知多シーガル号昼行便で知多半島を訪ねた火宅寸前の家出旅 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成20年7月の週末の昼下がり、知多半田駅行きの高速バス「知多シーガル」号は、定刻14時30分に東京駅八重洲南口バスターミナルを発車して、八重洲通りから首都高速都心環状線宝町ランプの狭隘な料金所を、巨体を捩じ込ませるようにくぐり抜けた。

朝から高曇りの空模様だったが、気温は高く、外を歩くだけでじんわりと汗が滲んでくるような蒸し暑い午後になっていた。



東京駅のバス乗り場に「知多シーガル」号が姿を現した時の驚きの残渣が、頭からなかなか消え去らない。

てっきりハイデッカー車両なのだろう、と高をくくっていたところに、JRバス関東の見上げるようなスーパーハイデッカーが登場したので、これならば存分に車窓を眺められるな、と気分が高揚した。


運転手さんの改札を受けて乗降口のステップを昇ると、2度目の驚愕に見舞われた。

座席配置が、横3列の独立シートだったのである。

直前に購入した乗車券に記載されていた座席は3Cだった。

JRバス関東のバスは前から1、2、3、左からA、B、Cと席番を振っているので、僕に割り振られた座席は右の通路側か、と多少がっかりしていたのだが、横3列ならば地獄から天国とはこのことであろうか、右の窓際席になるではないか。


愛称の通り東京と知多半島を結ぶ「知多シーガル」号の開業は、この旅の1年前、平成19年6月のことで、昼夜行1往復ずつという運行形態であったにも関わらず、当初は横4列シートを備えたハイデッカー車が投入されたと聞いていたので、嬉しい驚きであった。

ちょうど1ヶ月前に、横3列独立シートのスーパーハイデッカーに更新されたばかりだったとは、後に知ったことである。


昭和の終わり頃から平成初頭に掛けて、猛烈な勢いで全国に路線網を張り巡らせた高速バスブームは、当初、座席は横3列、車両は眺望が良く天井が高くて居住性の良いスーパーハイデッカーと、事業者が豪華さを競っていた時期があった。

しかし、ブームが落ち着くにつれ、いや、バブルが弾けてから我が国の経済状況が失速するにつれて、事業者もコストを重視するようになり、長距離・長時間を走る夜行高速バスですら、横4列席に改造したり廉価なハイデッカーに買い換える路線が増える傾向があった。


「知多シーガル」号の車両更新は意外であり、珍しい部類に入るかもしれない。



鬱々としていた気分が、少しは晴れた気がした。

滅入っていたのは、通路側の座席を当てがわれて落胆していたとか、このクソ暑いのに更に気温の高い土地に行くのかとウンザリした、という意味ではない。


この日、僕は、妻と喧嘩して自宅を飛び出して来た。

いさかいの理由は、今となってはすっかり忘却の彼方である。

夫婦喧嘩で一家の主の方が家を出るとは何たることか、と憤慨するし、当てもなく道を歩きながらも、心に浮かんでくるのは、自分を正当化するための理屈と妻への非難ばかりである。

喧嘩とはそのような性質のものだろうが、いずれにしろ、後に振り返れば、互いに熱くなっているのに顔を突き合わせ続けるのは最良の策ではなく、冷却のために何方かがその場を離れるのは、決して悪くない選択だったと思っている。


ただし、その延長で、東京駅に来て高速バスに乗った心境を理解できるか否かは、意見が分かれるところであろう。

夫婦だから喧嘩することはあっても、その勢いでバスに乗ったのは、今回が最初で最後だった。

この日のことを思い浮かべるたびに、我ながら理解不能だな、と苦笑いが浮かんでくる。

せっかく自分の主張が正当であると信じているのに、ここで時間とお金を費やす趣味の世界に逃げ込むような行為は、幾許かの後ろめたさを伴い、立場が弱くなるような気がしないでもない。


妻はどう考えるのだろう、と思ったことが、その喧嘩で初めて妻の心境を思い遣った瞬間だった。

しかし、まだ怒りが完全に収まっている訳ではないので、妻がどう思おうが僕はもうバスに乗ってしまったのだ、その責は妻にある、などと、戦争を仕掛けた国家の指導者のような言い訳が、胸に込み上げてくる。


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僕がファンであるアメリカの俳優チャールトン・ヘストンは、ハリウッド随一の真面目な人柄で知られ、初恋のリディア夫人と最後まで添い遂げている。


あるインタビューで「長続きする結婚の秘訣は?」と聞かれたヘストンが、


「忍耐だ」


と答えたという逸話を、僕は忘れられない。

最初にこの発言を知った時には、思わず吹いたものだった。

まるで、奥様が暴君であると言っているに等しいのではないか。


今となっては、違う、と断言できる。

妻の振る舞いにひたすら耐える、という意味ではなかったはずだ。

一時的な感情の衝突で、お互いを深く傷つけ、関係を壊す事のないように、常に自重して気配りしている、彼の優しい心根を表現したものと信じている。


僕も、彼の言葉を思い浮かべながら、常に心がけてきたつもりだった。

何気ない一言で、いとも簡単に壊れてしまう人間関係もある。

引っくり返ってもチャールトン・ヘストンにはなれないけれど、これだけは真似できるはず、と思っていたのである。


喧嘩の挙句、「知多シーガル」号に乗り込んだ僕の行為を、妻は、忍耐の結果だと受け止めてくれるだろうか。



心が千々に乱れている僕を乗せて、「知多シーガル」号はビル街の谷間を縫う首都高速都心環状線から首都高速3号渋谷線に入り、用賀JCTで東名高速道路に移って多摩川を渡り、東京都を後にした。

各駅停車の「東名ハイウェイバス」ならば、最初の東名向ヶ丘バスストップで戻ることも可能だろうが、「知多シーガル」号は、足柄SAと浜名湖SAで途中休憩を挟むものの、最初の降車停留所は知立駅で、到着予定の19時08分まで降りられない。


そのような路線を意図的に選んだ訳ではなく、たまたま乗車経験のないバスだったからであるが、僕はそろそろ気弱になって来ている。

このような心境で5時間も過ごすのか、と思えば気が重い。


関東平野をひたすら疾走し、箱根越えの登り坂に差し掛かっても、どこか後ろ髪を引かれているような気分が抜け切らない。

この日は、丹沢山系も富士山もすっかり雲の中に隠れていた。

西へ行くほど空は暗くなり、ひと雨降るのではないかと思う。

もちろん、傘などは持参していない。


この便の乗客数は十数名程度だった。

お喋りに夢中の2人連れの女性客を除けば、誰もが1人旅のようで、それぞれの座席に収まって、自分の殻に閉じこもっている。

横3列独立席は快適であるけれど、他者との距離がそれだけ遠くなる。

僕の隣席を占める客はいないけれども、たとえいたとしても、横4列席で袖を触れ合わせているならばともかく、通路を挟んだ独立席で言葉は掛けづらい。

現実逃避をしなければならないのに、どうして、一人ぼっちで考える時間だけがたっぷりあるバス旅なんぞに出掛けて来てしまったのか。



足柄SAでの休憩でバスを降り、湿気は多いけれども都心部よりは爽やかな風に吹かれているうちに、少しばかり元気が出て来た。

遅くなったけれども、軽くお昼でも食べようか、という気分になる。

引き返すことなど出来はしないのだから、こうなった以上、とことん気晴らしをしなければ損である、と開き直ったのか。


足柄SAは、昭和59年に僕が生まれて初めての高速バスとなる「東名ハイウェイバス」上り便で、初めて休憩した思い出の場所である。

高速道路のサービスエリアも、その時が初体験だった。

僅か7分という短い休憩時間であったが、用足しを済ませて、売店で購入した軽食の内容も、ありありと思い浮かべることが出来る。


前年の4月に妻と結婚して1年あまり、ぱったりとバス旅に出掛けなくなったので、足柄SAで休憩するのは久しぶりであることに気づいた。

別に我慢していたのではない。

妻は、出掛けるならば自動車か飛行機派であり、休みともなれば連れ立ってドライブに出掛けたものだったし、僕もそちらの方が遥かに楽しかった。

妻のためなら、バス趣味なんか諦めてもいいや、と心底思っていた。


ところが、この日は、1人で久方ぶりの高速バスなんぞに乗る羽目になっている。

何たることか、と思う。

これは夫婦の危機、なのだろうか。



足柄SAを出た「知多シーガル」号は、富士の裾野の下り坂を一気に駆け下りて、富士川を渡り、由比の海岸に出た。

低く垂れ込めた雲が彼方の水平線まで続き、無数の白い波頭が狭い砂浜に打ち寄せている。

底抜けに明るい印象の強い東海道で、しっとりとした雨模様や曇天が似合うのは、清見潟くらいかもしれない、と思う。


波打ち際まで山塊が迫る薩埵峠を越え、興津、清水、静岡を過ぎて日本坂トンネルをくぐり、焼津、掛川、袋井、磐田と茶畑の中を呆然と進むうちに、大井川と天竜川もいつの間にか過ぎ去っている。

山あり海ありだった静岡ICまでの前半部分に比べると、後半部分の車窓は平穏だけれども変化に乏しく、昼間でも眠気に襲われる。



浜松ICを過ぎると、不意に、視界が見渡す限りの暗い水面で覆われた。

このようなところに海など見えたっけ、と眼を見開いたが、程なく、


『御乗車お疲れ様でした。間もなく浜名湖SAです。ここで10分の休憩を致します。発車は18時10分です。お乗り遅れなさいませんよう御注意下さい』


との案内放送が流れたので、海原のように思えたのは、浜名湖大橋の眺望であったことを理解した。

東名高速は何度も走っているはずなのに、浜名湖が、海と間違えるほど巨大であるとは気づいていなかった。

曇り空で視界が狭められていることも一因であろうか。



浜名湖西岸の三ヶ日ICを過ぎれば、間もなく県境で、「知多シーガル」号は愛知県に足を踏み入れた。


東京と愛知県を結ぶ高速バス路線と言えば、昭和44年の東名高速道路開通と同時に開業した昼行の「東名ハイウェイバス」や夜行の「ドリームなごや」号が筆頭であろうが、その他にも、平成2年開業の東京-豊川・豊橋・田原・伊良湖崎を結ぶ「伊良湖ライナー」号、平成3年開業の東京-岡崎・豊田・瀬戸・名古屋間「ドリームとよた」号、平成10年開業の新宿-春日井・名古屋間「ニュードリーム名古屋」号、平成19年開業の新宿-中津川・多治見・瀬戸間「中央ライナー」号、平成21年開業の東京-岡崎・三河安城・名古屋間「新宿ドリーム三河・なごや」号など、愛知県東部地域をきめ細やかに網羅している。


東名高速経由の「ドリームなごや」号と中央自動車道経由の「ニュードリーム名古屋」号など、漢字と平仮名の使い分けが判然としなかったり、平成21年に「ニュードリーム名古屋」号が「中央ドリーム名古屋」号に愛称が変更され、更に平成24年に「ドリームなごや・新宿」号と、意味不明の改名を繰り返したり、同じ年に「新宿ドリーム三河・なごや」号が「ドリームなごや・三河」号に改められたり、傍から見ていると不思議としか言い様のないダイヤや愛称の変更が繰り返されて、非常に複雑な運行系統に思えてしまう。

愛知県の人々は、よく使いこなしているものだ、と感心する。


それでも、これらの路線の大半には惜しむことなく2階建て車両が投入され、我が世の春を謳歌していた。

高速バスブームの象徴のような路線群だった。



これらの高速バス路線はJR東海バスの主導で展開されたのだが、確か「ドリームとよた」号の開業時だったか、地元の名鉄バスの反発を招き、対抗して自社でも同様の路線を検討せざるを得ない、という経営者の発言が報じられた記憶がある。

かつて、国鉄「東名ハイウェイバス」と同時に開業した渋谷-沼津・静岡・浜松・名古屋間の高速バスを走らせた合弁会社「東名急行バス」に、名鉄バスは出資していたのだが、昭和50年に同社は解散し、その後、名鉄バスの首都圏方面路線は、平成14年に京王バスと組んで開業した「中央道特急バス」新宿-名古屋線に留まっている。


JR東海バスの路線もまた、時代に翻弄され、栄枯盛衰を逃れることは出来なかった。

まずは、「伊良湖ライナー」号が平成18年に廃止され、豊橋鉄道バスによる新宿-豊川・豊橋・三河田原間「ほの国」号が4年後に開業して、後を継いでいる。

平成23年には「中央ライナー」瀬戸系統が運行を終了し、「ドリームとよた」号も、新型コロナウィルス流行の煽りを受けて、「ドリームなごや」号に統合される形で令和3年に姿を消してしまった。


30年近くも首都圏と中京を結んで走り続けた路線が、そのような運命をたどるとは、誰が予想できたであろうか。



そのような趨勢の中で、「知多シーガル」号は今でも健在なのだが、愛知県まで来れば、これまで乗車した様々な高速バスの思い出が胸中に甦ってくる。

高速バスがなければ、これほど愛知県内各地に足跡を記す機会などなかっただろう。


「伊良湖ライナー」号で降り立った伊良湖岬の光景が思い浮かんだり(「夜行高速バス伊良湖ライナーで椰子の実が流れ寄る最果ての岬へ」 )、上り便に乗車した「ドリームとよた」号では、次々と停車していく瀬戸、豊田、岡崎の街並みが暗闇で全く分からなかったこと(「懐かしの伊豆スパー号とドリームとよた号~伊東・修善寺・長沢・富士の裾野から名古屋への忙しい一人旅~」 )などを懐かしく思い出せば、「知多シーガル」号は、どのような土地を走るのだろう、と思う。

シーガル、とはカモメを意味するが、海に面した田園地帯の空を、長閑にカモメが舞っている光景を想像したりする。



ところが、幾ら夏の日が長くても、バスが豊田JCTで伊勢湾岸自動車道に分岐するあたりから、濃尾平野は黄昏に包まれ始め、豊田南ICで一般道に降りる頃には、仄かに明るさが残っているものの、窓外を過ぎ行く街の佇まいは、ぼんやりと霞んでしまった。

やたらに道路が広く、立て続けに行き交う車のヘッドライトが眩しく、それでいて建物の密度が中途半端なところに来たな、という印象しか頭に刻まれていない。


最初の停留所である知立駅北は、リリオホール前という注釈がついているものの、ここは何処なのか、と雑然とした場所だった。

後で調べると、リリオホールとはコンサートホールであったが、その時はスマホで調べる気力も残されていなかった。



知立の地名の起源は、「池鯉鮒」であると言う。

このように書いても何が何やらさっぱりであろうが、東海道五十三次の宿場町の1つに池鯉鮒宿があり、この読み方が「ちりゅう」であった。

この地に鎮座する知立神社の御祭神とされる「伊知理生命(いちりゅうのみこと)」の「知理生」が元々の由来で、古来「知立」と書かれていたらしいのだが、鎌倉期以降になると「智鯉鮒」と書かれ、江戸時代に「池鯉鮒」が一般的になったのは、知立神社にある御手洗池が鯉や鮒の産地であり、旨い魚料理で旅人を呼び込もうとした宿場の人々の遊び心ではなかったか、との説も唱えられている。

思わず唾を飲み込むような話であるが、我が国でも有数の難読地名では、東海道を行く旅人は戸惑ったのではないだろうか。


知立ばかりでなく、知多半島や知多市、そして愛知県など、「知」の字が多い土地であることは気になるけれども、知多市のHPに市名は知多半島にあるから、と明言されており、昔からこの地域が知多郡と呼ばれていたことを含めても、「知」の字の氾濫の理由は不明であるらしい。


ただし、愛知の名は、熱田神宮が鎮座している土地から知多半島北部に掛けて干潟が入り組んでいた時代に「あゆち潟」と呼ばれていたことが由来とされており、海から陸に向かって吹く風が豊かな恵みをもたらすと言う意味で「あゆち」と呼ばれていたとする説を目にしたことがある。

そう言われてみれば、愛知県には豊川、豊橋、武豊など「豊」の字を使う地名も少なくない。



桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る


年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ


万葉集に詠まれた2首の和歌に書かれた「年魚市潟」を「あゆちがた」と読み、知多の名も見受けられる。


とにかく、農水産物ばかりでなく、トヨタ自動車をはじめとする製造業など、実り豊かな土地にきたのだな、と思うけれども、漆黒の闇に灯りが浮かぶだけの車窓では、何も分からない。

葛飾北斎や歌川広重が池鯉鮒宿の松並木を描いているが、そのような風情が沿道に残っているのかいないのか、偲ぶ術すらない。

このような時間帯に運行する「知多シーガル」号が恨めしいけれども、高速バスに揺られながら、取り留めもない思索をめぐらす時間も悪くない。


続いて、バスは刈谷駅前に停車する。

刈谷市に来るのは初めてだが、刈谷駅は昭和31年に箏曲家宮城道雄氏が通過中の夜行急行「銀河」から転落して命を落とした駅として、宮城氏と親交が深かった内田百閒氏の著作に「東海道本線刈谷駅」「臨時停車」などと題されて何度か登場しているので、記憶に留められていた。

今はトヨタ自動車関連の工場が多く、賑やかな駅前を眺めながら、ここだったのか、と思う。



その後は、イオン東浦店前、生路、有脇、大池町、乙川西ノ宮と停車していくものの、聞き覚えのない地名ばかりで、闇の中をぐるぐる走り回るバスに乗っていても、何の感慨も湧いてくるはずがない。


知立駅から知多半田駅までおよそ1時間、暗闇の中を当てもなく彷徨っているかのような心細い道中になった。

窓の外は真っ暗、座っているのが横3列独立シートでは、運行時間帯の遅いバスと言うよりは、夜行高速バスに乗っているような感覚にさせられる。


家に帰りたい、と、この日初めて思った。

妻と喧嘩して夜行高速バスに乗ってしまったのなら、火宅の人、という不名誉なレッテルを貼られてもおかしくない。

火宅、とは、「法華経」の用語で「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」を指していると言う。

「知多シーガル」号は昼夜行1往復ずつの運行であるから、夜行高速バスと何ら変わりのない長距離・長時間の路線に乗り込むという危うい行為ではないか、と糾弾されてしまうかもしれない。

言い訳めいているけれど、それでも、一晩自宅を留守にするよりはマシである、と自分に言い聞かせた。


腰砕けと言われようとも、この頃から、僕は、この日のうちに何とか自宅に戻れないだろうか、と思うようになっていた。

刈谷駅で降りれば良かった、と臍を噛んだが、後の祭である。

残りの停留所が鉄道駅と接続しているのか、見当もつかない。



バスは国道155号線で境川を渡って大府市域に入り、国道366号線に左折して境川に沿って南へ向かう。

この川が、尾張国と三河国の境界であると言う。


知多半島の地図を見るたびに、何処からが半島なのだろう、と首を捻りたくなる。

名古屋市や豊明市、刈谷市の南に突き出した半島、と定義され、東海市、大府市、知多市、常滑市、半田市、東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町の5市5町の全域が含まれるが、大きく凹んでいる伊勢湾に面した西岸は長い海岸線を成しているものの、知多湾と三河湾に面している東岸は、境川が徐々に川幅を広げて、いつの間にか知多湾になっているような地形にしか見えない。


河岸が半島の輪郭になることはないはずなので、知多湾に流れ込む境川の河口が知多半島の東岸の始まりだと思うのだが、地図を見るだけでは判然としない。

知多湾に設けられた武豊港は、愛知県の最初の貿易港であり、今では自動車関連工場ばかりでなく石油化学工場や製鉄所が置かれた一大工業地帯を形成しているのだが、武豊港があるのが知多湾の最奥部の衣浦湾とされているので、同港付近が境川の河口なのだろうか。

ならば、武豊町の手前の半田市を終点とする「知多シーガル」号は、知多半島に足を踏み入れているのかどうか微妙だな、と思ってしまう。


伊良湖岬の突端を終点とした「伊良湖ライナー」号のように、知多半島の最南端である南知多町の羽豆岬まで行かないのはつまらないけれども、そこまで足を伸ばす乗客は殆どいないだろう。

名古屋を拠点に活躍するアイドルグループSKE48はこの旅の年に結成され、「羽豆岬」を発表して岬を訪れる観光客が増えるのは後の話である。



僕は、学生時代に、知多半島を訪れたことがある。


バス旅の記憶ほど明瞭ではないけれど、名鉄線の乗り潰しを目指して、前面展望車両の元祖である名鉄パノラマカー7000系特急電車に新名古屋駅から乗り込み、富貴駅で分岐する知多新線の終点、南知多町の内海駅まで足を伸ばしてから、途中の知多武豊駅に折り返して、国鉄武豊線に乗り換えたのである。

内海駅は、昭和55年の知多新線開通時にもっと海寄りに設置されるはずであったが、用地買収が難航したためにかなり内陸に設けられ、京浜急行三崎口駅に似た雰囲気の終着駅だな、と思った記憶がある。


武豊線の名は、昭和28年9月25日の台風13号の高潮により、武豊駅と東成岩駅の間で防波堤が決壊し、線路が流出した災害で記憶していた。

運転中だった武豊行きの列車に事態を知らせるべく、駅手の高橋煕氏が発炎筒を手に線路上を走り、列車の機関士が前方に振られる発炎筒に気づいて水際まで約400mメートルで非常停止、東成岩駅に後退したため、約30名の乗客・乗務員は難を逃れたのである。

しかし、高橋氏は武豊駅に戻らず、翌日午後に、両手で信号灯の容器をしっかり抱いた状態の遺体で発見された。

武豊駅前に建てられた胸像を見て、胸が熱くなった記憶は鮮明であるけれども、途中駅として通過したはずの知多半田駅のことは、脳裏に微塵も残されていない。

もとより、こうして高速バスで再訪することになろうとは、思ってもみなかった。



定刻20時08分からそれほど遅れることなく、5時間半の長旅を終えた「知多シーガル」号が到着した知多半田駅は、暗闇の底にひっそりと沈んでいた。

唯一、眩い照明が外に漏れてくる駅舎に足を踏み入れても、全く人影はない。

出札窓口に駅員がぼんやりと座っているだけで、改札の向こうで発車を待っている普通電車にも、乗客の姿は疎らだった。


1年半前に「中央ライナー」号で訪れた可児駅も、工業都市と言われる割には寂しげな駅前だったことを思い出し、時間を遡って可児駅に着いてしまったような既視感に襲われた(「中央ライナー可児号と夜行高速バスどんたく号、福岡・山口ライナーでタイムトラベルに酔う」 )。



1年半前の僕は独り者だったが、今は違う。


バスを降りるなり妻にメールを送ると、すぐに返信が返って来た。

ああ、気にしてくれていたのだな、と思うと、居ても立ってもいられなくなり、僕は駅頭で妻に電話を掛けた。

最初の遣り取りは、ごめんなさい、こちらこそごめん、の繰り返しで、それまでの心のわだかまりがすうっと消えていくような心持ちがした。

聞けば、僕が出ていった後に、妻はレンタルDVDをしこたま借りて来て、ひたすら鑑賞していたという。


『じゃあ、仲直り。それで、今、何処にいるの?』

「知多半島」

『え?名古屋の近くの?』

「うん」


妻は笑い出した。


『また、バス?』

「うん」

『懐かしいなあ、名古屋、私も行きたい。でも、今からじゃ新幹線、間に合わないよね』


妻は福岡出身だが、名古屋の大学を出ている。


「今度の休みに行こうよ。ドライブがてら」

『よし、決定、名古屋ね。あちこちいっぱい案内してあげる。手羽先とかひつまぶしとか、美味しいものをたくさん食べましょう。それで、帰って来れる?』

「帰る。絶対。今日の新幹線に間に合わせてみせる」

『分かった。寝ないで待ってる』


なかなか機会が得られずに先延ばしになってしまったが、時の政権が高速道路料金1000円均一という政策を打ち出し、それをきっかけに名古屋まで車で出掛けて、妻の出身大学やノリタケの森、名古屋港に係留されている砕氷船「宗谷」などを見て回ったり、地元の味覚に舌鼓を打ったのは、この旅の翌春のことだった。



駅の掲示板を見上げれば、折りよく、20時54分発の新鵜沼行き特急電車があるではないか。

これに乗れば、名鉄新名古屋駅まで50分あまり、名古屋22時12分発の最終の上り「のぞみ」64号に間に合う。


闇を衝いて名鉄河和線を快走するパノラマスーパー1000系特急電車と、前年に登場したばかりのN700系「のぞみ」の車中で、僕は初めて、新しい高速バス路線を体験したこの日の午後を、晴れ晴れとした気分で、肯定的に振り返ることが出来たのである。

旅の終わりは寂しさに襲われるのが常だったが、この時ばかりは違った。

最新鋭の新幹線車両でありながら、もっと速く走れないのか、と、もどかしく思う。


ただし、二度と、このような動機で旅には出ないぞ、と固く心に誓ったのは言うまでもない。


 

 

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