ごんたのつれづれ旅日記

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さあ、御一緒に紙上旅行に出かけましょう!


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昭和63年2月の週末のこと、新宿駅西口を定刻21時10分に発車した秋田行き夜行高速バス「フローラ」号は、ほぼ満席の乗客を乗せて走り出した。
踊るような波をイメージしたという、白地に明るいオレンジ色のカラーリングに、「FLORA」のロゴが大書されている秋田中央交通の車体である。
 
 
「フローラ」とは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神の名前であるが、如何にも女性的な響きで、例えば、東京と伊豆急下田を結ぶ特急列車「踊り子」にも通じるものがある。
 
地名や山岳・河川名、旧国名などを特急や急行列車に冠することが多かった国鉄において、「踊り子」は異例の愛称と受け止める人が少なからずいたようで、紀行作家の宮脇俊三氏は「背中がむずがゆくなるような愛称」「あの国鉄がこのような軟弱な名称をよくぞつけたものと思う」などと、複数の著書で繰り返し取り上げている。
昭和56年に特急「踊り子」が登場した時、川端康成氏の小説から採ったと思われる愛称に、僕はそれほど違和感を感じなかったのだけれど、その前身は伊豆の名山の名を冠した特急「あまぎ」と急行「伊豆」であったことから、そう言われてみれば特殊な例かもしれず、世の中にはこだわる御仁もおられるのだなあ、と感じ入ったものだった。
 
 
乗り物の愛称を決める作業は意外と難儀なことのようである。

東京と博多を結ぶ寝台特急列車に「富士」と名付けようとしたところ、列車の運行時間帯には富士山が見えないと異論が出て「あさかぜ」に変更したり、北陸新幹線の列車名に石川県関連のものがなく、知事が「『かがやき』があるから良しとする」と皮肉を言ったり、東海道新幹線の「ひかり」より速い列車名を決める委員に選ばれた阿川佐和子氏が、父親の阿川弘之氏から「1つだけ言っておく。日本国鉄の列車の名前は歴代すべて大和言葉でつけられてきた」と釘をさされて、候補の1つであった「希望」の大和言葉である「のぞみ」を提案するに至ったことなど、厄介なエピソードに事欠かない。


内田百閒先生が、昭和28年に山陽本線に登場した特別急行列車「かもめ」に乗車した際にも、
 
『この新特急第5、第6列車は「かもめ」と云う呼び名で登場したが、あまりいい名前ではない。
戦前の「燕」の姉妹列車に「鷗」と云うのがあって、東海道線を走っていたが、これはその言葉に意味はなくても、同じ線を同じ様に走るので、「つばめ」のメ、「かもめ」のメの押韻に趣きがない事もなかった。
今度の新「かもめ」は第一にそう云う使い古しの名前を持ち出して、新しい所を走る新しい列車に冠したと云うのが智慧のない話だし、京都博多の間に鷗にゆかりのある海が見える所はそう長い距離ではないから、今度の様に「かもめ」と云う言葉に意味を持たせて、瀬戸内海に沿って走るからと云うのは、こじつけである。
糸崎から分かれて海岸線を広島に出る呉線の列車なら、鷗に縁がない事もないだろう。
ところがこの列車は糸崎から先のその辺りで段々に山と山の間に這入り込み、無暗にカーブして山の裾をうねくね廻り、山の鴉を脅かして走るのだから、特別急行「からす」と云った方がよかったかも知れない(春光山陽特別阿房列車)』
 
と、珍しく列車名に言及している。
 

宮脇俊三氏も上越新幹線の愛称を検討する委員会に出席し、絶滅寸前の「とき」を速達列車につけるのは憚られる、地元の人に迷惑な雪を冠する「雪国」など言語道断、「つばめ」は悪くないけれどもツバメは新潟に飛んで来ない、などと喧々囂々の議論に巻き込まれた挙げ句に、
 
『そんな経験もあって、列車の愛称をつけるのも大変なんだなあと、当事者に同情するようになり、気に入らない愛称でも、とやかく言う気はなくなった(「終着駅」)』
 
と書いている。
上越新幹線の速達列車の愛称が「雪国」となれば、「踊り子」に次いで川端康成氏の小説の登場となったはずであるが、最終的には朝日山地に由来する「あさひ」に決まり、長野新幹線が開業すると「あさま」と取り違えやすいという理由で、各駅停車の愛称であった「とき」に統一されてしまう。


宮脇先生も、上記のようにしおらしく書いておきながら、続く「あさま」についての文節では、
 
『しかしながら、浅間山は暴虐な活火山で、天明3年の噴火では熔岩が北麓の村落を埋め、1400人もの死者を出している。現在でも噴煙を上げ、火山性地震を起こし、いつ何をしでかすかわからない山だ。在来線の特急「あさま」が親しまれてきたとはいえ、新幹線の愛称にしてよいかどうか、一考してもよいのではないだろうか』
 
などと注文をつけてしまうほど、乗り物の愛称とは誰もが一言口を出したくなる厄介な代物なのである。

 

 
片や、それまでの夜行高速バスの愛称と言えば、国鉄バスの「ドリーム」を筆頭に、「ムーンライト」「ノクターン」「サンライズ」などと夜や朝をイメージしたものばかりだったので、「フローラ」も、宮脇先生が聞けば背中がむずがゆくなるのかもしれない。

そもそも、秋田の地と、花と春と豊穣を司る女神と、どのような繋がりがあるのかが分からない。
東北が我が国有数の穀倉地帯であることや、みちのくで暮らす人々が春を待ち望む気持ちはよく理解できるし、最近の「○○ドリーム××」などのように、安易に地名をくっつけただけの愛称よりはマシと思っているのだが。
 
 
「フローラ」号の始発地は新宿の高層ビル街の一角にあるホテルセンチュリーハイアット(現ハイアットリージェンシー)で、当時の運輸省が、事業者から申請された高速バス路線の審査に当たって、路上ではなく専用スペースのある停留所を起終点として推奨していたことが一因と言われている。
そのため、東京側の運行事業者である小田急バスが絡む夜行高速バスの大半は、ホテルセンチュリーハイアットを発着していた。
 
他社でも、新宿を発着する関東バスの高速路線は中野車庫を、池袋を発着する西武バスはサンシャインプリンスホテルや大宮車庫を起終点にしているといった例が少なくない。
わざわざ始発地まで足を伸ばさなくても、乗り換えに便利な駅を経由するのだから、ほとんどの乗客には関係のない裏事情だけれども、小田急電鉄バスの「箱根高速バス」や都営バスが乗り場として使用している新宿駅西口ロータリーに面した停留所が専用スペースではないとする解釈には首を傾げざるを得ず、運輸省の指導だけではなく、自社系列のホテルに乗客を誘導する目的があったのかもしれないと思ってしまう。
 
 
何処を経由しようと、乗客にしてみれば、都合の良い停車地で乗降すればいいだけの話なのであるが、「フローラ」号に新宿駅西口から乗る場合に、困ることが1つだけある。
始発地ではないために、バスは発車時刻の間際にならないと現れないのだ。
 
夜行高速バスに乗車する時は、嬉しくて、また乗り遅れが怖くて、自宅を早目に発ち、停留所に1時間以上も早く着いてしまうのが常であった。
内田百閒先生も同様であったらしく、「阿房列車」には、早くから駅にやって来て時間を持て余している場面が少なくない。
 
「賢い人はこのような乗り方はしないようである」
 
などと百閒先生は謙遜しておられるが、待ち時間も、旅の貴重な一部である。
前途への期待に胸を膨らましながらバスを待つのは、旅の過程で最も楽しい時間の1つではないだろうか。
 
まして、小田急ハルク前に設けられた停留所の周辺には、時間を潰すための店舗に困ることはない。
ハルクの裏通りに店を構える居酒屋「やまと」もその1つで、古びた店内に1歩足を踏み入れれば、ガヤガヤとした喧噪や威勢の良い店員の声が溢れ、もうもうと紫煙が漂っているという、昔ながらの大衆居酒屋といった感じである。
生ビール が180円などと飲み物の価格が安いことが評判で、人気No.1メニューの焼きそばナポリ味をはじめ、軟骨揚げ、活き鰺のたたき、トロたく、もつ煮などの料理も豊富である。
 

座席は3フロアに300席もあって、見知らぬ客と詰め合って坐る形になるために、1人では入りづらいけれども、「フローラ」号に乗る晩は、数人の大学の友人と誘い合って痛飲し、夜行バスに乗るからと中座して、指定されていた最前列右側の横3列独立シートに収まった時には、いささか酩酊していた。
友人たちもしたたかに聞こし召していて、見送りに行くなどと言い出す輩がいなかったのは幸いとも言うべきで、秋田に何しに行くのか、と突っ込まれることもなかった。
 
そもそも秋田に用事などないのである。


「フローラ」号は、僕が乗車した月に登場したばかりの出来たての新路線で、首都圏から東北へ向かう夜行高速バス路線としては、昭和61年12月に開業した品川-弘前線「ノクターン」号に続く2番目の登場であった。
 
「ノクターン」号の開業前には、県庁所在地でもない地方都市を発着する夜行高速バスに、果たしてペイするだけの利用者が根付くのか、という危惧が囁かれたと聞く。
この頃に走っていた夜行高速バスは、東京と名古屋、京都、大阪を結ぶ国鉄「ドリーム」号と、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号、そして東京と仙台・山形を結ぶ東北急行バスなど数える程しかなく、山形を除けば、政令指定都市を相互に直結した路線ばかりであった。
 
蓋を開けてみれば、「ノクターン」号は大変な人気路線に成長し、連日、片道3台以上のバスが必要となる利用者が押し寄せたのである。
首都圏や関西圏、中京圏といった大都市圏とダイレクトに結べば、地方都市を起終点にしても夜行高速バスは成立する、という我が国で初めての試みが成功したという点で、「ノクターン」号は、全国に高速バス路線が次々と登場するきっかけを作ったことになり、現在に通じる高速バスの元祖と言ってもいいのではないかと思う。
 
 
東北方面の夜行高速バスとして2番手となった「フローラ」号は、運行距離が668km、当時は「ノクターン」号に次ぐ国内2番目の長距離を走る高速バスであったから、バス旅に魅了されていた者としては、早々に乗ってみたくなったのも無理はない。
 
「ノクターン」号と「フローラ」号が結ぶ弘前と秋田が、東京を発着する東北方面夜行高速バスの先陣を切った理由は、容易に想像できる。
どちらの街も、東北新幹線や東北本線といった鉄道幹線から離れた日本海側に位置して、鉄道で行き来するには不便な地域であったためであろう。
 
 
「フローラ」号は首都高速4号線の新宿ランプから高速道路に入り、三宅坂JCTで都心環状線に合流、江戸橋JCTで6号向島線、堀切JCTで川口線へと、首都高速道路を次々と渡り歩いて、川口JCTで東北自動車道に入ったはずであるが、僕は、出発早々眠りに引き込まれてしまった。
 
「ノクターン」号も同様であったが、「フローラ」号には乗客が降車できる開放休憩はなく、河内SA、国見SA、前沢SAで、運転手交代のために停車するだけである。
途中休憩はバス旅の楽しみの1つではあるけれど、無ければ無いで、眠りを妨げられることがないので、決して悪いこととは思わなかった。
車内には、客室中央部のトイレや洗面台をはじめ、無料のコーヒーやお茶のパックを備えた温水・冷水器もあり、何1つ不自由は感じない。


 
秋田は曾遊の地である。
今でこそ秋田自動車道や秋田新幹線が開通して便利になっているものの、「フローラ」号が開業した時代は、新幹線も高速道路もなく、気が遠くなるほどの僻遠の地だった。
 
僕が初めて秋田に行ったのは、この旅の2年前にあたる昭和61年3月、大学受験に行く弟に付き添ってのことである。
東京から秋田へ行くならば、福島から奥羽本線で北上するものとばかり思いこんでいた僕は、母に弟の付き添いを頼まれて、切符を買いに行った駅の窓口氏から、東北新幹線で一気に当時の終点の盛岡まで北上し、田沢湖線の特急列車「たざわ」に乗り換える行き方が最速と聞いて、仰天したものだった。
 
受験を控えて緊張している弟に何かと気を遣いながらも、一足先に東京で大学生活を送っていた僕は、初めて通る田沢湖線の山深い車窓に目を奪われっぱなしだった。
結局、秋田の大学に行くことはなかったけれど、進学してから早々に自家用車を買い、どこへ行くにも車ばかりとなった弟とは、その後、一緒に汽車旅をした記憶がない。

田沢湖線を改修して秋田新幹線が開業したのは、平成10年のことである。

 
「フローラ」号は、鉄道とほぼ同じコースをたどる。
深夜の東北自動車道を北上し、盛岡ICから国道46号線で奥羽山脈を越えながら西へ向かうコースは、夜間走行で車窓が楽しめる訳ではないけれど、弟との鉄道旅行を思い浮かべて懐かしかった。

ぐっすり熟睡していた僕は、夜中に、喉が乾いて目を覚ました。
車内はすっかり照明が落とされて、僅かに足元を照らす通路灯のぼんやりした明かりの他は、漆黒の闇に包まれている。
あちこちから寝息が洩れて、動く人影はない。
 
足を忍ばせてサービススペースから汲んできたお茶をすすりながら、運転席との仕切りカーテンの隅をそっとめくってみると、運転手さんの頭が真下に見えた。
客室の床面が高いスーパーハイデッカー車両であるから、運転席との落差は小さくない。
 
息を呑んだのは、前方に展開する景色である。
暗いフロントガラスに吹きつける粉雪を、巨大なワイパーがゆっくりと拭っている。
ヘッドライトに照らし出される路面は、降り積もった雪に覆われて、完全に真っ白だった。
 
時刻は午前3時を回っており、岩手県内を盛岡ICに近づきつつある頃合いであろうか。
運転手さんは全く動ずることなく、時々コーヒーが入った紙コップに手を伸ばしながら、悠然とハンドルを握っている。
そうか、秋田のバスだったな、と肩の力を抜いた。
雪道には慣れているに違いない。
雪道を走る車に乗っていると何かと不安を感じるものだが、この時は、運転手さんの落ち着きぶりと、バスの揺るぎのない走りっぷりにすっかり安心して、しばらくハイウェイの雪景色を堪能しているうちに、いつしか眠りに落ちていた。
 
 
盛岡ICで500kmあまりの高速走行を終えた「フローラ」号は、秋田街道・国道46号線で秋田まで100km余りに及ぶ東北横断に挑む。
雫石を過ぎると、標高894mの仙岩峠に向けて、本格的な登り坂が始まる。
 
雫石という美しい地名の由来は、木の根元から湧いた清水の雫が、岩を伝って落ちる様子から付けられたと聞く。
後に、平成10年の冬季オリンピックの開催を、僕の故郷である長野市と最後まで争ったライバル候補地として知られることになるが、この旅の当時は、そのような因縁になることなどは想像もしなかった。
 
 
数年後に仙台と秋田を結ぶ高速バス「仙秋」号で、同じ経路を日中にたどった時には、ところどころに雪の塊が残る雫石川の河原が、いつの間にか目もくらむような下方に遠ざかり、田沢湖線の単線の線路が小さく見えた。
鉄道でこの辺りを通った時には、両側に山肌が迫る谷底に張りついていたような印象が強く、国道とこれほどの標高差があるとは思わなかった。
幾重にも折り重なる東北の脊梁山脈が、見渡す限り延々と続いている様は、息を飲むほどに雄大で、国道46号線は、断続するトンネルと高い橋梁で山から山へと渡っていく。
東北道と接続している秋田への大動脈にしては道幅が狭く、はみ出し防止のためにセンターライン上に置かれた赤いポッドが、カーブでは大型車に無残に踏み潰されている。
 
「フローラ」号は、この大変な山道を雪の季節に越えたのか、と信じられない思いに駆られたものだったが、幸か不幸か、夜の山越えで目を覚ますことはなかった。

 
身体を左右に揺さぶられた気がして、ふと目をあけてカーテンの隅をめくると、「フローラ」号は横手盆地の北端をかすめて、協和町のT字路で国道13号線に右折するところだった。
奥羽本線に沿って山形県を縦断し、福島と秋田を結ぶ幹線国道である。
まだ窓外は真っ暗だったけれど、周囲が開けて道幅が広くなり、行きかう車が増えた気配は感じられる。
対向車のヘッドライトが眩しくて、すぐにカーテンを閉めた僕は、睡魔に誘われるままに再び瞼を閉じた。


「フローラ」号の秋田到着は、定刻ならば早朝6時50分であるが、悪天候にも関わらず若干の早着となり、奇跡のような運行である。
9時間あまりの夜間航海は、着いてみれば呆気なかった。
何度か目を覚ましながらも、到着間際までひたすら眠りを貪っていたから、東京から600km以上も離れた土地に来たという実感がなかなか湧いてこない。
 
2年ぶりにやってきた秋田の地であるけれど、街並みがどのようであったのか、雪が積もっていたのかどうか、記憶は全く曖昧である。
そもそも、まだ真っ暗だったのだろうと思う。
バスを降りた瞬間に、吹きつけてきた寒風に身体の芯まで冷えきって大きく身震いしたことと、バスの車体が、前夜とは打って変わって泥で薄汚れていて、よくぞここまで走り切ったと、労をねぎらいたくなったことだけは、はっきりと覚えている。
 
 
「ノクターン」号で弘前を訪れた1年前には、奥羽本線の列車に乗り継いで青森まで足を伸ばし、わざわざ青函連絡船で函館に渡ったものだったが、秋田からはどこにも寄り道せず、もちろん、きりたんぽやしょっつる鍋も味わう暇すらなく、朝1番の飛行機で東京にとんぼ返りして、旅そのものをそそくさと終えてしまった。
午後に友達と会う約束をしていたような気もするのだが、この年の3月をもって青函連絡船が廃止される予定で、大変な混雑になっているに違いないと、煩わしく感じたことも一因だったかもしれない。
 
その前に弟と来た時も、ホテルに弟を置いてすぐに東京へ引き返したため、秋田の街についての記憶は、平成7年に「仙秋」号で再訪するまでのお預けとなった。
 
 
「フローラ」号のその後の歩みは「ノクターン」号と同様に順風満帆で、平成9年8月の秋田自動車道の開通を受けて高速道路に経路を乗せ換え、協和町と角館市に停車する便も運行を開始した。
秋田まで無停車の直行便は「フローラEX」号に改称されたのだが、平成20年に協和・角館経由便は廃止され、直行便の愛称が元の「フローラ」号に戻されている。
多少の紆余曲折はあっても、登場以来30年以上もの長い期間を、大きな事故もなく、東京と秋田を結んで走り続けているのだ。


昭和37年8月に開業した老舗路線である東北急行の浜松町-仙台・山形間夜行バスは、容易に後継者を生み出さなかったけれども、昭和61年12月開業の「ノクターン」号と昭和63年2月開業の「フローラ」号の成功を受けて、その後、雨後の筍のように東京と東北を結ぶ高速バス路線が続々と開業することになった。
この2路線の功績は大であると言えるのではないか。


昭和63年7月:東京-盛岡「らくちん」
昭和63年10月:渋谷-鶴岡・酒田「日本海ハイウェイ夕陽」
昭和63年11月:東京-平「いわき」
平成元年3月:池袋-大館・鷹巣・能代「ジュピター」
平成元年7月:東京-青森「ラフォーレ」
平成元年7月:品川-宮古「ビーム1」
平成元年7月:東京-八戸「シリウス」
平成元年7月:横浜・浜松町-大曲・横手・田沢湖「レイク&ポート」
平成元年12月:池袋-気仙沼・盛・釜石「けせんライナー」
平成2年8月:新宿-仙台「政宗」
平成2年12月:池袋-花巻「イーハトーブ」
平成3年12月:浜松町-天童・新庄「TOKYOサンライズ」
平成4年2月:東京-羽後本荘「ドリーム鳥海」
平成4年10月:赤羽・大宮-鶴岡・酒田「夕陽」
平成6年3月:八王子-仙台「ニューエポック」
平成10年7月:新宿-郡山・福島「あぶくま」
成11年10月:新宿-会津若松「夢街道会津」
平成14年10月:品川-弘前「スカイターン」
平成14年12月:池袋-六ヶ所・青森「ブルースター」
平成15年4月:新宿-仙台「ドリーム政宗」
平成17年3月:市ヶ谷・新宿-仙台
平成17年3月:上野-青森「青森上野」
平成17年4月:東京-古川「ドリームササニシキ」
平成17年8月:板橋・さいたま-仙台
平成17年9月:横浜・品川-仙台「ドリーム横浜・仙台」
平成17年12月:上野-青森「パンダ」
平成18年3月:新宿-仙台・石巻
平成18年10月:横浜・東京-郡山・福島「ドリームふくしま・横浜」
平成19年4月:池袋-遠野・釜石「遠野・釜石」
平成20年3月:横浜・東京-秋田「ドリーム横浜・秋田」
平成22年3月:東京-青森「津輕」
平成22年3月:新宿-野辺地・青森「えんぶり」
平成25年3月:東京-盛岡・久慈「岩手きずな」
平成26年8月:新宿-三沢・むつ「しもきた」
 


中には、鶴岡・酒田発着路線のように2系統が1本に統合されたり、6年で消えてしまった「ブルースター」号や板橋-仙台線、はたまた僅か1年で廃止された市ヶ谷-仙台線のような短命の路線、季節運行になった「えんぶり」号や「しもきた」号のような路線もあるけれど、東北地方に向けての高速バス開業ラッシュが一時期のバブルで終わることなく、新幹線や航空機の台頭で鉄道からは夜行列車が次々と消えていく趨勢の中で、今でも大半の路線が運行を続けているのは、立派であると思う。
 
バスファンとして、これらの東北方面路線の引きも切らぬ開業ぶりを眺めながら、この街にも高速バスで行けるようになった、あの町にまで高速バス路線が伸びた、と心を躍らせたものだった。
毎月、新しい時刻表には、必ずと言っていいほど高速バスの新路線が加えられて、時刻表のページをめくることが、あれほど楽しかった時代はない。
 
実際に乗りに行ったこともある。
もちろん、旅の最大の目的は新規に開業した高速バスそのものだったけれども、訪れた土地の風情に心が洗われて、来て良かったと感じることも多く、このブログでも、その幾つかを紹介させていただいた。
 
東北急行バス東京-仙台・山形線:『最長距離バスの系譜(1)』
 
 
「日本海ハイウェイ夕陽」・「夕陽」号:『日本海ハイウェイ夕陽号で行く庄内の旅』
 
 
「けせんライナー」号:『みちのく高速バス紀行(4)』
 
 
「ドリーム鳥海」号:『サンセット号で行く北陸の旅』
 
「ニューエポック」号:『みちのく高速バス紀行(1)』
 
 
板橋・さいたま-仙台線:『日本中央バスで行く北陸の旅』
 
「ドリーム横浜・仙台」号:『太宰治の「津軽」に惹かれて 終章』
 
「ドリームふくしま・横浜」号:『原発事故に揺れる街へ』
 
†ごんたのつれづれ旅日記†


昭和の終わりから平成にかけて幾つかの高速バスに揺られた、東京発みちのく行きの旅路について、これから、かいつまんで書いてみたいと思う。
 
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