連れがいると、旅の楽しさは倍増するけれども、同時に気遣いも増える。
乗り物に特化した旅程を重視する僕のような人種は、目的地を往復する交通機関を、速さや便利さという観点で選ぶとは限らない。
乗り物に乗っているだけで幸せを感じられるという性格は、車中を退屈至極で過ごすよりも得をしていると思うのだが、だからと言ってどのような乗り物でも構わないとは考えず、未体験の乗り物を優先することが多い。
航空機でも鉄道でもバスでも、あの列車や航路にも乗った、この路線も乗り潰した、などと悦に入るのは、一種の収集癖なのだろうか。
そのために、運転本数が少なくて待ち時間が徒らに増えたり、所要時間の長くなる交通手段を選んだりすることも少なくない。
気軽な1人旅を好む僕にも、時に同行者が現れる場合がある。
同じ趣味を持つ友人もいない訳ではないけれども、僕の交遊範囲では圧倒的に少数派で、同行者の大半が乗り物趣味と全く縁のない人々である。
もっと速い乗り物があるのに、なぜ自分はこのような乗り物に乗らなければならないのか、と自問しながら車中で退屈していないか、という懸念ばかりでなく、乗り場への行き方や乗り換え駅での歩くペースまで、相手に合わせなければ、と思ってしまう。
今回の旅の当時に付き合っていたT子は、僕の趣味を理解してくれる稀少な存在で、旅行に連れ出すのにそれほど躊躇いが生じる訳ではなかった。
7年ほど交際した後に、図らずも別れることになってしまったが、その後に交際を始めて結婚に至った女性を筆頭に、連れ立って旅行に出掛けることはあっても、旅程を組む段階で相手に合わせて最速・最短時間の交通機関を選択するようになった。
時に僕の趣味を目的とした長旅に出る場合も、誘うのが憚られて1人旅を余儀なくされたので、旅の回想に登場する女性はT子ばかりである。
僕が大人になったということであろうが、逆に、T子と過ごした時代の自分は、我が儘な子供だったな、とほろ苦く思う。
長旅に連れ出したのが、彼女の故郷である延岡への帰省だったことが、せめてもの罪滅ぼしであろうか。
東京から延岡まで、最初は航空機で往復していたが、片道に高速バスを使い、30時間近くを費やして出掛けたのは、付き合いを始めて1年が経過した夏休みのことだった(「信濃路を十文字に貫く高速バスの旅~中央ライナー・不知火号・なんぷう号で九州へ 前編~」 、「信濃路を十文字に貫く高速バスの旅~中央ライナー・不知火号・なんぷう号で九州へ 後編~」 )。
毎年の恒例になった延岡行きに、また高速バスを使わないか、とおそるおそる切り出してみたのは、その翌年だったと記憶している。
「そう来るだろうなって思ってました。私は構わないですよ。あなたは忙しいから、貴重な機会ですよね。それに去年も案外楽しかったですし」
と、T子は笑っている。
「それで、今度はどういう行き方なんですか」
「君の故郷の延岡に、大分行きの特急バスがあるんだよ。それに乗ってみたいんだ。大分には名古屋から夜行バスが走ってるし」
平成13年の夏休みの初日、午前中は家でのんびりと過ごしてから、僕とT子は夕方の新幹線に乗り込んだ。
前年は名古屋から熊本行きの夜行高速バス「不知火」号を利用し、熊本から宮崎行き「なんぷう」号に乗り継いだのだが、東京から名古屋まで高速バス「中央ライナー」号を使ったので、今回、名古屋まで新幹線にしたことを、僕はT子への配慮だと独り合点している。
それまで本州と大分を結ぶ高速バスに乗車したことがなく、ならば大阪まで新幹線で足を伸ばし、大阪と大分を結ぶ夜行高速バス「ゆのくに」号に乗り換える方が、所要時間が短くなって一層の思い遣りなのだろうが、平成6年に運休しているため実現できない。
僕1人の旅であれば、一刻も早く旅立ちたくて、午前中に東京を発った可能性もある。
名古屋で時間が余れば、近距離の高速バスや未乗の名鉄支線なんぞに乗りに行きかねない。
T子が一緒なのだから、そのような気儘は許されないし、遅すぎず早すぎず、駆け足になったり待ち時間が長すぎないように、自宅を出て最寄駅から東京駅に向かう頃合いを見計らうのも、また名古屋駅から名鉄バスセンターに向かう所要時間を換算するのも、いちいち気を遣う。
そのような思考を働かせるのは、意外にも楽しい。
飛行機ならば宮崎空港からの移動時間を含めても数時間で行ける延岡まで、1昼夜を掛けていく時点で、彼女への配慮に欠けていると言われれば、それまでなのだけれど。
「もう名古屋ですか。やっぱり新幹線は速いんですね」
と、前年の高速バス旅を思い浮かべている風のT子の手を引いて、名古屋駅の新幹線ホームに降り立った時は、まだ黄昏の残照が残っていた。
構内のきしめん屋で夕食を済ませ、名古屋駅広小路口の改札を出れば、さすがに長い夏の日もとっぷりと暮れていたものの、色とりどりの明かりに彩られた街は煌びやかで、行き交う人々も多い。
大分行き夜行高速バス「ぶんご」号は、名鉄バスセンターを20時ちょうどに発車する。
この時間帯ともなると、名鉄バスセンターは夜行高速バスの出発ラッシュを迎えていた。
19時00分:鹿児島行き「錦江湾」
19時30分:長崎行き「グラバー」
20時00分:熊本行き「不知火」
20時00分:大分行き「ぶんご」
20時30分:佐世保行き「西海路」
20時45分:久留米・大牟田・荒尾行き「げんかい」号
21時00分:福岡行き「どんたく」号
21時30分:仙台行き「青葉」号
と、殆どが九州方面への路線である。
この他に、JRバスの名古屋駅バスターミナルから東京、新宿、横浜、千葉といった複数の首都圏方面路線と、高松・高知方面の路線が発車するけれども、夜行高速バスの本数を見る限り、九州は首都圏に次いで太いパイプで結ばれていることになる。
「やっぱり九州から名古屋に出てくる人が多いんですね」
と、T子は壁面に掲げられている出発便の一覧を見上げながら、1年前に熊本行き「不知火」号に乗車した時と同じ感想を漏らした。
「私も背伸びして東京まで行かずに、名古屋にしておけば良かったのかな」
「どうして?」
以前、T子の口から、「九州の人間にとって東京は遠すぎるし、大阪は怖いし、だから名古屋に出るんです」という言葉を聞いた覚えがあった。
「だって、名古屋ならバスで帰れるじゃありませんか。東京だと帰省に掛かるお金も高いんですもの」
「今まではどうやって延岡に帰ってたの?」
「どうやって、と言いますか、あなたと出逢うまでは全然帰ってなかったんです。あなたのおかげで、何回も帰れるようになったんですよ」
「そうなんだ」
「感謝しているんです。とっても」
名古屋と九州を結ぶ夜行高速バスは、平成元年9月に開業した名古屋-長崎線「グラバー」号を皮切りに、
平成元年12月:福岡線「どんたく」
平成2年6月:北九州・大牟田・荒尾線「げんかい」
平成2年7月:熊本線「不知火」
平成3年4月:佐世保線「西海路」・大分線「ぶんご」・鹿児島線「錦江湾」
と、瞬く間に九州全域に路線網を拡大している。
九州と名古屋の結びつきは、昭和43年から57年まで、博多駅と名古屋駅を結んでいた寝台特急「金星」まで遡っても良いのかもしれない。
僕が鉄道ファンになった子供の頃には、名古屋を起終点とする唯一の寝台特急列車として、大いに気になった。
僕が1人旅を始めるようになる前に消えてしまったから、乗る機会に恵まれなかったことが、今でも残念でならない。
「でも、宮崎だけないんですね」
とT子が呟く。
「うん、どうして名古屋から宮崎に行く夜行バスがないのか、僕も不思議なんだ。あれば真っ先に君と乗るとこだけどね。宮崎の人って名古屋に行かないの?」
「友達で名古屋で働いてる人もいますけど」
「九州で名古屋への夜行バスがないのは、宮崎だけじゃないよ」
「え?」
T子は怪訝な表情で時刻表に視線を戻し、いつまでも考え込んでいる様子に、僕は思わず吹き出した。
「九州出身者がそうなっちゃうんだから、なるほど、あの県はそういう運命なんだなあ」
「あっ、佐賀県!」
「御名答。名古屋だけじゃなくて、例えば、大阪は九州全県と夜行高速バスで繋がってたんだけど、佐賀へ行くバスだけは早々と廃止されちゃったんだよね」
昭和58年に開業した大阪-福岡線「ムーンライト」号や、昭和63年に開業した大阪-熊本線「サンライズ」号をはじめとして、平成2年までに九州全県へ向けて大阪発着の夜行高速バス路線網が拡充したのだが、平成5年に大阪-佐賀・唐津線「サガンウェイ」号が廃止となっている。
「どうしてなんでしょう。佐賀の人って大阪に行かないのかしら」
「それを言ったら、君の故郷も、だよ。延岡から大阪に向かう夜行バスもあったんだけど、佐賀と同じ年になくなってる」
「え?そうなんですか?」
「『ひえつき』号って名前で、僕も1回乗ってみたかったんだけどね」
「あ、ひえつき節ですか。懐かしい」
庭の山椒の木
鳴る鈴かけてヨーホイ
鈴の鳴る時ゃ
出ておじゃれヨー
鈴の鳴る時ゃ
何と言うて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと
言うて出ましょヨー
那須の大八
鶴富おいてヨーホイ
椎葉たつ時ゃ
目に涙ヨー
平安時代の末期、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家の残党が日向国椎葉へ逃れ、源頼朝の命を受けた那須宗久、通称大八郎が追討に向かう。
ところが、平家の落人たちは戦意を喪失し、実直に農耕に勤しむ農民となって新しい暮らしを築いていた。
その健気な姿に心を打たれた大八郎は、鎌倉幕府に討伐を果たしたと虚偽の報告を行い、自身も椎葉村に留まって、平清盛の末孫とされる鶴富姫と恋に落ちる。
鶴富姫の家に来ると、大八郎は庭にある山椒の木に鈴をかけて鳴らし、鶴富姫は「馬に水をやってきます」と外へ出て、逢瀬を重ねたのである。
大八郎が鎌倉から帰還命令を受けた時に鶴富姫は身籠っており、大八郎は「男の子なら連れて来い。女の子ならここで育てよ」と太刀と系図を与え、鶴富姫は女子を産み、その婿が椎葉を治めたという。
日向市から西の山奥に入った椎葉村に伝わる、平家の落人伝説を歌った「ひえつき節」を思う時、僕は、九州と京や鎌倉を隔てるあまりに遠い距離を実感する。
「延岡や佐賀だけじゃなくて、宮崎や大分から大阪へ行く夜行バスも、2年前に廃止になっちゃったよ」
「だから、大阪って怖いところなんですってば」
「東九州や佐賀の人だけが怖がってるのかい?福岡や熊本、長崎、鹿児島は、今も大阪から高速バスが走ってるんだぜ」
「そっか。でも、『ひえつき』って名前のバス、乗りたかったなあ。今度、母を連れて、椎葉に行きません?」
「いいね」
延岡に着いてから日を替えて椎葉にドライブし、あまりの酷道に肝を冷やすことになったのは、後の話である。
取り留めもない話をしていれば、「ぶんご」号の発車時刻まではあっという間で、定刻の10分ほど前に、亀の井バスの華やかな塗装のスーパーハイデッカーが乗り場に横づけされた。
後方から、同時発車の熊本行き「不知火」号も姿を現す。
「去年はあっちに乗ったんですねえ」
と、九州産業交通の車両を見遣りながら、T子が遠い眼差しになった。
「あれから1年か。いかんなあ」
「何がです?」
「君といると、月日の経つのが早すぎる気がする」
「それって褒め言葉ですか」
「もちろん」
僕らが指定された座席は最後尾で、横3列独立席が並ぶ車内で唯一の横4列席になっているが、通路がない分、シートの構造や大きさは独立席と変わりがない。
しかも、名鉄バスが参入している夜行仕様のバスは、それまでの夜行高速バスの標準だった29人の定員を3人分、つまり前後1列を減らして26人乗りになっているので、おそらく10cm程度の違いであろうが、前後のシートピッチが長い。
その僅かな差でも感覚的には大違いで、足置きまでの距離が長く、ゆったりと感じられる。
前席の背もたれが倒れてきても、29人乗りの車両より圧迫感が少ない。
こいつはなかなかいいぞ、と、他愛もなく嬉しくなってしまう。
この日の乗客数は20人程度で空席も目立ち、僕らが占める最後列に座る乗客は他にいなかった。
『7番乗り場から別府・大分行き「ぶんご」号、8番乗り場から熊本行き「不知火」号が発車します。御利用のお客様は、7番、8番乗り場までお越し下さい』
と場内放送が聞こえ、係員と乗客名簿の確認を終えた2人の運転手さんが、
「じゃあ行ってきます」
と元気に挨拶する声が聞こえて、「ぶんご」号は定刻きっかりに発車した。
薄暗い乗り場のベンチや自販機、他のバスを待っている人々の姿が、窓外を流れ始める。
3階にある名鉄バスセンターを出ると、バスは長いスロープを下って地上に降り立ち、車が溢れる名古屋の市街地をのろのろ進む。
ネオンや街灯が車内に容赦なく差し込んできて、何となく落ち着かない。
現在の名古屋発着の高速バスは、名神高速道路の一宮ICまで名古屋高速道路を利用する路線が多くなったが、当時は未開通の区間が多く、バスは国道22号線・名岐国道を渋滞につっかえながら進む。
目的地は、850kmの彼方である。
運行ダイヤに織り込み済みであることは分かっているものの、このようなスローペースで大丈夫なのか、と、気を揉んでしまう。
大分に急がなければならない用事がある訳でもなく、所用があれば夜行高速バスを使ったりしないのだが、このもどかしさも、T子を慮ってのことである。
一宮ICで名神高速道路に入ると、「ぶんご」号はようやく本領を発揮して速度を上げた。
午後8時半を過ぎようと言う頃合いになっても、ハイウェイを行き交う車は多く、しかも東日本に比べて追い越していく乗用車やトラックの車間距離が短いように思えるから、なかなかスリルがある。
木曽川を渡れば、間もなく濃尾平野と別れを告げて、伊吹山に連なる山並みの懐に分け入り、琵琶湖の南岸に出る。
灯を散りばめた大津の市街地の向こうに、真っ黒な空洞のような琵琶湖が広がっている。
逢坂山のトンネルをくぐると、今度は京都の街並みが左右に開ける。
淀川に沿って大阪まで下り、道端に並ぶ水銀灯が眩い千里丘陵を横切りながら、吹田JCTで中国自動車道に足を踏み入れた「ぶんご」号が、1回目の休憩を取ったのは、西宮名塩PAだった。
名古屋発着の九州方面夜行高速バスは何度か利用したことがあるけれども、長崎線「グラバー」号と熊本線「不知火」号は桂川PA、鹿児島線「錦江湾」号は養老SAと、休憩箇所がまちまちだった。
休憩場所を揃えなければならない理由は何処にもないし、僕は、色々なサービスエリアに降りられるのも楽しいと思っている。
JR福知山線の西宮名塩駅では、大阪平野の夜景を遠望できる場所があると耳にしたことがあり、この辺りの中国道上り線を走っていて、山裾が左右に開けた先に大阪の夜景を目にした記憶もあるのだが、残念ながら、パーキングエリアから夜景を見ることは出来なかった。
「まだまだ先は長いけど、眠れそう?」
「大丈夫です。でも、去年より、何となくバスがくたびれてるような気がしません?」
確かにT子の言う通りで、この夜の「ぶんご」号の車両は経年劣化が目立つ印象があり、シートの座面も若干へたっているようだった。
開業以来10年以上が経過し、車両も古びているのかもしれない。
「匂いは大丈夫?」
「ええ、少しはありますけど、困るほどじゃないです」
「初めて夜行バスに乗った時、最初は1番前だったんだけど、1番後ろの女性客に頼まれた運転手さんから、席を替わってくれって言われたことがあったなあ」
「替わったんですか?」
「うん」
「優しいんですね」
「僕だけじゃないよ。その女性は2人連れで、僕の隣りの人も一緒に後ろへ移ったんだよ」
バスの最後部ではエンジン音やガソリン臭が気になって、人によっては酔いやすいと聞く。
僕が生まれて初めて夜行高速バスを体験した国鉄「ドリーム」号が、まだ横4列シートの古い車両だった昔の話である。
最後部の席の向かい側にはトイレが置かれていた記憶がある。
それ以来、夜行高速バスの最後部の席は何度か経験したけれども、いずれも何かしらの強烈な印象を残しているから、やっぱり他の列とは異なる特別な席なのであろう。
「ぶんご」号が中国道本線に戻ってからも、T子の様子が気になったが、そのうちにすやすやと寝息を立て始めたので、僕はすっかり安心してくつろいだ。
その寝顔を見ながら、夜行バスなんぞに付き合わせて悪かったかな、と思う。
最後列だから、後ろに気兼ねすることなく存分にリクライニングできる。
『それでは、車内の明かりを消させていただきます。御用がございます方は、頭の上の読書灯を御利用下さい。狭い車内ではございますが、どうか、ごゆっくりお休み下さい』
という案内が終わると、順々に照明が消されていき、やがて鼻先をつままれても分からないような暗闇が車内を覆い尽くした。
次に目を覚ましたのは、
『おはようございます。バスは少し早めに運転しております。間もなく中津サンライズホテル前に到着します。御利用のお客様はお知らせ下さい』
と、運転手さんの囁くようなアナウンスが流れた時だったから、西宮名塩SAから中津まで、あたかも「どこでもドア」のような車中だったことになる。
定時運行ならば中津着は6時15分だが、時計の針は午前6時にもなっていない。
運転手さんの少しばかり嗄れた声が、長い一夜だったことを教えてくれる。
客としてはぐっすり眠ったというところだろうが、T子はどうだったのか。
身動き1つしないけれど、暗くてその表情は窺えない。
「ぶんご」号は関門海峡を渡って九州自動車道に入り、小倉東ICで高速道路を降りて、国道10号線を周防灘に沿って南下していた。
大分に向かう高速バスは、これまで九州道から大分自動車道を経由する路線ばかりだったから、国道10号線を使う「ぶんご」号の経路は楽しみだったのだが、僕は早暁に弱く、最も眠い時間帯に通り過ぎてしまった。
天井にぽっと淡く灯った照明が、少しずつ明るさを取り戻し、前方の遮光カーテンが開け放たれた。
西日本の夜明けは遅く、窓外を過ぎ行く町並みには、ぼんやりとした仄暗さが残っているようだった。
「何処です?」
と、T子が背もたれを倒したまま目を開いた。
「中津だって。大分県に入ったんだね」
「もう着きますか?」
「大丈夫、まだ宇佐、別府と停まっていくから、2時間くらいあるよ。もう少し寝てて」
「そうします」
再び毛布を被ったT子に倣って、僕も目を瞑った。
高速道路を猛烈な勢いで疾走するバスの走りっぷりを、ゆったりしたシートに身を任せて、全身で体感するのも悪くないけれども、目的地が近づき、一般道に降りた後のバスの素朴な走り具合は、独特の味わいがある。
「ぶんご」号のように、高速を下りてから約120km、3時間も走るバスは、対照の妙もあって、決して嫌いではない。
窓際をT子に譲っているから外を眺めることは出来ないけれども、うつらうつらとしながら、信号停車やカーブ、坂道の登り下りで身体が揺さぶられ、ガラガラと引っ切りなしにギアが替えられる音を耳にするだけで、異郷の地を走っているのだな、と旅心が掻き立てられる。
夢うつつで過ごすうちに6時40分到着予定だった宇佐法鏡寺を過ぎ、7時35分着の別府北浜の案内放送で目を覚ました僕は、手を伸ばしてカーテンを開けた。
朝の光が怒涛のごとく座席に流れ込み、T子が眩しそうな仕草をして目を開けた。
「大分ですか?」
「別府。あと30分くらいかな。ここからは海がよく見えるよ」
別府北浜停留所を発車すると、ぬめるような水を湛える豊後水道が車窓一杯に広がり、T子は、わあ、と小さく歓声を上げて背もたれを戻した。
波打ち際の国道10号線を走りながら、前方に霞む大分の街並みが少しずつ近づいてくるのを眺めるのは、爽快の一語に尽きる。
雲は多いけれども、良い天気の1日になりそうだった。
「九州の海なんですねえ」
T子が感に堪えない、と言った面持ちで呟いた。
「ぶんご」号の終点、7時50分到着予定の大分トキハ前は、大分駅前で国道10号線を鋭角に左折した繁華街の中心にある。
朝の賑わいが始まっている街路はごった返していて、ぎっしりと車に囲まれたバスは、停留所がすぐそこに見えているのに、なかなか近づくことができなかった。
「ぶんご」号を降りた僕らは、朝食を摂るべく大分駅前を彷徨った挙げ句、1軒の古びた喫茶店を見つけた。
中に入るとなかなか重厚な造りで、ピアノやアンティークな置物などが置いてあり、T子は雑然としながらもレトロな内装を大いに気に入ったようで、延岡行き特急バス「わかあゆ」号の発車間際まで、2人ですっかりくつろいだ。
トキハ前を10時35分に発車する「わかあゆ」号は、大分バスの担当で、たった数人の乗客を乗せただけで大分市街を後にした。
座席は横4列シートであるが、「ぶんご」号よりは新しい車両のようで気持ちが良い。
「綺麗なバスですね。これで延岡まで行けるなんて嬉しいです。このバスは名前があるんですか」
「わかあゆ」
「延岡の五ヶ瀬川って鮎で有名なんですよ。鮎、久しぶりに食べたいなあ。五ヶ瀬川を遡って高千穂へ行く道沿いに、鮎を焼いてくれるお店がいっぱいあるんです」
「わかあゆ」号が運行を開始した平成11年は、T子と出逢った年、いや、再会した年である。
大学を卒業して就職した時に、動機入職だったT子と同じ職場に配属されたのだが、お互い、特に気に留めることもなく、数年後にT子は別の職場へ異動した。
平成11年に僕が同じ職場に異動を命じられ、再会したのである。
翌年に僕は元の職場に戻ったが、T子は今でもそこで働いている。
「君と働いた1年が懐かしいよ。仕事も楽しかったし。みんな、元気?」
「ええ、みんな、また戻って来てほしいって言ってます」
「ありがたいね」
「でも、私はちょっと」
「え?」
「まだ誰も、私があなたと付き合ってるなんて知らないんです」
「うん」
「どの職場でも、上司の噂話とかってするじゃないですか。私、その話に加われないです」
「なるほど。悪口も出るだろうしね」
「悪口は出てませんよ」
「だといいけれど」
毎月時刻表が発売されるたびに、新しく開業した高速バス路線がないか、とページをめくるのが習慣であったから、「わかあゆ」号の登場は早々に知っていたはずだが、T子の故郷か、と感じ入るほど彼女と親しくなっていたのかは覚えていない。
ただ、大分と延岡の間に定期バスを走らせるほどの行き来があるのだろうか、と怪訝に感じたことはよく覚えている。
「延岡の人って、大分によく行くの?」
と、「わかあゆ」号の車内でT子に聞いてみた。
「私は大分に行ったことないんです。せいぜい日向や宮崎でしたね」
延岡から大分までJR日豊本線で123.3km、宮崎は83.7kmであるから、遊びや買い物に出掛けるならば宮崎の方が手頃だろう。
大分と宮崎の県境には宗太郎越えと呼ばれる人跡稀な山岳地帯が立ち塞がり、鉄道では最大20‰にもなる急勾配の線路が37のトンネルを穿って敷かれている。
この区間を通る普通列車は当時1日4往復、令和の現在では僅か1.5往復と、人の往来も極端に少ない。
特急バスの開設で新しい流動を開拓するぞ、と事業者が意気込んだのかも知れず、見込まれた採算ラインは平均3割の乗車率であったと言うから、かなり控えめな見積もりであるけれども、その程度でペイするならば何とかなるのかもしれない、と思い直したものだった。
ところが、当初は宮崎交通と大分バスが各2往復する1日4往復の運行にも関わらず、平成16年3月限りで大分バスが運行を中止、平成18年4月から土休日のみ1往復という寂しい状況に追い込まれた挙げ句、平成22年4月に廃止されてしまった。
「わかあゆ」号は大分の市街地を抜けると、「ぶんご」号の経路を引き継ぐように国道10号線に乗り、大野川とJR豊肥本線に沿って南へ向かう。
この道は、10年前に大分から熊本へ抜ける特急バス「やまびこ」号で通ったことがあり、市街地から20kmほど九州山地の懐に入り込んだ犬飼の集落で、阿蘇の外輪山を横断する国道52号線に分岐した。
その時は体調を崩してしまい、「やまびこ」号の前半部分は眠って過ごした記憶があるから、大分から熊本へ向かう導入部分で国道10号線を使っているとは全く気づかなかった。
バスに乗っていて気分がすぐれなくなることなど子供の頃以来で、1人旅をいいことに無茶な旅程を組んだことが最大の原因だった。
「やまびこ」号が熊本に着くまでに快復したから良かったようなものの、今回のように、連れに気を遣うスケジュールの方が身体に優しいのかもしれないな、と苦笑したくなる。
JR日豊本線は、東へ大きく膨らんでいる海岸線を伝って臼杵、津久見、佐伯方面に向かう。
「わかあゆ」号の運行距離は98.1kmと鉄道より20km以上も短く、このまま国道10号線で大分の真南に位置する延岡に向かって真っ直ぐ短絡するのかな、と思う。
ところが、「やまびこ」号が国道10号線と袂を別った犬飼で、「わかあゆ」号も国道326号線に右折したので、おやおや、と思った。
地図を見れば、国道10号線は犬飼から進路を南東に向け、佐伯で海岸線に出ると、今度は南西に折れて再び山中に足を踏み入れ、日豊本線とほぼ並行しながら宗太郎峠を越えて延岡に向かう。
犬飼と延岡の間で「く」の字を反転したような迂回をしていることになり、一直線に犬飼から延岡まで短絡しているのは国道326号線だったのである。
ちなみに、平成26年に完成した東九州自動車道は、国道10号線よりも更に海岸に近い東側を回って、緩やかな孤を描くように建設されている。
犬飼は、宮崎に向かう日向往還と熊本に向かう肥後往還が交差する古くからの要衝で、大野川の断崖にへばりつくような古い町並みを残しているらしい。
江戸時代に豊後竹田に置かれた岡藩が、藩主の参勤交代に使う船着場を設けて藩邸や本陣などが設置され、岡藩の表玄関として水陸の物流の要衝として発展した。
犬飼の地名は、藩主の猟犬が狩猟中に病にかかり、この地で治療したことに由来すると言われている。
地形の険しさゆえに鉄道や国道10号線、高速道路が犬飼の町を避けたことで、古い町並みが残されたのならば皮肉とも言えるが、日豊間のメインルートとなった日向街道は、国道10号線ではなく国道326号線が引き継いだのである。
この道路は、延岡に注ぐ北川の渓谷に沿う区間では、車のすれ違いすらままならない狭隘な難路だったらしいが、昭和60年頃から改良工事が進められ、長さ1613mの桑の原トンネルや、北川ダム湖を渡る唄げんか大橋などの完成により、全線2車線の快適な道路に生まれ変わったという。
この改良によって、国道10号線の宗太郎越えと所要時間が逆転したため、大分と宮崎を結ぶメインルートとして、日向往還としての原点に回帰したのである。
「やまびこ」号の時のように体調が悪かったのでも眠かった訳でもないのだが、「わかあゆ」号の前半部分の車窓も、不思議と記憶が乏しい。
T子と話し込んでいたのであろうか。
行けども行けども鬱蒼たる杉林が続くだけの寂しい車窓が続き、特急バスが走っていることが不思議に感じてしまうほど、何にもないところだったのは確かである。
木々の葉の緑の鮮やかさだけは、今でもありありと思い浮かべることが出来る。
三重監督署前、小野市と、山間の小集落の停留所を、1人も乗り降りがないまま通過した「わかあゆ」号は、北川ダム湖のほとりにある宇目の集落で、11時46分に着く予定の辻の迫停留所の案内を流した。
ここも利用客はなかったが、この停留所の別名は「ととろ入口」で、近くに「ととろ入口」と標識を掲げた交差点が目に入る。
この交差点を右折し、県道6号日之影宇目線で1.5kmほど西に入ると、「ととろ」バス停が置かれているのである。
ここの「ととろ」は「轟」の漢字があてがわれている難読地名で、昭和24年に、大分バスが佐伯から木浦鉱山に至る路線バスを開設した後に、地元の人々が子供の通学のために手作りの待合所を造った。
木造にトタン屋根をかぶせた簡素な待合所は、道路の幅が狭いため道端の小川に丸太を渡し、その上に張り出すように造られていたという。
昭和63年に宮崎駿監督の映画「となりのトトロ」が公開され、平成9年になって、轟のバス停にベニヤ製のネコバスが置かれているのが発見された。
誰が置いたのかは分からず仕舞いだったが、その後、サツキとメイの人形やトトロの看板などが次々と置かれ、口コミで観光客が集まるようになったのである。
平成16年の台風18号により倒壊してしまったが、町の大工の協力で建て直され、杉の皮葺き屋根に顔料で汚し塗装が施されるなど、古びたバス停の雰囲気がそのまま再現されたと聞く。
平成25年4月に、この停留所を通る路線バスは廃止されてしまったが、バス停は撤去されず、近くには「トトロの森」と名付けられた公園が整備されて、ネコバスのパネルやトトロの人形などが置かれているらしい。
映画「となりのトトロ」の舞台は狭山丘陵と言われているから、大分の轟と直接の由縁はない。
「へえ、こんな所にトトロがあるんですか」
とT子が身を乗り出した。
2人で「となりのトトロ」のDVDを観たこともあったから、1日4往復しかない特急バスを降りてしまうと時間を持て余すのは目に見えているけれど、そのような制約がなければ途中下車したかもしれない。
「トトロ」という地名は、延岡にもある。
それどころか、T子の実家は、市の中心部から日向市寄りに位置する土々呂地区にある。
日向灘に面して日豊本線と国道10号線が身を寄せ合うように併走する狭い土地で、家々の合間をすり抜けてきた下り列車が海に近づき、そそり立つ岩山が線路際まで迫り出して、速度を落としながら右へカーブするあたりに、土々呂駅が設けられている。
駅の近くの国道10号線には土々呂バス停も設けられ、こちらは今もなお現役で、延岡駅と日向市駅を結ぶ路線バスが走っている。
運行末期の「わかあゆ」号は延岡駅から日向市駅まで延伸され、土々呂は停車しないものの、通り道になった。
かつての土々呂は、宮崎県北部における有数の漁港の町として栄えたものだよ、とT子の母親から聞いたことがある。
今では南隣りの門川漁港の方が賑わっていて、遠見山や烏帽子岳を抱く半島に囲まれた港や魚市場は、いつ訪れても、ひっそりと静まり返っていた。
土々呂で「となりのトトロ」に因んだ町おこしやPRが成されたという記録はなく、大分県佐伯市の轟と異なって、港町に「トトロ」は似合わないのかもしれないけれど、「わかあゆ」号は、紛れもなく2つの「トトロ」を結ぶ特急バスだったのである。
ネコバスをデザインした車両でも投入すれば、人気を博したかもしれないのに、とついつい夢想してしまう。
とっくに分水嶺を越えたので、北川の流域は全て宮崎県内であろうと早合点していたが、北川ダムの人造湖は、まだ大分県内である。
国道326号線は、立派な斜張橋の「唄げんか大橋」で、なみなみと水を蓄えた北川の本流を渡る。
「宇目の唄げんか」とは、木浦鉱山の鉱夫の家で子守り奉公を勤める娘たちが、互いに揶揄し合うように攻撃的な歌詞で歌い合ったと伝えられている。
あん子 面みよ 目は猿まなこ
ヨイーヨイ
口はわに口えんま顔
ヨイヨーイヨ
おまえ 面みよ ぼたもち顔じゃ
ヨイーヨイ
きな粉つけたら尚良かろ
ヨイヨーイヨ
いらん世話やく他人の外道
ヨイーヨイ
やいちよければ親がやく
ヨイヨーイヨ
いらん世話でも時々ゃやかにゃ
ヨイーヨイ
親のやけない 世話もある
ヨイヨーイヨ
わしがこうしち旅から来ちょりゃ
ヨイーヨイ
旅の者じゃとにくまるる
ヨイヨーイヨ
憎みゃしません大事にします
ヨイーヨイ
伽じゃ伽じゃと遊びます
ヨイヨーイヨ
このような歌詞でも子守唄なのだから、驚いてしまう。
これで果たして赤子が寝つくのか、と首を傾げたくなる子守歌として「宇目の唄げんか」に匹敵するのは、熊本県の球磨川沿いの山村に伝わる「五木の子守唄」ではないだろうか。
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よ来りゃ 早よ戻る
おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよかおび よか着物
おどんが打死だときゃ 誰が泣ゃてくりゅか
裏の松山ゃ 蝉が鳴く
蝉じゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
おどんが死んだなら 道端ゃいけろ
人の通るごち 花あげる
辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども 喉にたつ
昔の子守唄には、子守女が自らの貧しく薄幸な境遇を嘆き、辛い日々の心情を歌ったものが多く、「宇目の唄げんか」が喧嘩口調になったのも、子守り女の鬱屈を発散するためだったという説もあるらしい。
宇目も五木も、九州山地の奥深くに位置しているのだな、と思う。
「宇目の唄げんか」の子守り女が働き、「轟」バス停を通る路線バスが向かった木浦鉱山が、初めて文献に現れるのは、17世紀初頭に鉛を徳川将軍に献上した時である。
江戸時代は岡藩が管轄し、60ヶ所もの鉱山に1000人を超える労働者が集まり、錫や鉛を産出して、佐渡金山、石見銀山、生野銀山と並ぶ日本の四大銀山と呼ばれるほど栄えたという。
明治期に官営となったが、安価な輸入鉱石に押されて休山し、大正時代に亜砒酸の製造が行われ、再び錫を産出するまでになったものの、終戦と共に休山となり、昭和36年以降に研磨剤や舗装道路の硬質骨材となるエメリー鉱を我が国で唯一産出しながら、平成11年に採鉱を終了している。
北川ダムを過ぎ、ようやく宮崎県に足を踏み入れた「わかあゆ」号は、北川の渓流と絡み合いながら坂道を駆け下っていく。
四方からのしかかる山々が空を圧している様子を眺めながら、ふと、福岡や熊本から国道218号線で高千穂を経由して延岡に至る高速バス「ごかせ」号や「あそ」号の車窓と似ているな、と思った。
新道が整備されて立派になったのも国道326号線と共通しているが、高千穂と延岡の間に「日之影」という土地がある。
国道326号線の「トトロ入口」交差点と、「轟」バス停、木浦鉱山を通る県道6号日之影宇目線の起点であり、この旅の当時は健在だった高千穂鉄道が、国鉄時代に終点としていた時期もある。
国道218号線の新道を離れて、駅がある集落に下りて行くと、昼なお薄暗い五ヶ瀬川の谷底である。
九州山地の峻険さを端的に表している地名であるが、日向市から椎葉へ向かう国道327号線沿いには「山陰」という地名もあって、やまげ、と読む。
旅と酒を愛した歌人若山牧水の生家がある東郷町の日向寄りで、T子の母親が生まれ育った土地であるため、T子と車で訪れたことがある。
耳川が削った猫の額のような平地に古びた家屋が散在し、間近にそそり立つ山塊に遮られて、日中の半分しか日が射さないのだと聞いた。
そのような地形は全国にあるのかもしれないけれど、日之影や山陰などと、あからさまな地名が残っているところに、陽の光が溢れんばかりの印象があった日向路の、見てはならない深淵を覗いた気がして、胸が締めつけられる。
淡々と走り続ける「わかあゆ」号の車窓に見入りながら、いつしかT子も言葉を発しなくなっていた。
僕と同じような物思いに沈んでいるのかもしれない。
犬飼、轟、木浦鉱山、宇目の唄げんか、そして日之影や山陰、土々呂、五木の子守唄……。
人家が殆ど見当たらず、乗り降りも少ないけれども、九州山地の懐で生き抜いた人々についての思索が止めどなく広がった「わかあゆ」号とは、何と人間臭い特急バスだったことだろう。
南向きの斜面であるためか、深閑とした杉林の緑は、いよいよ濃くなった。
北川町で、鎧川に沿って東から進んできた国道10号線に合流すれば、延岡の街はすぐである。
それまで、延岡には宮崎市や高千穂方面から入ったことしかなかったので、「わかあゆ」号のように北から市街地に入っていく車窓は、なかなか新鮮だった。
定刻12時34分より若干の遅れで宮崎交通延岡駅前バスセンターに降り立てば、今山を背負って古びた雑居ビルが建ち並ぶ昔ながらの駅前は、1年前と何ら変わりはなく、懐かしい佇まいを保っていた。
その後も、T子と連れ立って延岡へのバス旅に何度か出掛けたが、今治と広島を経由して福岡から高速バス「ごかせ」号で延岡入りしたのが最後となった(「瀬戸内の渡し守~パイレーツ号で村上水軍を偲びながらしまなみ海道の起点今治へ~」 、「瀬戸内の渡し守~島から島へと本四を結ぶしまなみライナーの旅~」 )。
歳月は流れ、平成27年に東九州自動車道が北九州と宮崎の間で全通すると、大分と宮崎を結ぶ高速バス「パシフィックライナー」号が走り始めた。
僕は福岡での所用のついでに大分から乗ってみたのだが、高速道路をひた走る感触は「わかあゆ」号と全くの別物だったものの、延岡ICに設置されたバスストップで乗降が可能であることから、「わかあゆ」号が生まれ変わった路線のように思えてならなかった(「九州高速バス大リレー東九州自動車道編~パシフィックライナー・ひむか号で大分・延岡・宮崎へ~」 )。
車窓から懐かしい日向路の風景を眺めながら、様々な感慨が胸中に去来したものだったが、1つだけ確信したのは、延岡を訪れるのはこれが最後になるだろう、ということだった。
「パシフィックライナー」号の収支は「わかあゆ」号と同様に振るわず、新型コロナウィルスの流行が追い討ちをかけた形で、令和3年に廃止されたと聞いた。