会を築き上げてきた生き物ですが、その行動様式の根幹を、新型コロナウィルス感染症は直撃したのです。

 

 

それでも、「いわき」号富岡系統の運行開始は、僕に希望を与えてくれました。

一時期、新型コロナウィルス感染の流行により運休を余儀なくされていましたが、現在は運行が再開されています。

 

東日本大震災と福島第一原発事故からの復興、そして新型コロナウィルス感染の流行、いずれも、僕たちの国は必ず乗り越えることが出来るはずです。

そこに誕生するのは、過去から連綿と受け継がれてきた懐かしい社会ではないのかもしれません。

それでも、僕らは生き続けていかなければならないのです。

 

いつの日か、「いわき」号富岡系統に乗れる日が来るものと、僕は信じていこうと思っています。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>