ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「東北急行バス」東京-山形線、急行「べにばな」、急行「とがくし」、「中央高速バス」新宿-富士五湖線】

 

 

富士吉田の昭和大学教養部の寮生活が9ヶ月を過ぎた、昭和60年の師走のことである。

年内最後の講義が終った翌日の夕方に、僕は年末年始の帰省のために、富士急行線富士吉田駅から、新宿高速バスターミナル行きの「中央高速バス」に乗り込んだ。


信州が故郷である僕は、実家への帰省に際して、「中央高速バス」新宿-富士五湖線や、同じく新宿駅へ向かう大学のチャーター便を利用することはあまりない。

富士急行線で大月まで出て、下り特急「あずさ」に乗るのが一般的な方法であったが、当時、大月に停車する「あずさ」は2時間に1本程度で、タイミングを見計らわないと大月で待ちぼうけを食らう可能性があり、富士吉田から甲府に向かう富士急行の路線バスに揺られ、中央東線に乗り継ぐ方法を好むようになった。 



ところが、この日は、富士急行線や中央東線にも甲府行きの路線バスにも乗らず、「中央高速バス」を選んだ。

数人の友人たちと一緒に、僕が坐ったのは最後部の横5列席の真ん中だった。
両側の席を友人が占めていたからそれほど気兼ねはいらなかったけれど、窮屈であることに変わりはなく、補助席は使っていなかったので、僕の前は通路が真っ直ぐ伸びているだけである。
もし急ブレーキをかけたり衝突でもしようものならば、前方に放り投げられてしまったことだろう。
当時の旧型のバスの客席に、果たしてシートベルトがついていたのか、よく覚えていない。
 
運転手が、中央道上り線の渋滞がひどく新宿への到着が大幅に遅れる見込みであることを、出発直後にあらかじめ案内していた。
理由は覚えていないが、無性に疲れていた僕は、発車して間もなく熟睡してしまい、ふと目を覚ますと、小仏トンネルの手前で渋滞に引っかかっている真っ最中だった。
覚醒した時、静まり返った車内の乗客の冷ややかな意識が、僕に向けられているような気配を感じた。
最後尾の席をいいことに、後ろを気にせずリクライニングをいっぱいに倒していたから、車内に響き渡るような大鼾でもかいてしまったのかと大いに焦ったのだが、隣りの友人がとどめに一言、
 
「よう寝とったなあ」
 
と呆れたように言ったものだから、ますます恐縮した。
 
「皆さん、鼾をかいて申し訳ありませんでした!」
 
などと謝罪しようがないだけに、非常に気まずい感覚である。
身を縮めて猛烈に内省している僕を乗せて、バスはのろのろと黄昏の山々を下り、八王子の本線料金所が見えてきた頃、運転手が、
 
「皆様、トイレ休憩は如何致しましょうか。この先の石川PAも混雑が予想されますので、よろしければこのまま進みたいのですが」
 
とアナウンスした。
すると、前方に坐っていた若い女性が手を挙げて、
 
「あの、トイレに寄っていただかないと、困ります」
 
と、泣きそうな、か細い声を上げた。
 
当時の「中央高速バス」富士五湖線には、トイレのない車両も少なからず見受けられたのである。
既に30分以上遅れていて、定時運行ならば新宿に着いている頃合いであったから、彼女の苦境は察するに余りあるのだが、石川PAへの流入路にも本線にはみ出すほど、ぎっしりと車の列が出来ていて、駐車場に入るだけでも少なからず時間を費やし、結局、新宿には1時間近く遅れての到着となった。



新宿から山手線を半周し、僕は、夜の帳に包まれた浜松町バスターミナルに足を運んだ。 

国鉄浜松町駅から貿易センタービルへの渡り廊下を抜けると、煌々と照明に照らし出されて賑やかな駅構内とは空気が一変して、1階のバスターミナルへ降りるエスカレーターは薄暗く、どことなく場末の雰囲気がある。

初めての夜行高速バス体験となった国鉄「ドリーム」号に乗車した時に、足を踏み入れた東京駅八重洲南口も、夜になると似たような寂しさだったが、浜松町バスターミナルは、輪をかけて人影がなかった。

 

長野に帰るのに、浜松町に来て何をするのか、と思われるだろうが、当時、長野電鉄のスキーバスが浜松町バスターミナルを起終点にして志賀高原へ運行していた。

このバスは、昭和36年7月に、東京と長野・湯田中を結んで毎日の定期運行を開始した同社の「志賀高原-東京特急バス」が元祖で、開業当初は、我が国で最も長距離を走る路線バスだった。

昭和40年代になって、鉄道の速度向上や道路混雑の増大などを理由に利用者数が減少し、季節運行のスキーバスとして細々と生き残っていた。

 

1度は乗ってみたいと思わせる伝統路線であるが、この日、それに乗るつもりはなかった。

スキーに行く訳でもない人間がスキーバスに紛れ込めば、どれだけ肩身の狭い思いをするのだろう、と思えば、故郷へ直行する唯一のバスであっても、さすがに躊躇ってしまう。

 

 

昭和59年当時、我が国で運行されていた定期の夜行高速バスは、東京と名古屋、京都、大阪を結ぶ「ドリーム」号と、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号、この年に開業したばかりの池袋と新潟を結ぶ「関越高速バス」、そして、浜松町と仙台・山形を結ぶ東北急行バスが存在しているくらいであった。


帰省のためと称しながら、この年の初夏に東京発京都行きの「ドリーム」号に乗り込んだり、高速バスファンとしての欲求を満たすために、長野と全く関係のない寄り道をする悪い癖を覚えてしまった僕は、今度は、浜松町発山形行きの東北急行バスに乗ってから、長野へ帰るつもりでいる。


 

翌々年の昭和61年に開業した弘前行き「ノクターン」号を皮切りにして、宮古、舞鶴、岡山、鳥取、米子、徳島、今治方面へと拡大した京浜急行の路線や、相模鉄道と羽後交通が運行する田沢湖行き「レイク&ポート」号など、浜松町バスターミナルに数多くの夜行高速バスが乗り入れるようになるのは、もう少し先の話で、僕が初めて利用した時代は、東北急行バスの仙台・山形行きの2路線だけであった。

 

利用客と覚しき人々が、大きな荷物を傍らに置いて、あちこちに置かれた長椅子を占めているけれども、誰もが黙りこくって殻に閉じこもり、軒を並べるバス会社の窓口もシャッターを固く閉ざしている。

東京では日中になると寒さが緩むこともあり、この日はそれほど寒さが厳しく感じられない日であったが、東北に向かう客は、一様に厚着に身を包んでいた。

 

うら淋しい夜のバスターミナルに身を置いてみれば、自分が世の中からはみ出しているかのような、うらぶれた気分に襲われるのは、半年前に「ドリーム」号を待っていた時と同じである。

せっかく日程を確保して、乗車券も手配していると言うのに、何の用事もない山形までわざわざ夜行高速バスで出掛けていく行為が、虚しくも馬鹿馬鹿しいことであるかのように思えてしまう心境は、扱いに困る。

 

 

東京と仙台、山形を結ぶ長距離バスの歴史は古い。

東武鉄道、宮城交通、会津乗合自動車、関東自動車、東野交通、福島交通、山形交通の出資により設立された東北急行バスが、東京-仙台線と東京-山形線、東京-会津若松線の運行を始めた昭和37年6月まで遡る。

東京と長野を結ぶ特急バスが登場した1年後で、東北急行バスが運行距離日本一の座に就いたのである。

 

 

開業当初の東京-山形線は昼夜行1往復ずつ運行されていた。
 

東京発8:00-山形着18:43
東京発21:30-山形着7:30
山形発10:15-東京着20:42
山形発20:00-東京着6:06
 

所要時間は10時間から10時間30~40分程度である。


ちなみに、東京-仙台線は1日4往復(夜行1往復)、東京-会津若松線は1日2往復、そして昭和39年に新設された東京-松島線は1日3往復が運行していた。

どこに向かう系統も宇都宮、西那須野、黒磯、白河、郡山に停車し、会津若松系統は郡山から猪苗代、会津若松へ、山形系統は福島に停車してから米沢、上ノ山、山形、そして仙台系統は福島から白石、仙台へという経路である。

東京-宇都宮間は3時間15分・350円、東京-郡山間は6時間30分・640円、東京-福島間は7時間40分・750円、東京-会津若松間は8時間23分・800円、東京-仙台間は9時間45分・900円、東京-松島間は10時間45分・930円、東京-山形間は10時間43分・930円であった。
 

 

その後、東京-仙台線は増便され、
 

東京発9:00→仙台着19:10
東京発10:00→仙台着20:10
東京発11:00→仙台着21:10
東京発13:00→仙台着23:10
東京発21:00→仙台着7:25
東京発22:00→仙台着7:55
東京発23:00→仙台着8:45
 

という昼行便4本・夜行便3本の下り便と、
 

仙台発9:00→東京着19:10
仙台発10:00→東京着20:10
仙台発13:00→東京着22:55
仙台発21:30→東京着7:22
仙台発22:00→東京着7:52
仙台発22:30→東京着8:30
仙台発23:00→東京着9:00
 

と、昼夜行の本数が逆転している上り便が運行されていた時期もあった。
上り下りで昼夜行の本数が異なっていたり、微妙に所要時間が違うあたりが興味深いが、10時間前後も費やして国道4号線を行き来するバスが、これほど多数運転されていたことには、驚くばかりである。

 

同時期の長距離夜行鈍行列車を使えば、上野と福島の間が6時間、仙台までが8時間、山形までが10時間半と、東北急行バスと似たり寄ったりの所要時間で、それでも特急や急行列車を選ばない利用者が少なくなかった時代である。

鈍行列車と変わらない廉価な運賃で、4人向かい合わせの固いボックス席より居住性に勝るリクライニングシートを備えている長距離バスに、一定の需要があったのだろう。

全線を一般国道で行くバス旅、1度は経験してみたかったと思う。

 

 

様々な点で、半世紀前よりも我が国の暮らしは便利で快適になったはず、と思っているのだが、東京と山形や仙台の間を10時間で移動していれば良かった世の中を、ふと羨ましくなるのは何故であろうか。

 

時代はどんどん目まぐるしくなり、高速化された鉄道や増加する一方の自家用車などに押されて、この欄に掲載されていた長距離バスは殆どが姿を消し、東北急行バスも減便を重ねて、僕が高速バスファンになった昭和60年代には、東京と山形、仙台を結ぶ2系統が夜行1往復ずつだけという体たらくになっていた。

 

昭和60年の年の瀬に、東京-京都間の「ドリーム」号に続く2度目の夜行高速バス体験として、僕が仙台行きを選ばなかった理由は、はっきりと覚えている訳ではない。

より雪深い街を、訪れてみたかったのかもしれない。
少しでも距離の長いバスに乗ってみたかったという、マニアらしい動機だったのかもしれない。

 

 

浜松町バスターミナルの乗り場に横づけされたバスは、旧型の観光タイプで、乗り込んでみれば、恐縮してしまうくらいに古びていた。


「ドリーム」号でも、年季の入った車両を使っているものだと感心したが、「ドリーム」号の座席は鉄道のグリーン車と同じ柄のシートで、前後10列と、多少はゆったりしていた。
東北急行バスの客室は、普通の観光バスと同じ構造や座席配置のように思えて、おそらく前後は11列、長距離路線としての配慮が全く感じられなかったと言っても良い。

このようなバスに乗るのは、高校の修学旅行以来ではないか、と思う。
 

僕があらかじめ指定されていた座席は、前から2列目で、足元には、前輪のタイヤハウスが盛り上がり、窮屈この上なかった。
座席の幅も狭い。
僕の隣りに座ろうとしたおっさんは、舌打ちして別の座席に移ってしまった。
空いていたから、好きな席に座れたのである。 

 

 

浜松町バスターミナルを出発してから、バスは、東京駅、上野駅、東武浅草駅、北千住駅、新越谷駅、岩槻駅と丹念に停車していく。

一般道の区間と途中停車駅が多い昔ながらの運行形態が残されていて、そのために9時間にも及ぶ長い車中になっているのだが、なぜか心が安らいだ記憶がある。

東京、上野、浅草はともかく、越谷や岩槻と東北を行き来する人々がどれほどいるのだろう、と首を捻りたくなるけれども、少ない需要を大切にするのが、バス輸送の本髄なのだろう。

 

岩槻ICからようやく東北道に入るのだが、福島県に入って間もなく、須賀川ICで降りてしまい、深夜の須賀川停留所と郡山駅に停車する。
郡山ICから再び高速に戻るものの、1時間足らずで福島西ICを降りて、福島駅に寄る。

僕は、この時の東北急行バスで、昭和30年代の長距離バスの片鱗を味わったと言えるだろう。

 

 

浅草駅から先のことを全く覚えていないから、窮屈な座席でもよく眠ったのだと思う。


ふと目が覚めると、バスが停まっているのに気づいた。
暖房のせいか、無性に喉が乾いて、飲み物を手に入れたくなり、席を立った。
何処かのサービスエリアにでも停車しているのかと思ったが、そこは福島駅前だった。
時刻は深夜の3時すぎである。
休憩扱いをしているのかどうか定かではなかったけど、運転席は空っぽで、扉が開いていたから、バスから離れなければ置いてきぼりにされることはないだろう、と思った。


3年前に東北新幹線が開通したばかりで、まだ古い駅舎の時代だったはずだが、その佇まいは全く記憶に残っていない。
降りた客がいたのかどうかも、定かではない。
バスは、公衆トイレの真ん前に停車していたから、用足しもできた。
暗闇の中に、一切の明かりが落とされた福島駅の看板がかすかに浮かんでいたが、煌々と輝いていた自販機の方が印象に強い。

夜空に吸い込まれていく自分の白い息を見上げながら、みちのくに来たのだな、と嬉しくなった。
 

わずか数分の滞在時間だったとは言え、東北急行バスが、僕を、生まれて初めての福島の地に連れてきてくれたのである。

現在も山形行き夜行便は運行されているけれど、平成20年に、福島駅での停車扱いは廃止された。

 

 

深夜の福島を発車したバスは、国道13号線で米沢を経由して山形へ向かう。

 

明治9年に、当時の山形県令が「交通の整備が県を発展させる」として建設し、明治天皇から「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名されたことを起源とする古き道である。
県境の栗子峠に掘削された栗子山隧道は866mで、明治初頭としては無謀とも言える長さであったという。
昭和36年に改修された際に、旧栗子山隧道の南側に新しく穿たれた長さ2376mの東栗子トンネルと、長さ2675mの西栗子トンネルは、完成当初、国内屈指の長大トンネルだった。

 

車窓は漆黒の闇に覆い尽くされて、そのような歴史に思いを馳せるものは何も見えなかった。

時折り、曇った窓ガラスを明るく染め上げる街灯に照らし出された道端は、そそり立つ白い壁に覆い尽くされていた。
バスの走行音も、路面の雪を噛む、モコモコとくぐもった音に変わっていた。

 

後に、日中ではあるけれど、同じく厳冬期の栗子峠をバスで越えたことがあり、東北急行バスは、よくぞ夜中にこの雪の峠道を走ったものだと舌を巻いたものだった。

 

早朝6時過ぎ、9時間に及ぶ旅を終えて、バスはまだ真っ暗な山形の山交バスターミナルに到着した。

まだ眠りから覚めていない山形市内は、深い雪の中に沈んでいる。
僕は、まだ誰も歩いていない歩道の新雪を、キュッキュッと鳴らして踏みしめながら、前の夜に乾ききった東京にいたことが信じられない思いで、山形駅に向かった。

 

 

時間が有り余っていたので、路線バスで山形駅から蔵王ロープウェイ駅まで往復して雪景色を楽しんだ。


雪の山道は、故郷でも経験がある。

忘れ難いのは、小学5年生の冬に、戸隠にあるスキー場に向かった時である。

当時、長野市の善光寺の裏手から飯綱・戸隠に向かう有料道路「バードライン」は、往復2車線が確保されているとはいえ、急勾配や急カーブの多い難路で、冬ともなれば路面にびっしりと雪が積もった。

戸隠の県営スキー場で小学校のスキー教室が開かれることになり、その1週間前であったか、家族で下見がてらスキーをしようという話になり、運転する父はスパイクタイヤに履き替えた自家用車にチェーンを巻いて出発したのである。

ところが、大座法師池の手前にある長い直線の登り坂で、車がスタックしてしまった。

うちだけでなく、他の乗用車も難儀して、なかなか車列が前に進まない。

おそらく、雪の下が凍結してチェーンでもグリップしなかったのであろうし、除雪された雪が両脇に積もって道路幅が狭まっていたのだろう、対向の路線バスとすれ違うために停車した車が、次々と動けなくなったものと思われる。


僕らの車の直前まで迫った路線バスの運転手が、窓から首を出し、ハンドルを握る父に向かって、


「もっとこっちに寄って!もっと!大丈夫だから!」


と、雪が深い路肩から脱出できるように声を掛けてくれたことを、今でも覚えている。

翌週に、小学校がチャーターした貸切バスで戸隠に向かった時も大雪だったが、バスは難なく急坂を登っていったので、バスは雪に強いのだな、と子供心に感心したものだった。


蔵王に登る道路も一面の雪景色で、ところどころに立ち往生している乗用車を、バスが事もなげに追い抜いていく様子に、幼い頃の雪道の思い出が脳裏に蘇るとともに、幾許かの優越感にひたったものだった。



山形駅に戻った僕は、9時28分に発車する新潟行き急行「べにばな」1号に乗り込んだ。 


奥羽本線を南下し、米沢駅で米坂線に分岐すると、いきなり、蔵王にも増して凄まじい積雪が窓外を覆い尽くした。

山形と新潟の県境を隔てる飯豊山地と朝日山地を縫うような線区であるから、雪深い土地を行くことは承知していたつもりだったが、列車より背の高い雪の壁には、度肝を抜かれた。

雪は音を吸収するのであろうか、ディーゼル急行はエンジンを唸らせながら急坂を登っているはずだが、客室には、モゴモゴと車輪が雪を噛んでいるような気配しか伝わってこない。

不思議な静寂に支配された、雪国の急行列車だった。

 

分水嶺の宇津峠、荒川が削る赤芝峡、鄙びた温泉宿が建つ鷹ノ巣温泉などを、吹雪の幕を通して見た記憶は辛うじて残っているけれども、米坂線が羽越本線と合流する新潟平野の北端の越後下関駅に降り立つまで、とにかく僕を圧倒させたのは雪の量であった。

12時55分に新潟駅に到着した時には、よくぞ定時運転が出来たものだと安堵の溜め息をついた。

 

 

帰省であるから、新潟で長野行きの列車を捕まえなければならないのだが、接続が悪すぎて、18時04分発の急行「とがくし」4号まで、5時間も待たなくてはならない。

 

戦前には、上野から長野を経由して新潟へ向かう列車が運転されていたが、昭和6年に上越線が開通して以降の新潟と長野を直通する列車は、昭和36年に新潟と長野の間で運転を開始した急行「とがくし」と、昭和37年に新潟と名古屋の間を走り始めた急行「赤倉」があった。
僕が今回利用する直前の昭和60年10月に、「赤倉」は、運転区間を新潟-松本間に短縮して「南越後」と改称されていた。
 
当時、新潟から長野方面は、7時02分発の上田行き「とがくし」2号、8時14分発の松本行き「南越後」、そして長野行き「とがくし」4号の3本しかなく、逆方向は、長野7時26分発「とがくし」1号、上田12時45分発「とがくし」3号、そして松本14時07分発「南越後」というダイヤで、運転される時間帯の分布が、どうも中途半端である。
どうして、朝と夕方以外に新潟から長野への列車がないのだろう、と思う。
 
もちろん、新潟から北陸方面に向かう特急列車と、直江津から長野への列車を乗り継げば良いのだが、僕は直通列車に拘って、「とがくし」4号を待つことにしていた。
 
 
翌年の昭和61年に、急行「とがくし」と「南越後」は統合されて、消えた「赤倉」の名が復活し、グリーン車用の座席を用いたグレードアップ車両が使われるようになる。
今回の旅の数年後に、グレードアップされた「赤倉」に乗車し、グリーン車と同じ豪華な座席を占めて有頂天になりながら、大学の友人と長野から姨捨まで足を伸ばしたことがあるが、新潟から長野まで鉄道を利用したのは、昭和60年の師走が最初で最後になった。
 
平成3年に、3往復が運転されていた「赤倉」のうち1往復が、新潟-長野間を越後線経由で結ぶ快速「やひこ」に格下げされ、平成5年に「やひこ」は廃止される。
残り2往復も、平成9年に、高田-新潟間で運転されていた特急「みのり」に吸収され、急行「赤倉」は35年の歴史に幕を下ろす。
 
新潟-長野間を2往復、新潟-高田間を1往復で運転されていた特急「みのり」も、平成12年に長野発着の1往復が廃止、平成13年には残されていた長野発着の1往復も高田止まりに短縮され、新潟と長野を結ぶ優等列車は全て消滅したのである。
 

 

急行「とがくし」4号が新潟駅を発車する頃には、冬の短い日がすっかり暮れて、車窓は闇を映し出すだけだった。

 

それでも、急行とは思えないような快速で疾走していることが、揺れだけでも察しられる。

新潟平野の雪は、山形に比べれば少ないようだったが、それでも日本海の海岸線に近づく柏崎のあたりでは、窓から漏れる明かりに、猛進する列車が巻き上げる雪の粉がキラキラと照らし出された。

新潟から直江津までの136kmを、「とがくし」は2時間で走破する。

 

ところが、直江津から長野まで、半分程度の75kmという距離でありながら、「とがくし」は1時間40分も要する。

それだけ信越国境を隔てる山々が険しいのだが、僕は、この区間にこそ、信濃路の風情があると思っている。

 

 

幼少の頃から、父が卒業した大学のある金沢に、家族で出掛けることが多かったが、往路でよく利用したのは、長野を17時半頃に発車する金沢行きの特急「白山」だった。

日が短い季節では、長野を出てすぐに真っ暗な車窓になってしまうが、僕は特急列車で出掛けられることが嬉しくてしょうがなかった。

豊野駅を過ぎて牟礼駅のあたりに差し掛かると、千曲川の支流である鳥居川を挟んで対岸の国道18号線を飛ばしていく車が、「白山」を次々と抜いていくことに、特急でありながら何というのろさなのか、と憤慨した。

それでも、疎らに散りばめられた家々の灯や街灯、国道を行き交う車のライトに見入っているうちに、鄙びた沿線の夜景に心を打たれて、しん、と心が鎮まったものだった。

 

新井、妙高高原のあたりから雪が深くなったようで、「とがくし」4号の行き足が鈍り始めた。

県境を越えた黒姫駅の付近では、米坂線ほどではないけれども、列車の窓のすぐ下の高さまで積もった雪が、窓から漏れる明かりに照らされていた。

家々も、軒先に届かんばかりの雪に埋もれている。

 

黒姫駅では屋根からつららがぶら下がり、暗いホームにも固く雪がこびりついて、「とがくし」を降りた乗客が、足元を確かめながらゆっくりと歩いている。

改札に立つ駅員が、白い息を吐きながら、辛抱強く待っている。

 

故郷に帰ってきたな、と思った。

 

 

 

 

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