ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのブログへようこそお出で下さいました。
今をときめく乗り物、はたまた、こよなく懐かしい乗り物の紀行文や情報が『高速バス風土記』『鉄路遙かなり』などにございます。
さあ、御一緒に紙上旅行に出かけましょう!


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僕の大学の教養学部1年生は、山梨県富士吉田市の寮で1年を過ごす。

東京の本校での入学式の後、新入生はそのまま貸切バスで富士吉田へ移動した。
犬マークの小田急バスであったから、浪人時代に「箱根高速バス」に乗車した思い出が脳裏に浮かんで懐かしかったのだが、並んだ順にバスへと押し込められた挙げ句に、僕は補助席になってしまった。
いくらバス好きであっても、補助席とは恐れ入る。
大学生活のスタートと言えば、学長の挨拶でも、その他の式次第でもなく、つまらないなあ、と2時間を過ごした補助席のことを思い出してしまう。
 
 
昭和30年代の写真で、通路の補助席が横2列設けられ、正規の座席と合わせて横6列に乗客が詰め込まれている光景を見たことがあり、仰天したことがある。
窮屈ではないかと思う前に、物理的にそのようなことが可能だったのかということが無性に気に掛かる写真で、かつての日本人は現在よりも小柄だったということであろうか。
 
貸切バスばかりではなく、高速路線バスでも時々補助席を見掛けることがあり、無論のこと今は1列の車両しか見たことはないけれど、出来る限り当たりたくない、と思うのは誰でも共通であろう。
JRバスの夜行高速バスには、「青春ドリーム○○」号などと愛称が付けられた便があり、横4列シートで一夜を過ごす、いわゆる格安高速バスなのであるが、中でも「超特割青春」号と名付けられた高速バスでは補助席を敢えて提供し、東京-大阪間で2100円という料金を設定したことがある。
正規の座席が満席の場合だけの特例であったが、8時間もの長い間を窮屈で固い座席で過ごすことを想像すれば、僕はそれだけで怖じ気づき、御免こうむると思う。
それにしても、国鉄時代から販売されている、普通列車ならば乗り放題の「青春18切符」の時代から、JRが廉価な商品に「青春」の言葉を冠するのは面白い伝統である。

大学入学の日に乗った小田急バスには、おそらくは新人と思われる初々しい女性ガイドさんが乗っていて、たどたどしいけれども、一生懸命に車窓の案内をしてくれた。
中央自動車道談合坂SAで休憩する直前に、彼女がにこやかに質問した。
 
「皆さん、どうしてここが談合坂と呼ばれているのか、ご存じですか?」
 
静まり返ったままの車内。
まだ友達も出来ていない、よそよそしい雰囲気の学生たちを前に、返事を期待されても、
 
「はあい!戦国時代に、武田氏と北条氏が和議調停をした場所だからです」
「おお!」
 
などと、元気に答える人が現れて車内が俄然盛り上がる、という展開にはならないと思う。
 
 
富士吉田の寮は、今はだいぶ様変わりしてしまったけれど、僕らが入学した昭和60年は、男子寮2棟と女子寮1棟、そして食堂などが入った棟が、講義棟とは別の敷地にT字型に並んで建っていた。
男子寮は、5人1部屋が基本で、机が並ぶ勉強部屋と、畳敷きに2段ベッドが3つ並ぶ寝室とに分かれていた。
僕は集団生活が性に合っていたのか、1年間が楽しくてしょうがなかった。
同室の仲間も気のいい奴らばかりだったから、多分に恵まれていたのだろう。
一方で、集団生活が苦手な人や、同室者とそりが合わない人も出てくる訳で、僕らの部屋には、別室の奴が1人、いつの間にか転がり込んでいたから、6人生活になった。
ベッドも机も6つずつ備えられていたから、全く支障なく歓迎した。
パーティをしたり、ゲームをしたり、鍋をしたり、余暇をともに過ごす仲間には事欠かず、勉強も一緒であったから、互いに励まし合いながら頑張ることが出来た。
 
門限が午後10時と決まっていたけれど、夜中に窓から抜け出して、富士急ハイランドのオールナイトのスケートに出かける強者もいた。
そのまま24時間営業のファミレスで時間を潰し、朝の開門後に、ちょっぴり散歩してきたような顔をして戻るのだ。
 
悪戯もした。
真冬の富士吉田は、氷点下まで冷える。
僕らの寮は、道路から一段低いところに建っていた。
夜中に、5階のトイレの窓から、玄関前のなだらかなスロープに向けて、ホースで水を撒いてみたのだ。
夜が明けると、斜面が一面凍りついて、誰も坂を登れなくなってしまった。
友達からは拍手喝采されたけれど、寮長からは、仲間全員でこっぴどく叱られた。
 
寮長は、以前、大学病院の看護師長をしていたという高齢の女性だった。
規則にうるさかったが、根はきさくなおばあちゃんで、話し好きだったから、嫌いではなかった。
水撒き事件の時も、ガミガミ小言を並べ立てながら、だんだん顔が緩んできて、しまいには笑い出してしまうような豪快な女性だった。
 
寮は、富士吉田市街の南方、富士の裾野のなだらかな斜面に広がる樹海を切り開いて建てられている。
広いグラウンドや、テニスコート、球場や体育館など、部活動の場にも恵まれていた。
校庭からは、数日に1回は、富士山の全貌を拝むことができた。
気分がくさくさした時なども、校庭を駆け足して校舎から離れてから振り返れば、そこに、僕を励ましてくれるかのように、揺るぎのない富士の姿があった。


校門を出て、曲がりくねった林間の道を降りていくと、喫茶店「瀧」があった。
電話1本で、寮まで出前もしてくれたから、大変重宝した。
カツ丼が人気という珍しい喫茶店で、乗せられているカツが超ビッグサイズで、タレが染み込んだ御飯も蓋が閉まりきらないほどの山盛りなのである。
もちろん、かかっているとき卵もたっぷりで、サクサクとしたカツの歯ごたえ、分厚い衣と合わせて、大層美味だった。
 
学生は誰もが「瀧」のカツ丼のファンで、寮にはいつも出前のバイクがひっきりなしに出入りしていた。
出前が玄関に着くと、
 
「○○号室、出前が来ましたよ」
 
と寮長や電話当番の学生が全館放送をかける。
大学を卒業してからも、車で何回か訪れたくらいの思い出の味なのである。
数年前に訪れた際に、いつの間にか閉店していたことを知り、寂しい思いがしたものだった。
 
馬の牧場やラブホテルの間をうねうねと伸びる下り坂を更に下って行くと、富士吉田の街に出る。
国道バイパスを左手へ行けば、富士急ハイランドもすぐ近くだった。
 
 
週末になると、大学から新宿駅へ直行する富士急行バスがチャーターされた。
校門を土曜日の午後4時に出発。
日曜日の午後7時に、新宿駅西口から戻ってくる。
大学の教務課で予約ができ、料金は「中央高速バス」富士五湖線と同額だったけれど、「中央高速バス」は、新宿を午後6時に発車する山中湖・平野行きが最終だったから、それより1時間遅いチャーターバスは、なかなか席が取れないほどの人気があった。

ただし、一般路線バス用の後ろ乗り前降り、などという2扉車両が平気で投入されたりしていたから、時が経つにつれて利用者は減っていった。
利用する学生数が減ったから車両が格下げされたのか、その逆だったのかは定かではない。
 
 
「ワンロマ」と呼ばれる車種がある。
ワンマン・ロマンスシート車の略で、「中央高速バス」富士五湖線のように、乗客数の季節による変動が激しい路線には、多客期の続行便に用いるため、座席はそれなりのリクライニングシートを備えながら、閑散期は一般路線バスとして使えるよう2扉になっている低床車両が用意されていた。
 
いくら高速バス車両と同じシートを備えていても、2扉の外観は何となく陳腐な印象を拭い切れない。
教養学部に、親がまとまって参観に訪れたことがあり、大学が東京からチャーターバスを用意したのであるが、京王バスの旧式のワンロマ車であったため、車酔いしやすい母は大丈夫なのだろうかと心配した。
 
 
山梨県や長野県の各地と東京を結ぶ「中央高速バス」の歴史は古く、昭和31年に開業した、新宿と河口湖・山中湖を結ぶ一般道経由の急行バスがルーツである。
昭和34年の国道20号線の新笹子トンネル開通に伴い、新宿と甲府・昇仙峡を結ぶ急行バス「甲斐」号が運行を開始している。

昭和44年に中央自動車道が開通したのを機に、高速バスとして生まれ変わり、1日数十往復もの人気路線に発展した。


開通当初の中央道が、片側1車線ずつの対面通行だった時代の写真を、目にしたことがある。
名神・東名高速道路を造ってきた我が国も、中央道では、峻険な地形のために、簡易的で暫定的な道路しか建設できなかったのだろうか。
しかも、対向車線にはみ出しての追い越し可能な道路であったと言うのだから、驚いてしまう。
当然のように事故が多発することになり、当時の日本人は、造る側も、運転する側も、高速道路に関しては全くの初心者だったのだなと思う。


中央道の建設について定められたのは、昭和32年の国土開発縦貫自動車道建設法が最初である。
昭和35年に公布された東海道幹線自動車国道建設法よりも先のことで、我が国で初めて策定された高速道路計画だった。
法律上の中央道は、起点を東京都、終点を大阪府に定め、神奈川県相模湖町、山梨県富士吉田市、静岡県井川村、長野県飯田市、岐阜県中津川市、愛知県小牧市、岐阜県大垣市、滋賀県大津市附近、京都府京都市を経由地に挙げ、赤石山脈を貫通する東西の大動脈として構想されたのである。
 
昭和32年に、中央道の一部区間として名神高速道路が着工されたものの、東京から小牧の間を、山間部の建設費が莫大になる中央道にするのか、それとも東名高速にするのかという議論が巻き起こり、昭和37年に、まずは比較的工事が容易な富士吉田までの基本計画が定められた。
東名高速については全線に渡り施工命令が出されたが、中央道については財政的にも技術的にも建設の目途が立たず、結局は、ルートを現在の諏訪回りに変更の上、昭和39年に中央道予定路線法改正案が成立、既に着工されていた富士吉田線は支線のような形になったのである。
 
 
僕が子供の頃、故郷信州に完成していた高速道路は、伊那谷の中央道の一部区間だけであった。
ニュースなどでしきりに「中央自動車道西宮線」と呼んでいるのを耳にして、西宮とは何処の地名であるのか、まさか兵庫県の西宮市ではあるまいし、と不思議だったのであるが、上記のような事情を知った時には、日本初の高速道路である名神高速が、法律上は中央道の一部だったのか、と仰天したものだった。

 
昭和30年代初頭に、中央道富士吉田線が東西幹線の一部と位置づけされていたことも驚きであるが、そのことを彷彿とさせる景観を、車窓で眺めることが出来る。
 
河口湖ICから上り線に入って富士吉田の市街地を抜け、三つ峠を左手に見上げながら西桂、都留といった桂川に沿う山あいの細長い平地を進み、谷村PAを過ぎると、大月JCTを前にして、東京方面の車は右車線へ、名古屋方面は左車線に寄れという標識が、繰り返し目につくようになる。
山裾に沿ったきつい左カーブを回り込むと、不意に、高速道路を斜めに跨ぐ、どっしりとしたアーチ橋が視界に飛び込んでくる。
下り線ならば、大月JCTを出て花咲トンネルを抜けたすぐ先である。
これが平成8年に建設されたリニア実験線で、リニア新幹線開業の暁には、本線の一部として使われることになっている。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
僕の富士吉田時代にはなかった建築物であるが、平成2年に着工されてからは、中央道富士吉田線を高速バスや自家用車などで行き来するたびに、立体交差する幹線道路も見当たらない、このような鄙びた場所に、いったい何を造っているのだろうと、訝しく感じていたものだった。

昭和32年に構想された中央道は、現在建設中のリニア新幹線とほぼ同じ経路だった訳である。
長野県内でリニア新幹線を諏訪回りに誘致しようという運動が持ち上がったのも、かつての中央道の夢よもう1度、と言った観があり、それを蹴って赤石山脈貫通ルートが採用されたということは、この半世紀の間に、我が国は、それだけの自信をつけたということであろうか。
 
 
僕ら学生は、大学のチャーターバスばかりではなく、「中央高速バス」富士五湖線もよく利用した。
タクシーで寮と富士吉田駅を往復してバスに乗り降りする者と、徒歩で富士急ハイランドのバス乗り場を利用する者がいたが、どちらも運賃は一緒である。
ただし、「中央高速バス」富士五湖線は、富士吉田駅を発車すると、河口湖駅まで迂回してから富士急ハイランドに停車し、それから隣接する河口湖ICに向かうため、ハイランドで乗り降りする方が乗車時間は短く済み、タクシー料金も節約出来た。
 
それでも、僕は、富士吉田駅で乗り降りする方が好みだった。
河口湖駅から湖畔、そしてススキが揺れる原っぱが目立つ富士吉田市郊外を回る道路の風情が、何となく好きだったのである。
富士急行線の終点である河口湖駅に立ち寄り、いつも観光客が絶えない山小屋風の駅舎を見ることも、楽しみの1つだった。


タクシーは、富士吉田駅から寮まで、正規料金ならば600~700円程度かかったけれど、駅前の「吉田タクシー」は、学生に限って540円の定額料金で乗せてくれたから、僕らは「吉タク」と読んで重宝していた。
たまに社長専用車に当たると、内装などが少し豪華仕様になっていて、得をした気分になったものだった。
 
その頃の「中央高速バス」富士五湖線には、旧型の低床バスから新型のハイデッカー、そして「ワンロマ」車まで、様々な車種が投入されていた。
ちょうど、旧型と新型車両の過渡期だったのであろう。
 
僕だけではなく、学生は誰もが、意外と車両にうるさかったように思う。
2時間も乗るのだから、当たり前のことであるが、乗り場に新型車両が姿を現せば、みんなの表情は明るくなったし、旧型車両や「ワンロマ」が近づいてきた時には、一瞬、仲間の会話が途切れた。
 
「あーあ、残念、今日はハズレかあ」
 
などと明るくおどける奴や、
 
「なんだよ」
 
とあからさまに不機嫌になる奴、そして、どのような車両であろうが東京へ連れて行ってくれれば構わない、と表情を変えない奴まで、反応は様々だった。
 

「中央高速バス」の終点である新宿駅西口の構造は複雑怪奇で、田舎から出て来た僕にとっては迷うことばかりだった。
特に国鉄の改札から地下街を抜けて新宿西口高速バスターミナルに向かう経路は難解であったため、僕は地上のロータリーばかりを使っていたが、あるきっかけから地下街を通るようになった。

その理由とは、国鉄線と京王線の連絡通路からバスターミナルがある安田生命第二ビルの入口までの途中にある、カレー専門店「イマサ」である。
「イマサ」のカレーは、休日を東京で過ごしてから、高速バスで富士吉田に帰る前の、格好の夕食であった。
人混みでごった返す新宿駅西口地下街を歩くと、吸い込まれるように店内に入ってしまう。
カレーなど食べるつもりはなくても、素通りすることは難しい。
あらかじめ食券を買う方式なのだが、入口の食券売り場のおっさんが、

「チキンです!」
「ジャーマンです!」
「ポークです!」

と、店中に響き渡る野太い声で、客の選んだカレーを厨房に伝えていた。
どうして自分が食するメニューを店内にいるお客さんに晒さなければならないのかと、首をすくめたくなったものだったが、今では入口のボックスがなくなって、自動券売機で食券を買うようになった。
消えてしまうと、それはそれで寂しいもので、先日訪れた時には、違う店に来てしまったかのように感じた。
 
 
数人の友人たちと「中央高速バス」富士五湖線で新宿へ向かった週末の夕方のこと、僕が坐ったのは最後部の横5列席の真ん中だった。
両側の席を友人が占めていたからそれほど気兼ねはいらなかったけれど、窮屈であることに変わりはなく、補助席は使っていなかったので、僕の前は通路が真っ直ぐ伸びているだけである。
もし急ブレーキをかけたり衝突でもしようものならば、前方に放り投げられてしまったことだろう。
当時の旧型のバスの客席に、果たしてシートベルトがついていたのか、よく覚えていない。
 
出発後に運転手さんが、この日は中央道上り線の渋滞がひどくて、新宿への到着が大幅に遅れる見込みであることを、あらかじめ案内していた。
理由は覚えていないが、なぜか無性に疲れていた僕は、発車して間もなく熟睡してしまい、ふと目を覚ますと、小仏トンネルの手前で渋滞に引っかかっている真っ最中だった。
覚醒した時、静まり返った車内の乗客の冷ややかな意識が、僕に向けられているような気配を感じた。
最後尾の席をいいことに、後ろを気にせずリクライニングをいっぱいに倒していたから、車内に響き渡るような大鼾でもかいてしまったのかと大いに焦ったのだが、隣りの友人がとどめに一言、
 
「よう寝とったなあ」
 
と呆れたように言ったものだから、ますます恐縮した。
 
「皆さん、鼾をかいて申し訳ありませんでした!」
 
などと謝罪しようがないことだけに、非常に気まずい感覚である。
身を縮めて猛烈に内省している僕を乗せて、バスはのろのろと黄昏の山々を下り、八王子の本線料金所が見えてきた頃、運転手さんが、
 
「皆様、トイレ休憩は如何致しましょうか。この先の石川PAも混雑が予想されますので、よろしければこのまま進みたいのですが」
 
とアナウンスした。
すると、前方に坐っていた若い女性が手を挙げて、
 
「あの、トイレに寄っていただかないと、困ります」
 
と、泣きそうな、か細い声を上げた。

当時の「中央高速バス」富士五湖線には、トイレのない車両も少なからず見受けられたのである。
既に30分以上遅れていて、定時運行ならば新宿に着いている頃合いであったから、彼女の苦境は察するに余りあるのだが、石川PAへの流入路にも本線にはみ出すほど、ぎっしりと車の列が出来ていて、駐車場に入るだけでも少なからず時間を費やし、結局、新宿には1時間近く遅れての到着となった。
 
 
片や、大学のチャーターバスは、余計な寄り道や停車駅などがなく、部活のために東京の本校へ行ったり、遊びに行く時には便利だったけれども、最後に乗った時は、ついに、乗客が僕だけとなり果てていた。

「市内循環」などのローカル色豊かな行先標示の方向幕を「貸切」にした、「ワンロマ」ですらない、後ろ乗り前降りの2扉路線車で、夜の中央道を突っ走ったのだ。
見かけに寄らず、なかなかの俊足だったが、路線バス用の座席で時速80kmを超える速度で走ることなど初めての経験だったから、なかなかの迫力だった。
その時は、最前部の座席を占めて、大学まで運転手さんと喋りっぱなしだった。
その運転手さんが、大学の近くの牧場主で、大学に敷地を貸している地主だと聞いた時には驚いた。
 
 
もしも、このチャーターバスに乗り遅れた場合には、新宿を午後8時に発車する中央本線の特急列車「あずさ」に乗り、21時11分着の大月で下車する。
 
8時ちょうどのあずさ2号で
私は私は貴方から旅立ちます
 
「あずさ」を歌った男性デュオ「狩人」の曲が流行ったのは、それより10年以上前、国鉄特急列車の号数が上り下りで偶数・奇数に分けられていなかった時代である。
僕の場合は、8時と言っても午後であり、2号ではなく23号で、しかも甲府止まりの列車であったのだが。
 
大月駅で私鉄の富士急行線に乗り換えて、21時15分に大月を発車する旧式の電車にゆらゆら揺られながら、田之倉、壬生、都留市、十日市場などと、暗い電灯だけが灯された、人影のない寂しい小駅に丹念に停まりながら、富士吉田には22時04分に着いた。
「吉タク」を飛ばしても門限時間を少し過ぎてしまうけれど、寮長も心得たもので、
 
「8時の『あずさ』で帰ります。すみません!」
 
と前もって電話しておけば、鍵を閉めるのを待っていてくれた。
しかし、この方法は「中央高速バス」の2倍以上の料金がかかった。


信州が故郷の僕は、実家への帰省の際には、「中央高速バス」や大学のチャーター便を利用しなかった。
富士急行線で大月まで出て下り特急「あずさ」に乗るのが一般的な方法であったが、当時、大月に停車する「あずさ」は2時間に1本程度で、タイミングを見計らわないと大月で待ちぼうけを食らう可能性があった。
 
旅費を節約しようと考えて、高尾を12時42分に出て来た松本行き433Mを利用したことがある。
大月発13時44分、松本着17時55分で、途中甲府では14時50分に到着して15時28分に発車するなどの長時間停車が平気で設けられていたから、いくら乗り物好きでも退屈した。
中央東線の普通列車としては、かつて新宿から松本経由で長野まで直通していた通称「山男列車」、夜行441Mが知られているが、当時は上諏訪止まりになっていて、日中でも長野まで直通してくれる列車はなく、代わりに高尾から松本までロングランする列車が1日3本ほど運転されていた。

笹子峠を越え、甲信の境の急勾配を登り詰めて、八ヶ岳連峰や諏訪湖を眺めながら、少しずつ故郷に近づいていく鈍行列車の風情は、悪くは無かったけれども、松本からは18時02分発の1237Mに乗り換えて、冠着の峠を越え、姨捨から善光寺平の夜景を一望の下に見下ろしてから、長野への到着が19時32分、富士急行線と合わせて7時間もの長旅には気が萎えてしまい、故郷とは何と遠いのか、と思ったものだった。
さすがにリピーターにはならなかった。
 
 
そのような愚痴をこぼしたからであろうか、高校時代からの同級生が、
 
「甲府行きのバスに乗ると便利だよ」
 
と教えてくれた。
富士吉田駅前から河口湖畔を半周し、太宰治の「富嶽百景」の舞台となった御坂峠を越え、一面の葡萄畑の中を甲府盆地に下っていく、変化に富んだ車窓が楽しい路線バスだった。
 
 
太宰治が、御坂峠に住んだのは、昭和13年の9月から11月のことである。
 
『富士の頂角、広重の富士は85度、文晁の富士も84度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、124度となり、南北は117度である。
広重、文晁に限らず、たいての絵の富士は、鋭角である。
いただきが、細く、高く、華奢である。
北斎にいたっては、その頂角、ほとんど30度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。
けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、124度、南北は117度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。
ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであって、さうではなくて、そのやうな俗な宣伝を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。
低い。
あれくらゐの裾を持ってゐる山ならば、少なくとも、もう1.5倍、高くなければいけない』
 
という書き出しで始まる「富嶽百景」は、僕の大好きな1編である。
御坂峠の頂上にある天下茶屋に、井伏鱒二氏を頼って滞在した太宰と茶屋の母娘の交流や、甲府に住む女性との見合い話などが描かれている中で、何よりも、富士の描写が愛憎入り混じり、彼の故郷を描いた「津軽」にも似て、太宰の繊細な優しさを秘めた、屈折した心理が浮き彫りになっている。
 
 
『この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当ってゐて、北面富士の代表的観望台であると言はれ、ここから見た富士は、昔から富士三景の1つにかぞへられてゐたのださうであるが、私は、あまり好かなかった。
好かないばかりか、軽蔑さへした。
あまりに、おあつらひむきの富士である。
まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかへるやうにしている。
私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。
これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。
芝居の書割だ。
どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかった』
 
一方で、太宰らしい表現で富士山を見直している一節もあって、微笑ましい。
 
『私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。
富士は、のっそりと黙って立ってゐた。
偉いなあ、と思った。
 
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」
 
富士には、かなはないと思った。
念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。
よくやってる、と思った』
 
富士の姿を大学から見上げた時の僕の心境は、こちらの方が近く、大いに共感するくだりである。
 
 
御坂峠に滞在した太宰が、帰京する井伏氏を送りがてら、見合いのために甲府へ向かう場面があり、その時に富士吉田と甲府を結ぶバスを利用していると思われるのだが、途中の描写は全くない。
しかし、反対側の河口湖へ出た時には、戦前のバスの車内の様子が、事細かに描かれている。
 
『御坂峠のその茶屋は、謂はば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。
峠の頂上から、バスで30分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村といふ文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は3日に1回くらゐの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。
天気の良い日を選んで行く。
ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をして呉れない。
それでもときどき、思ひ出したやうに、甚だ散文的な口調で、あれが三ツ峠、向ふが河口湖、わかさぎといふ魚がゐます、など、物憂さうな、呟きに似た説明をして聞かせることもある。
河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、60歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしゃんと座ってゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックをしょった若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆって、口もとを大事にハンケチでおほいかくし、絹物まとった芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、いっせいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一瞥も与へず、かへって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そっとすり寄って、老婆と同じ姿勢で、ぼんやりと崖の方を、眺めてやった。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあったのだらう、ぼんやりひとこと、
 
「おや、月見草」
 
さう言って、細い指でもって、路傍の1箇所をゆびさした。
さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
3778米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすっくと立ってゐたあの月見草は、よかった。
富士には、月見草がよく似合ふ』
 
富士吉田から甲府まで、現代のバスでも2時間を要するが、運賃は大月回りより少しばかり安くなった。
数回利用してみたけれども、九十九折りの坂道に前後を挟まれた御坂峠に差し掛かると、曇り空になってしまうことが多く、太宰が眺めたような「おあつらひむき」な富士の姿すら、拝む機会には恵まれなかった。
今日はいい天気だぞ、と思っても、富士の頂は雲を被っているのである。
 
 
甲府の街は、前年の浪人時代に初乗りした「中央高速バス」甲府線で曽遊の地であった。
高速バス路線が、まだ、それほど多くなかった時代である。
浪人生だった1年前の僕は、気晴らしのために、手軽に乗れる高速バスを探していた。
心境が煮詰まった時などに、ふらりと乗り込める1番のお気に入りは「東名ハイウェイバス」東京-静岡線だったけれど、「中央高速バス」甲府線も、高尾・笹子の険しい山越えの後に広がる、甲府盆地の雄大な車窓に魅了された。
ただし、予約が必要な座席指定制であったから、予約不要で、早く乗車停留所に並べば好みの席を選ぶことが出来る定員制の「東名ハイウェイバス」に比べれば、何となく敷居が高かった。
 
乗り換えの待ち時間を使って、古びた市街地を散策したこともある。
甲府の駅舎や駅前通りは綺麗に整備されていたけれど、少し離れれば、城下町らしく狭い路地になった。
鍵状に曲がった街路を、大柄な高速バスが、徐行しながら抜けていた。
 
 
平成18年4月、ちょうどNHK大河ドラマで新田次郎原作の「武田信玄」が放映されていた年であったと記憶しているが、山梨交通と川中島バスが、甲府と長野の間に高速バスの運行を開始した。
1度だけ乗ってみたことがあり、鈍行列車より遥かに快適で、高速道路からの眺望は鉄道よりも視点が高くて見晴らしが効き、加えて特急列車を利用するよりも格段に安かったから、教養学部時代に運行していたならば、富士吉田-甲府線と合わせて常連客になったことだろうと思ったのだが、僅か1年半後の平成19年10月限りで廃止されてしまった。


寮で生活した1年間では、富士吉田から本栖湖・精進湖、そして白糸の滝を経て新富士駅に向かう路線バスや、山中湖畔をたどり、箱根裏街道を通って籠坂峠を越え、雄大な富士の南斜面を下っていく御殿場や三島行きのバス、または富士急行線に沿って鄙びた山村を行く大月行きのバスなどに、休日になれば乗りに出かけたものだった。
富士山麓の四季折々の美しい風土を僕に教えてくれたのは、富士吉田を起点にした、様々な方面への路線バスだった。
 
 
期末試験も終わり、無事に進級が決まった僕らは、1月末日に部屋を慌ただしく片付けて、大きな荷物は実家や東京の新居に宅急便で送ってから、富士吉田駅前に三々五々と集まった。
ところどころに除雪された雪が残る駅前は、久しぶりに陽射しがぽかぽかと暖かく、抜けるような青空が広がる小春日和の日だった。

殆どの学生が、新宿行きの高速バスを待っていたが、僕は、甲府行きの路線バス待ちである。
賑やかに雑談しているうちに、新宿行きの「中央高速バス」が先に姿を現した。
僕らの門出を祝ってくれているかのように、ピカピカの新型ハイデッカー車両である。
 
「じゃあ、東京で会おうぜ!」
「元気でな!」
 
などと声を掛け合いながら、仲間たちがバスに乗りこんで行く。
見送りという立場も悪くないもので、窓の中の見知った顔を見上げていると、1年間の思い出が脳裏に蘇ってきて、少しばかり感傷的な気分になる。


実習で一緒のグループになってから親しくなり、普段からよくお喋りしていたM子が、僕が1人になった頃合いを見計らったように、女子のグループから離れて、笑顔で僕の前に立った。
 
「1年間ありがとう」
「なに言ってんだよ、4月から、また東京で一緒じゃないか」
「うん、そうなんだけど……しばらく会えないじゃん」
 
物怖じせず、勝気で男まさりな性格、と同級生からは評されていたけれど、話してみれば、気配りのできる優しさを併せ持った女性だった。
 
「気をつけていけよ」
 
僕は、乗客の列の後ろに並んだM子に手を振ろうとした。
M子は、はにかんだような表情を浮かべ、不意に僕の手を握って、
 
「東京でデートしようね!」
 
と囁き、小柄な身体をバスの中に翻した。
予想もしなかった彼女の言葉と、ひんやりとした手の感触に、呆然として佇む僕の前で、ゆっくりとスイングドアが閉まり、新宿行き「中央高速バス」は、エンジンを吹かして動き出した。
 
富士山が、雪と雲を抱きながら、真っ青な空を背にして、駅舎の背後から僕を見下ろしていた。
ふと、今日こそは、御坂峠から富士山を望むことが出来るような気がした。
 
 
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