新宿駅南口のJR高速バスターミナルを、定刻11時30分に発車した可児行き「中央ライナー」号は、明治通りから甲州街道に左折して陸橋を越え、初台ランプから首都高速4号新宿線に駆け上がった。
平成19年が明けたばかりの週末の話である。
車内は20名ほどの乗客が席を占め、お喋りに夢中な女性のグループ客も混じり、少しばかり華やいだ雰囲気だった。
甲州街道の上に設けられた高架の両側には、ぎっしりとビルが建ち並び、葉の落ちた銀杏並木が防音壁の上まで枝を伸ばしているが、その間隔が少しずつ開き、無数の住宅の屋根が連なる郊外の景観が広がり始める。
高井戸ランプの先は中央自動車道であるが、東京から放射状に伸びている他の高速道路と首都高速の接続部と異なり、路肩や車線が狭いまま、きついカーブが続き、制限速度も首都高速と同じ時速60kmに抑えられている。
騒音防止に造られたという烏山シェルターを過ぎると、漸く道幅が広がり、三鷹料金所を過ぎれば時速80kmまで速度が上げられる。
昭和42年に中央道の調布IC以西が開通したにも関わらず、高井戸-調布間と首都高速4号線が同時に完成して繋がったのは昭和51年であり、古くからの住宅密集地に建設されたので、設計や用地買収に苦心したことが窺われる構造である。
他の高速道路のでは東京寄りの部分が片側3車線であるのに、中央道だけ片側2車線のままで、拡張もままならないのも、その現れなのだろう。
他の高速道路は、首都高速を出ると程なく東京を抜け出すのだが、中央道は、東西に細長い東京都を横断するので、高井戸から八王子の先まで、実に40km近くが都内区間である。
その代わり、関東平野の外縁を成す山々の懐に入るのは中央道が最も早く、八王子料金所を過ぎると、目に見えて道路の勾配がきつくなる。
山肌を覆う木々の緑は、夏に比べれば色褪せているものの、都心の木立ちよりは鮮やかである。
旅に出てきたのだな、と嬉しくなる。
小仏峠を1642mのトンネルで抜けて、相模湖畔を通り過ぎ、なだらかな山々に囲まれた談合坂SAで、最初の休憩が取られた。
バスを降りて空を仰げば、眩暈がするほど澄み切った冬晴れであるものの、容赦なく吹きつける木枯らしに、思わず襟元を掻き合わせた。
乾き切った東京に比べれば、雨か雪でも混じっているのではないか、と思うくらいに、ひんやりとした湿り気を含む風である。
談合坂SAで休憩するのは久しぶりだった。
昭和59年に東京の大学に進学し、入学式を終えてから富士吉田にある教養学部に貸切バスで移動した時に、トイレ休憩で立ち寄って以来ではなかったか。
中央道の高速バス路線と言えば、新宿と富士五湖、甲府、身延、諏訪・岡谷、松本、大町・白馬、木曽福島、伊那・駒ケ根、飯田、飛騨高山、名古屋を結ぶ「中央高速バス」が有名であり、僕も数えきれないほどお世話になった路線ばかりであるが、その休憩地は、甲府盆地を過ぎた双葉SAが定番だった。
平成13年3月に、JRバス関東とJR東海バスが新宿と名古屋を結ぶ「中央ライナー」号を1日2往復の昼行便で運行を始め、平成14年2月に「中央ライナー」号新宿-中津川系統を昼行1往復で開業、翌年7月には名古屋系統を3往復に、平成16年には4往復に増便している。
平成18年3月に中津川系統を多治見駅まで延伸し、同年7月には「中央ライナー」号新宿-可児系統が昼夜行各1往復で登場、同時に多治見系統を瀬戸駅まで延伸、「中央高速バス」とは一線を画して、東京と岐阜県及び愛知県東部地域を中央道経由で結ぶ路線網を開拓したのである。
ところが、「中央ライナー」号名古屋系統は、後に2階建て車両に更新されながらも1日2往復に減便されてしまい、瀬戸系統と可児系統は横4列席のハイデッカー車両が投入されていたので、なかなか食指が動かなかった。
「中央ライナー」号瀬戸系統は、平成23年に廃止されてしまい、同時に可児系統は「中央ライナー可児」号と改称されるのだが、今回の旅の当時は瀬戸系統は健在であり、僕がどうして可児系統を選んだのか、よく覚えていない。
瀬戸市は平成3年7月に開業した東名高速経由の夜行高速バス「ドリームとよた」号で訪れたことがあり、平成16年10月に開業した「中央高速バス」新宿-下呂温泉線で中津川駅に寄った経験もあるので、初訪問となる可児市を選んだのかもしれない(「下呂温泉への高速バスの物語~少し勿体なかった日帰り紀行~」 、「懐かしの伊豆スパー号~伊東・修善寺・長沢・富士の裾野から名古屋への忙しい一人旅とドリームとよた号~」 )。
まだ新宿を出て1時間半も経っておらず、新宿からおよそ2時間の双葉SAに比べれば、休憩には早すぎるのではないか、とも思うけれど、談合坂SAで身体を伸ばせば、これから「中央高速バス」よりも遠くへ向かうのだぞ、と気分が引き締まる。
談合坂SAを後にした「中央ライナー」号は、上野原、大月と、桂川が刻む渓谷を左に見下ろしながら山腹を進み、長さ4717mの笹子トンネルを抜ければ、幾重にも折り重なる山裾の彼方に甲府盆地が見えてくる。
他の車と揉み合うように、勝沼や一宮の葡萄畑に囲まれた急坂を駆け下り、坦々と甲府盆地を横断する頃になると、車内は少しばかり中だるみの様相を呈してくる。
北は秩父山地、北西は八ヶ岳連峰、西は赤石山脈と、甲府盆地を囲む山並みはどれも秀麗であるけれど、沿道に繰り返される田畑や工場、倉庫、家並みに代わり映えがなく、周りを見回すと、居眠りをする客が増えている。
双葉、韮崎を過ぎれば、信州に向けて八ヶ岳山麓を登る長い勾配が始まり、道端にススキが目立つようになって、一気に寒々とした光景に変わる。
八王子から甲府にかけての山越えに比べれば、勾配も曲線も緩やかに感じられるが、バスはギアを落としてエンジンを吹かし、速度が明らかに落ちる。
この日は、真っ白に雪を被った八ヶ岳連峰がはっきりと見えた。
ぽっぽっと黒っぽい雲の断片が峰の上に重なって浮かんでいるので、まるで八ヶ岳が噴火したかのようである。
小淵沢ICを過ぎると直ぐに長野県境で、157.3kmポスト付近で「中央道最高地点 1015m」の標識が目に入る。
以前は「日本高速道路最高地点」と書かれていた覚えがあり、如何にも信州に相応しかったが、平成12年に開通した東海北陸自動車道荘川IC-飛騨清見IC間の標高1085m地点に抜かれたのである。
この区間を走るたびに不思議なのだが、最高地点を過ぎてもなお、登り坂が続いているような気がする。
もちろん、車に乗っている人間の感覚など当てにならないことは、充分に承知している。
傾斜が緩ければ登り坂であることに気づかず、知らぬ間に速度が落ちて渋滞の原因になるのは、あちこちの高速道路で見られる現象である。
何処に向かうにも自分の足で歩かなければならなかった昔と異なり、動力を用いる移動手段を得た僕らは、地形に鈍感になってしまったのだろう。
長野県に入ってからも、しつこいほどに曲がりくねった山あいの区間が続くけれども、やがて右前方に青々と諏訪湖が広がり、対岸の塩嶺峠の向こうに飛騨山脈が見えるあたりは、中央道の車窓の白眉である。
平行する国道20号線をはじめ、他の一般道は全て湖面と同じ地平を走っているので、諏訪湖の全貌を俯瞰できる視点は、おそらく中央道が建設されてからのものであろう。
我が国最大級の4万発が打ち上げられると聞く諏訪湖花火大会では、湖面を見下ろす諏訪湖SAが大変な混雑を呈するらしく、今では当日の利用が制限されている。
平成10年頃だったか、帰省途上で茅野・諏訪・岡谷と長野を結ぶ高速バスを利用した時に、ちょうど諏訪湖花火大会の日に当たったことがあり、茅野駅を発車したバスは、そのまま諏訪南ICに入ってしまい、経由するはずの諏訪・岡谷の街が通過扱いになって、呆気にとられたことがあった。
僕は、故郷に登場した新しい高速バスに乗ってみたかっただけだから、珍しい体験をした、で済ませられたけれども、一大イベントというものは、日常生活を阻害し、停滞させかねない要素を避け切れない。
東京に出てきたばかりの頃、名にしおう隅田川花火大会をこの眼で見たくなって、総武線浅草橋駅に降り立ったところ、駅舎の中で立垂の余地もない混雑に巻き込まれて、まずは度肝を抜かれた。
「立ち止まらないで下さーい!あちらへ歩いて下さーい!」
警備員の声を枯らしての案内に従い、腹に響いてくる花火の音を遠くに聞きながら、何処に行けば花火が見られるのだろう、と首を傾げつつ隅田川を渡り、ビルの谷間を歩き続けているうちに、隣りの両国駅に出てしまい、ダメだこりゃ、と諦めたことを思い出す。
それ以来、幾度か花火見物に出掛けたことはあるけれど、いつも尻込みが先立ってしまう。
諏訪湖花火大会、一度は肉眼で見てみたいものだと思う人並みの願望はあるのだが。
諏訪湖の西岸で岡谷市の頭上を飛び越える長野自動車道の橋梁を横目に、中央道は天竜川に沿う丘陵の狭間をすり抜けて伊那谷に飛び出し、木曽山脈の山腹を南下していく。
天竜川の流れに沿う集落や河岸段丘に開かれた田園、その彼方に赤石山脈の峰々が連なる、中央道では珍しく伸びやかな景観である。
飯田ICを過ぎると、小仏、笹子、八ヶ岳南麓に次ぐ、長野と岐阜の県境の山越えに差し掛かる。
阿智PAの前後では、登り下りを繰り返しながら半径300mという急カーブが続き、これまでで最も走りにくそうである。
燃費も悪いのだろうな、と他人事ながら心配になる。
「危険物積載車両はここで出よ」との標識が立ち、緊急時に備えた本線上の信号機が物々しい8489mの恵那山トンネルを抜けると、「中央ライナー」号は、岐阜県に入ったばかりの上坂PAで2度目の休憩を取った。
いつしか青空が消えて、雲ばかりが空を覆っていた。
「中央ライナー」号は、美濃三河高原を削る土岐川に沿う中津川、恵那、瑞浪の盆地には見向きもしないが、多治見ICの手前で、肩の力を抜くようにふっと速度を落とすと、本線から流出路に逸れた。
暮れなずむ多治見駅前で客を降ろすと、バスは中央道に戻り、土岐JCTで、東海環状自動車道に進路を変えた。
片側1車線の対面通行という簡素な造りであるものの、土岐JCT-可児御嵩IC間10.5kmの間に、長さ1396mの久々利大平トンネルを筆頭に、222mの久々利第一トンネル、324mの久々利第二トンネル、911mの久々利第三トンネル、そして1539mの柿田トンネルと5つのトンネルが断続し、中央道よりも曲線が少なく、地形など眼中にありません、と言わんばかりの傲然たる構造である。
東海環状道は、愛・地球博の開催に合わせて、平成17年に、東名高速道路の豊田東JCTと東海北陸自動車道の美濃関JCTの間が開通したばかりだった。
このような山中に高速道路を作ってしまったのか、と首を傾げたくなるほど鄙びた土地であるが、東名、中央、東海北陸道を短絡するため、それぞれの渋滞の緩和に役立っているのだと聞く。
平成18年7月に開業した「中央ライナー」可児系統も、また多治見・瀬戸系統も、東海環状道の開通を見込んで登場したのであろう。
可児の名は、戦国武将明智光秀や織田信長に仕えた森蘭丸の出生の地として、また、かつて「日本ライン」と呼ばれた木曽川舟下りの起点として、更にトヨタ自動車の下請け部品工場が集まる工業都市として耳にしたことがあるけれど、どのような街なのだろうと思う。
ところが、真冬の日暮れは駆け足で、東海環状道のトンネルをくぐるたびに暮色が強まり、可児御嵩ICで高速道路を離れる頃には、すっかり暗くなっていた。
17時半過ぎに「中央ライナー」号が横づけされた可児駅は、JR太多線と名鉄広見線の駅舎が仲良く並んでいるだけで、暗い駅前に目ぼしい建物は見当たらない。
名鉄線のホームに歩を運んでも、閑散とした名古屋行きの真っ赤な電車が発車を待っているだけで、車掌が憮然と佇んでいる。
風が一層冷たくなった。
この地方で西から吹いてくる冬の季節風は、伊吹下ろしと呼ばれているらしい。
関ケ原の先にある伊吹山が、濃尾平野に風を吹き下ろすほど接しているとは意外だった。
僕はそのまま名古屋に向かってしまったので、せっかく訪れた可児の街並みを、殆ど記憶に留めていない。
何のために350kmもバスに揺られてきたのかと思うけれども、今回の旅の主眼は、可児でも「中央ライナー」号でもなく、九州なのである。
翌日の朝までに福岡に行かなければならない所用があり、ならば乗車したことのない名古屋と福岡を結ぶ夜行高速バス「どんたく」号を利用してみよう、と思い立ち、前日の午後も時間があいたので、名古屋の近くに向かう「中央ライナー」号可児系統も乗り潰してしまえ、という趣向だった。
名鉄電車は丹念に各駅に停まりながら、濃尾平野の北端にある可児から木曽川に沿って犬山に向かい、西可児駅の先にある733mの愛岐トンネルで愛知県に入った。
名鉄犬山線に乗り入れれば、名古屋までおよそ1時間の行程である。
犬山までは乗降客が全くなく、「次は○○駅です」の短い案内とともに、無為に扉が開け閉めされるだけだった。
僕は最後部の車両に乗ったので、この電車は僕と車掌を除けば空っぽではないかと思ったりする。
九州への途上で、このような寂しいローカル線の電車に揺られていることが、何だか不思議に感じられる。
この感覚こそが、寄り道の醍醐味なのだろう。
名古屋市街が近づくにつれて、窓外は多少賑々しくなったものの、長いこと闇の中を走り続けたので、地下駅である名鉄新名古屋駅のホームに降り立った時には、眼がくらくらした。
福岡行き「どんたく」号が発車する名鉄バスセンターは名鉄名古屋駅の真上に設けられているのだが、僕はJR名古屋駅の構内で夕食をしたためてから、バスセンターに踵を返した。
とっくに帰宅ラッシュが終わった構内の人影は少なく、岐阜や三重の近郊に向かう高速バスが待機している以外、3階の高速バス乗り場を出入りするバスも僅かである。
やがて、気怠そうな館内放送が、
『お待たせしました。3番、4番、5番乗り場に小倉・福岡行きが入ります。本日は3台の運行です。前から3号車、2号車、1号車の順です。御利用のお客様はお間違えのないよう、乗り場にお越しください』
と案内し、西鉄バスの見上げるようなスーパーハイデッカーが姿を現した。
3台とも全て塗装が異なる面白い運用で、僕が指定されているのは1号車である。
複数のバスが列を成して走る場合に、前から1号車、2号車、3号車、と号車番号順に並んでいるのが普通だと思い込んでいたのだが、逆に、数字の最も大きなバスを先頭にして1号車が最後尾になる隊列を見掛けたことがあり、子供の頃から不思議だった。
「何台も並んでいる時は、このバスが最後尾ですよ、と周りに教えるためだよ」
と誰かに教えられて、なるほど、と感心したものである。
西鉄バスも後者の主義なのかな、と思う。
乗ってしまえば、順番など全く関係ないので、どうでも良いことであるけれど。
名古屋と九州を結ぶ夜行高速バス路線は、
平成元年9月:長崎線「グラバー」号
平成元年12月:福岡線「どんたく」号
平成2年6月:北九州・大牟田・荒尾線「玄海」号
平成2年7月:熊本線「不知火」号
平成3年4月:佐世保線「西海路」号・大分線「ぶんご」号・鹿児島線「錦江湾」号
と、平成の初頭に続々と開業している。
「玄海」号は平成9年に、「西海路」号はこの旅の4年後の平成23年に廃止されたために、僕は乗れなかったものの、その他の路線は体験する機会を得られたのは幸いだった(「最長距離バスの系譜~平成元年 名鉄・長崎自動車グラバー号 966.0km~」 、「鹿児島から東京へ高速バスリレー~鹿児島発名古屋行き錦江湾号1101.4kmの旅~」 、「信濃路を十文字に貫く高速バスの旅~中央ライナー・不知火号・なんぷう号で九州へ 後編~」 、「名古屋-大分間夜行高速バス「ぶんご」号と大分-延岡間「わかあゆ」号で九州東海岸を行く」 )。
他にも、平成8年に「錦江湾」号が、平成28年に「ぶんご」号が、平成30年に「グラバー」号が、そして令和元年に「不知火」号が廃止され、「どんたく」号が孤軍奮闘という有り様になっているのは、寂しい限りである。
「どんたく」号は、僕にとって最後の名古屋発着九州方面路線であり、寄りによって九州最大の都会に向かう路線を乗り残していたのか、と考えれば、何となく可笑しいけれども、正解だったのかもしれない。
思い起こせば、僕にとって初めての九州上陸は、大阪発福岡行きの夜行高速バス「ムーンライト」号に乗車した昭和61年だった(「最長距離バスの系譜~昭和58年 西鉄・阪急バス ムーンライト号 658.2km~」 )。
当時、我が国の夜行高速バスと言えば東京と名古屋、京都、大阪を結ぶ「ドリーム」号と、東京と仙台、山形を結ぶ「東北急行バス」、そして「ムーンライト」号しかない時代である。
「ムーンライト」号の一夜は、今でもありありと思い浮かべることが出来るほど強烈な体験だった。
その便を担当したのが西鉄バスだったので、目の前の西鉄バスを見れば、20年以上前にタイムスリップしたかのような感覚になったが、悪い気分ではない。
今夜は、懐かしい過去に浸りながら酩酊してみようか、と思う。
大阪梅田の阪急三番街にある高速バスターミナルから「ムーンライト」号に乗り込んだ時、僕はしたたかに聞し召していた記憶がある。
今回は、まだ飲んでいないけれども、リュックには缶ビールと幾許かのつまみが仕込んである。
翌日の所用に影響しないように気をつけなければならないが、21時00分ちょうどに動き出した「どんたく」号の中で、僕は缶ビールの栓を開けた。
僕が座っているのは横3列独立席の左側の窓際で、車内はほぼ満席だったけれども、フェイスカーテンが備わっているから、前後や通路を隔てた隣席の客をそれほど気にする必要がないのはありがたい。
生まれて初めて横3列独立席に座って、あまりの心地良さに感激したのも、「ムーンライト」号だった。
あれから20年が経つのか、と思う。
タイムトラベルは懐かしくて甘酸っぱくて心地良いけれども、時にほろ苦く、切ない。
窓外を流れる車やビルの明かりが、ぼやけて滲んでいるように思えたのは、なぜだろうか。
「ムーンライト」号では、交替運転手さんが発車の直後に、
『本日は中国道に積雪の予報が出ておりますが、このバスはスパイクタイヤを履いております。どうか安心してお休み下さい』
と付け加えて、中国地方に雪が降るのか、と僕を仰天させたものだった。
冬用タイヤと言えばスパイクタイヤの時代で、粉塵公害が社会問題となり、スパイクタイヤが全面的に禁止されたのは平成3年のことである。
当然、「どんたく」号はスタッドレスタイヤを装着しているのだろう。
そもそも「どんたく」号は、中国道を殆ど使わない。
中国山地の懐を貫いているため、急な勾配や曲線が多く、冬になれば雪も降る中国道を避けて、名神高速道路と接続する吹田JCTから神戸JCTの間と、本州のどん詰まりが近づいた山口JCT以西を除けば、平成9年に全通した山陽自動車道を走破することになっている。
「ムーンライト」号が開業した当初は、関西と九州を結ぶ高速道路が中国道だけであったことを思い起こせば、改めて歳月の流れが身に滲みる。
加えて、平成20年から、名古屋と関西の間の運行経路が東名阪自動車道と新名神高速道路に変更されているのだが、今回の旅では、名神高速を使う昔ながらの経路であった。
「どんたく」号は名古屋市街を抜け出すと、一宮ICを目指して国道22号線名岐バイパスを北へ進み、庄内川を渡って清須市に入って行く。
庄内川は、先程通って来た中央道に沿って流れる土岐川の名が変じた川である。
清須は、清洲町、西枇杷島町、新川町が平成17年に合併した市で、桶狭間の戦いの前後に織田信長が根拠地としたことで知られる清洲と関連がある。
僕は、信長が清洲城で桶狭間への出陣前に、
「人間五十年 外天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」
と舞う「敦盛」の場面が好きなのだが、真っ暗な窓外を見回しても、住宅やビルの明かりがが見渡す限り広がっているだけである。
信長が最後に「敦盛」を舞ったのが本能寺の変で、「中央ライナー」号で訪れた可児出身の光秀と蘭丸が、皮肉にも敵味方に分かれたのか、と思う。
一宮ICから名神高速道路に乗ると速度が上がり、「どんたく」号は本領を発揮して、西へ一目散に走り始めた。
ハイウェイを行き交う車は多く、しかも、追い越していく乗用車やトラックの車間距離が東日本に比べて短いようである。
木曽川を渡れば、バスは間もなく濃尾平野と別れを告げて、伊吹山系と鈴鹿山脈の狭間に分け入り、琵琶湖の南岸に出る。
多賀SAで、消灯前の開放休憩が案内された。
用足しを済ませたり自販機で飲み物を手に入れたり、バスを降りた乗客は思い思いに過ごしている。
僕は、夜行高速バスに乗車した時の休憩時間が好きである。
程よい骨休みになるのと同時に、遠くまで来たな、という旅の実感が込み上げてくるからである。
昼前に東京を出て滋賀まで12時間近くか、と思いながら夜空を見上げたが、雲に覆われているのか、星の瞬きは1つも見えなかった。
仕事を早めに終わらせてからバスに乗り込んだので、何だかんだと疲れが溜まっていたのだろうか、それとも酔っていたのか、多賀SAを発車して消灯時間を迎え、客室が漆黒の闇に包まれてからは、ひたすら眠りを貪った。
「どんたく」号は、神戸市にある淡河PA、倉敷市の道口PA、そして岩国市の玖珂PAに立ち寄りながら、夜を徹して山陽道をひた走ったが、乗務員交代を目的とした停車であるので、乗客にはいっさい案内されず、僕も全く目を覚まさなかった。
西鉄バスの自社製のスリーピング・シートは、寝心地が良いことで定評がある。
リクライニングを一杯に倒して、心地よい揺れに身を任せながら、「ムーンライト」号に乗車した若かりし頃に戻ったような一夜だった。
『長時間の御乗車お疲れ様です。バスは定刻通りに運行しています。間もなく壇之浦PAです。こちらで15分ほど休憩致します。発車は6時ちょうどと致します。お乗り遅れのないよう御注意下さい』
囁くようなアナウンスに瞼を開けると、車内に淡い照明がポッと灯され、「どんたく」号は徐々にギアを落として減速し、壇ノ浦PAに滑り込んだ。
暖房が効いた客室を出れば、やっぱり身が凍える寒さだったが、東京や山梨、長野よりは多少の温もりが感じられる。
そして、強く湿り気を帯びた潮の匂い。
吐く息が白く立ち昇る空に視線を移せば、頭上を圧して、関門橋が一直線に九州の地へ伸びている。
手が届くような近さに見える関門海峡の対岸で、無数に瞬いているのは、九州の灯なのだ。
ああ、この感じだ、と思う。
ぞくぞくするのは、寒さのせいばかりではない。
初めて九州に行った時の「ムーンライト」号も、ここでひと休みしたことが、懐かしく思い浮かぶ。
鉄道や航空機、そして数え切れない程の高速バスで九州に渡ったけれども、関門海峡のたもとにある壇ノ浦PAにおける早暁の休憩ほど、遙々九州までやって来た、という旅情をくすぐる演出はないと思っている。
この旅で「どんたく」号を利用して良かった、と嬉しくなる。
関門海峡で白々と夜が明け始め、車内の照明も点きっ放しだったが、再び毛布を被って二度寝を決め込む乗客が少なくない。
僕も、6時40分着の小倉駅前、6時44分着の砂津、7時着の黒崎ICといった北九州の停留所の記憶が全く抜けているから、再び眠りに落ちたのだろう。
次に眼を覚ましたのは、博多駅交通センター到着を告げる案内が流れている時だった。
よく眠ったな、と大いに満足であるけれど、人々が颯爽と行き交う街並みをぼんやりと眺めていると、物凄く寝坊したような、後ろめたい心持ちになる。
名鉄バスセンターと同じくビルの中に設けられている天神バスセンターに到着したのは、定刻8時05分より幾分早めの時間だった。
壇之浦までは3台が一緒だったのだが、北九州や福岡市内で離れ離れになったのか、他の2台の姿は見えなかった。
所用を済ませて博多駅の近くで1泊すると、翌朝は雨だった。
もう東京へ帰るばかりであるけれど、この日は休みなので、航空機や新幹線で真っ直ぐ帰るような月並みな方法は、もとより眼中にない。
そうは言っても、あまり遅くならないうちに自宅へ戻りたい。
僕は、様々な行先のバスが出入りする博多駅交通センターに出向き、9時30分発の山口行き高速バス「福岡・山口ライナー」号で、九州を離れることにした。
乗り場に姿を現したのは、眼も覚めるような深紅に塗られたJR九州バスのハイデッカーで、横4列シートの大半が埋まるほどの盛況であった。
これほど福岡と山口の往来は盛んなのか、と蒙を開かれたけれども、「福岡・山口」号の前身は、昭和33年に開業した国鉄バスと西鉄バスによる「関門急行線」である。
同年の関門国道トンネル開通の翌日から、福岡と山口と間165kmを5時間15分で結ぶ長距離バスの運行が開始され、国鉄バスが1日6往復、西鉄バスが5往復を担当したという。
直後に西鉄、山陽電軌、防長交通、山陽急行バス・関門海峡汽船の出資により新会社・関門急行バスが設立され、「関門急行線」は関門急行バスと国鉄バスの相互乗り入れ方式となる。
しかし、山陽本線の電化と共に利用者数が減少し、昭和52年に運行が休止され、関門急行バスは解散したのである。
「関門急行線」の途中停留所は、博多駅を出て呉服町、箱崎宮前、福間、宗像署前、黒崎駅前、小倉駅、到津遊園前、八幡中央町、前八幡、門司駅前通り、、門司桟橋通り、藤松、門司大阪町、長府町、小月町、渡場、小野田公園通り、宇部小串通り、常盤公園前、小郡駅、湯田温泉、そして終点の山口駅であった。
昭和30年代に国道を使った長距離バスが全国に登場し、その記録を目にするたびに、もう少し早く生まれたかった、という羨望の思いに駆られる。
僕は、長さ3461mの関門国道トンネルを通ったことがない。
それどころか、現在は関門国道トンネルを使う路線バスが1本もなく、「関門急行バス」の停留所名で往時を偲ぶしか方法がない。
関門国道トンネルは、九州自動車道の関門橋とほぼ並行して掘削されており、九州側の坑口は和布刈神社がある古城山を南にくぐり抜けた先にあり、九州側で最初の停留所になる門司大阪町は、坑口に近い現在の老松町の一部である。
門司桟橋通り、門司駅前通りを経て八幡に抜ける道筋を、往年の時刻表と地図で追えば、まだ乗用車が少なかったであろう道路を颯爽と走る長距離バスの雄姿や、一般国道が我が国の道路交通の主役であった時代を心に思い描くことが出来るのが、せめてもの慰めである。
四半世紀ぶりの平成13年に復活した「福岡・山口」ライナーは、瞬く間に人気路線となり、後に増便も果たした。
山陽新幹線が通じていても、その駅は山口や宇部の市街地と離れているので、福岡と山口をバスで行き来する需要が厳然と存在していることを、「福岡・山口ライナー」は証明した訳である。
2匹目の泥鰌を狙ったのか、JRグループは平成15年に福岡と防府・徳山・光を結ぶ「福岡・防府・周南ライナー」号を開業し、また「福岡・山口ライナー」号と同じ年に、西鉄バスとサンデン交通が福岡と下関を結ぶ「ふくふく天神」号の運行を開始しているので、福岡・山口両県の行き来は、21世紀を迎えて格段に便利になった。
開業当初の「福岡・山口ライナー」号の停留所は、キャナルシティ前、福岡天神、宇部中央、小郡駅新幹線口、湯田温泉通り、山口米屋町、山口駅と、「関門急行線」に比べてかなり絞られている。
一般国道を経由する長距離バスではなく、高速バスなのだから当たり前だけれども、宇部を経由するところなど、長距離バス時代の経路がほぼなぞられているのは、胸が熱くなる。
山陽本線に宇部駅はあるものの、宇部の市街地は南に外れた宇部線の宇部新川駅の近辺だから、少しばかり遠回りになるのだが、昔の急行バスも今の高速バスも、福岡と宇部を行き来する需要を見逃せないのだろう。
ところが、折り悪しく雨脚が強まり、無数の水滴が弾ける窓ガラスに目を向けているだけで疲れてしまう始末で、ふと気づけば、雨に煙る関門海峡を渡っているところであった。
関門橋は福岡から山口までのほぼ中間地点にあたるから、勿体ないことをした、と臍を噛んだけれども、バスに揺られているだけでも、仕事に追われる日常より遥かに至福の時間であるのは間違いない。
「福岡・山口ライナー」号は下関JCTで宇部下関道路に入り、周防灘PAで10分の休憩を取った。
バスを降りると、雲は低くどんよりとしているものの、雨は上がっている。
名前に反して全く海が見えないPAであるが、吹きつけて来る風には、かすかに潮の香りが混ざっていた。
周りを囲むなだらかな丘陵も、一昨日に「中央ライナー」号で見た中央道沿線より、色彩が豊かであるように感じられる。
これからバスが向かう宇部の地名は、名産であるトキワアケビの別名「ムベ」が繁茂していた、「海辺」の読みが転じて「ウベ」になった、応神天皇が設置した宇治部の民が住んだ「宇治部里」が「宇部里」に転嫁した、などと諸説があると言う。
むべといふとまりにて さきの木にゐてなきければ ところからにや身にしみて よめる鳥の音も涙もよほす心ちして むへこそ袖はかはかさりけれ
12世紀に源俊頼が詠んだ歌に記されている「むべ」「むへ」が、宇部の名が文献に登場する最初であるという。
かつては、自然豊かで鄙びた土地であったことを偲ばせる。
バスは小野田ICで宇部下関道路を降り、国道190号線を東へ向かった。
この旅の当時は通過するだけだったが、「関門急行線」の停留所が置かれ、後に「福岡・山口ライナー」号も停留所を設置した山陽小野田市は、小野田と言えばセメント、と連想がすぐに浮かぶほどの我が国最大のセメント会社の企業城下町であり、東隣りの宇部市も、明治期の鉱山会社が前身の宇部興産で知られる。
「興産」の名を社名に用いたのは宇部興産の創業者が初めてであり、地域社会に有用な産業を次々に興す、との意味を込め、教育機関や港湾、ダム、上水道などの整備で地域に貢献してきた聞く。
宇部興産で特筆すべきは、工場と鉱山がある宇部市と美祢市を結ぶ全長28kmの「宇部興産専用道路」であろう。
石灰石とセメント製品を輸送するために、40t積みの大型トレーラーを2両連結した規格外の大型車両が行き交う専用道路を、中国道で見掛けたことがある。
「福岡・山口ライナー」号でも、何処かで「宇部興産専用道路」と並走したような記憶が残っていたのだが、どうやら思い違いのようである。
地図を開けば、経路上にそのような場所は見当たらず、宇部市内の国道190号線で直角に立体交差しただけだった。
宇部線の踏切で、石灰石を積んだ貨物列車を見掛けたから、それと混同したのかもしれない。
宇部興産もかつては宇部線と美祢線で貨物輸送を行っていたが、国鉄の相次ぐ運賃値上げとストライキに辟易して専用道路を建設し、鉄道貨物は使わなくなった。
その後の宇部線の貨物列車は、小野田セメントの石灰石輸送が主力になったが、それも平成21年に終了したので、思えば「宇部興産専用道路」に劣らず貴重な邂逅だったと言える。
「福岡・山口ライナー」号が停車する宇部中央停留所は、専用の敷地がなく、こざっぱりとした商店街の道路にバス停の大看板が掲げられていた。
宇部中央は平和通りと小串通りの交差点の近くであり、おそらく「関門急行バス」の宇部小串通り停留所もこのあたりに置かれていたのだろう。
ここで乗客の半分ほどが降りた。
バスのエンジンがいったん止められると、雨音が強くなったように感じられた。
「福岡・山口ライナー」号は、宇部ICから山口宇部道路に入り、丘陵地帯を縫うように北へ向かう。
宇部下関道路も山口宇部道路も、僕は山陽道の一部と考えていた。
事実、どちらも高速道路ナンバーは山陽道と同じ「E2」を与えられているのだが、神戸JCTから伸びて来た山陽道は山口JCTでいったん中国道に合流し、宇部山口道路は小郡JCTで中国道と交差するものの、そのまま中国道や山陽道とは別に山口市内へ向かう。
長谷ICで山口宇部道路を降りた「福岡・山口ライナー」号は、新山口駅に立ち寄ってから、山口宇部道路と並走する国道9号線を進み、湯田温泉街を通り抜けて、山口市内に足を踏み入れた。
終点の山口駅に着いたのは、定刻12時59分を多少過ぎた頃合いであった。
路面は湿っているものの、雨は上がっている。
福岡から僅か3時間半とは思えないほど、目まぐるしく変化する空模様の下を、バスは駆け抜けて来たのだ。
現在と過去について思索した夢のようなひとときも、これで終わりである。
人間五十年 外天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり
不意に、「敦盛」の一節が頭に浮かんだ。
足掛け3日間に渡ってバス旅を存分に楽しむことが出来たので、山口からは大人しく、真っ直ぐ東京に帰ろうと思う。
山口線の普通列車で新山口駅に戻り、上りの新幹線「のぞみ」を捕まえれば、暗くなる前に東京に戻れるはずだった。
「福岡・山口ライナー」号が停車した時の新山口駅は、降りしきる雨に駅舎がぼんやりと煙っていたのに、広大な構内の彼方から水飛沫を巻き上げながら近づいて来た東京行き700系「のぞみ」の流麗な車体には、雲間から差し込む陽の光が反射している。
ひと足先に東へ去った雨雲に、僕が乗る「のぞみ」は何処で追いつくのだろう、と、ふと思った。
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