新宿駅西口のオフィスビルと家電量販店に挟まれた狭い路地は、山梨や信州、飛騨など中央自動車道沿線の各地へ向かう「中央高速バス」の一大拠点だった。
新宿駅西口のロータリーから進入してきた大型バスが、ぬっと顔を出すと、鋭くホイッスルが鳴り響き、人波が左右に分かれる。
バスターミナルのスピーカーから案内が繰り返し流れて、大きな荷物を抱えた人の動きが忙しくなり、乗客を満載したバスの巨体が、再び通行人をかき分けて動き始める。
警備員に足止めされて、もどかしげに見上げる通行人に見守られながら、窮屈そうに狭い交差点を直角に曲がり、旅立っていく様々な行き先のバスの姿は、ちょっとした見ものである。
午前7時50分の発車を前に乗り場に横付けされた、白地に緑の爽やかな塗装の濃飛バスも、その1台だった。
『1番乗り場に入線中のバスは、7時50分発の中津川、下呂温泉行きです』
ところが、他のバスと違って、そのアナウンスを耳にして乗り場に並んだ人の数は、びっくりするほど少なかった。
平成16年10月に開業した新しい「中央高速バス」の一員、新宿-下呂温泉線である。
僕が乗ったのは、翌年7月の週末だった。
下呂温泉は、林羅山が有馬温泉・草津温泉とともに日本三名泉に数えたと言われている。
有馬と梅田、草津と新宿を結ぶ高速バスは、いずれも盛況である。
しかも週末の直行便だから、混んでいるかもしれないと身構えていたので、ちょっぴり拍子抜けした。
首都圏の人間にとって、下呂温泉は少しばかり遠すぎるのかもしれない。
自分が乗る乗り物がすいているのは好ましいが、それが高速バスの場合は、存続するのかどうかがどうしても心配になってしまう。
週末に空席が目立つ高速バス路線が、長続きした記憶はあまりない。
定時に発車したバスは、十数人の乗客を乗せて、ぎっしりと道に溢れる車を掻き分けるように、甲州街道から首都高速道路の高架へ駆け上がった。
蒸し暑い真夏の朝だった。
ビルの合間から覗く空は、一面、どんよりとした雲に覆われている。
どこまでも続く東京の街並みを見渡しながら、中央フリーウェイは真っ直ぐ西へ伸びている。
中央道三鷹、中央道深大寺、中央道府中、中央道日野と、高速道に設けられたバスストップに、バスは減速してこまめに寄っていく。
小さな待合所で待つ客も多く、近づくバスを見て顔を上げるのだが、運転手さんが扉を開けて、
「下呂温泉行きです」
と案内すると、誰もが1歩後ずさりしてしまう。
8時半過ぎに通過した中央道八王子が最後の乗車停留所だったが、結局、途中で乗って来る人は誰もいなかった。
この日は、高尾から相模湖にかけて連なる山々も、古びたトンネルで抜けた笹子峠も、分厚い雲の中に沈んでいた。
甲府盆地で、ようやく雲間から陽が覗いたが、長続きしない。
双葉SAでの最初の休憩は、あまりの暑さに辟易して、一服しただけで冷房の効いた車内に戻った。
インター出口の久しぶりの信号待ちでは、何となく、しん、とした心持ちになった。
知らず知らず、ほっと溜め息が漏れる。
中津川といえば、恵那山トンネルのたもとにある中仙道の宿場町、馬籠宿で有名な山口村が、長野県からの越境合併で、中津川市に編入された出来事を思い出してしまう。
僕がこの旅をする5ヶ月前の、平成17年2月のことだった。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた』
長野県の出身者としては、名高い観光地を他県に取られてしまった、と少しばかり悔しい思いをしたものである。
どうして山口村の人々は長野県を出たがったのだろうか、と、不思議に思ったものだった。
淀川中津川停留所と中津川営業所を回ってから、バスは市内を抜けて、木曽裏街道と呼ばれる国道257号線に入り、城山大橋で木曽川を渡った。
下野の交差点で国道256号線に移ると、ギアが次々に落とされて、ガラガラとエンジンが唸り、峠越えに挑んでいく。
福岡町役場、道の駅花街道付知、加子母福崎公園──
木曽川の支流に沿って点在する集落のバス停が、小まめに案内されるものの、降りる乗客は1人もいない。
この日は、新宿から下呂温泉まで乗り通す客ばかりであった。
ふと気づけば、国道標識が257号線に戻っている。
これまでの道は、重複国道だったのだろうか。
それにしても、中央西線沿線の中津川から高山本線の下呂まで短絡する、このような道路があったのか、と蒙を啓かれる思いだった。
山々を覆う木々の葉の緑が、再び、鮮やかさを増していた。
同じ山国でも、信州に比べれば、山梨や岐阜の山々は、どことなく温かい感じがする。
なだらかなカーブで、大きく回り込むように分水嶺の舞台峠を越えると、いよいよ下呂市である。
旅を終えてから調べてみると、鎌倉幕府の二代目将軍源頼家が諸大名の参詣の退屈を慰めようと、この峠に舞台をつくり、都の美しい白拍子を集めて能を催したことが由来であるという。
帯雲橋の交差点を右に折れ、国道41号線に合流して北に向かえば、ホテルや旅館が林立する下呂温泉郷が見えてきた。
行き交う車も増えて、どこか殷賑な雰囲気が漂う。
温泉街の中心を流れる益田川を渡れば、こんもりとした山を背後に抱える、終点の下呂駅前だった。
新宿から約6時間が過ぎていた。
下呂温泉の起源は、延喜年間から天暦年間に、湯が峰の山頂付近に温泉が湧出したのがはじまりであるとされている。
13世紀中頃に山頂からの湧出は早々と止まってしまったらしいが、益田川の河原に新たな温泉が発見されて、今に至っているという。
下呂の名は律令時代に遡り、駅伝に用いられた下留駅が転じて、現在の表記になったのである。
午後1時半を回った夏の昼下がりだった。
下呂駅前には、タクシーや温泉郷めぐりのレトロバスが停まっていたが、高速バスから降りた人々が消えると、閑散として、うだるような暑さだけが残された。
駅員もタクシーの運転手も、クーラーの効いた室内や車内に閉じこもって、出てこようともしない。
下呂から先の予定は、決めていなかった。
とにかく気怠い気分だった。
思う存分、中央道の自然を満喫できたし、中津川から下呂温泉に至る初めての道も体験できたので、楽しいバス旅だったと思う。
目的地に着けば旅の目標は達成された訳で、そこで途方に暮れてしまうのが、乗り物マニアの常人と異なるところである。
はるばる下呂まで行きながら、温泉にもつからない日帰り旅となった。
今、振り返れば、何と勿体ないことをしたのか、と思う。
疲れていたのだろうか。
疲れていたから温泉に入らずに帰るとは、熱があるから病院の外来に行けません、みたいな話ではある。
思い起こせば、同じくらいの時間をかけて名古屋からバスでたどり着いた草津温泉でも、温泉に入らなかった記憶がある(ブログ「草津温泉を訪ねるバス旅」)。
あの時は、下呂温泉とは逆に、激しい雨に祟られたことも一因であった。
名古屋と草津温泉を結ぶ「スパライナー草津」号も、がらがらにすいていて、数年で消えたのではなかったか。
世の中の人々は、6時間もかけるバスを使ってまで、温泉に行かないのかもしれない。
新宿と下呂温泉を結ぶ高速バスも、案の定、開業4年後の平成20年7月に、廃止されてしまった。