九州高速バス大リレー東九州自動車道編(2)~パシフィックライナー・ひむか号で大分・延岡・宮崎へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

「ゆのくに」号で早朝の東九州道を下ってきた僕は、大分駅前の横丁に重厚な雰囲気の喫茶店を見つけてモーニングを平らげてから、トキハ前に戻って、9時50分発の宮崎行き「パシフィックライナー」号を待った。

 

 

トキハデパートでは、開店時刻を目前にして早くも玄関先に並ぶ買い物客が見受けられる。

正面のバス乗り場では、これから福岡に出かける人々が、入線した高速バス「とよのくに」号の乗降口に群がっている。

交差点に目を転じれば、市内路線バスが連なって右折の順番を待っている。

10台以上もいるだろうか、こんなにたくさんのバスが列を成しているのを見るのは初めてで、大分のバスは元気だぞ、と訳もなく嬉しくなった。

 

 

定刻に発車した「パシフィックライナー」号は、大分川とJR豊肥本線に沿う国道10号線を内陸に向けて南下し、大分米良ICから東九州道に乗った。

驚いたのは、車内の座席配置が左2列、右1列の横3列シートだったことで、宮崎までの3時間あまりをこのように豪華な席で過ごせると思えば、心が躍る。

 

平成初頭の九州島内の高速バスは、短距離短時間でも横3列シートを装備して豪勢な気分を味わせてくれる路線が少なくなかったが、最近はコストを厳しく評価するようになったのか、横4列シートに戻る路線が見受けられる。

僕が初めて九州をバス旅行した平成2年に利用した福岡-鹿児島間高速バス「桜島」号でも、横3列シートで存分にくつろいだものだったが、その「桜島」号も最近横4列シートになったと聞いて、容赦ない時の流れを感じて愕然とした。

そういう御時世なのだと言われれば諦観するしかないが、「パシフィックライナー」号は久しぶりに古き良き時代を思い出させてくれるバスだった。

 

しかし乗客は僅かに数名で、折角のデラックスバスが勿体ないほどである。

 

 

別府ICと大分米良ICの間の東九州道が僕の行程から抜けてしまうことは、少しばかり残念であるけれど、別府と大分市内を発着するバスを乗り継いでいるのだから、どうしようもない。

北九州から宮崎へ直行する高速バスでも開業すれば、この区間も東九州道を走ってくれるのだろうが、そのようなバスは存在していない。

 

福岡からは、福岡-延岡間「ごかせ」号や福岡-宮崎間「フェニックス」号などの宮崎方面ばかりではなく、九州各地を結ぶ高速路線が多数運転されているが、同じく百万都市である北九州発着の路線は、どうも元気がない。

熊本行き「ぎんなん」号や長崎行き「出島」号は健在だけれども、かつて運行されていた佐賀行き「かささぎ」号、佐世保行き「九十九島」号、そして鹿児島行き「隼人」号は、短期間で廃止されている。

 

 

 

 

平成16年に「フェニックス」号夜行便が北九州まで延伸され、史上唯一の北九州-宮崎直行便となったが、平成23年に夜行便は廃止、平成25年から2年間ほど試験的に夜行便が復活した際には福岡止まりであった。

 

我が国有数の炭鉱地帯を背景に、八幡製鉄所を筆頭とする四大工業地帯の1つとして、近代日本を支え続けてきた北九州地区も、近年は産業構造やエネルギー需要の変化に見舞われて、かつての勢いを失っていると言う。

このような高速バス事情も、時代の趨勢を敏感に繁栄しているのだろうか。

 

 

大分平野に別れを告げると、再び山また山である。

トンネルとトンネルの合間に垣間見える狭い山峡には、瑞々しく水田が開かれ、降り続く雨に打たれて、稲が穂を垂れている。

霧の塊が山の中腹を漂い、一幅の油絵を鑑賞しているかのような美しさだった。

 

『いろいろな季節に日本を旅していると、ああきれいだなと感嘆することしばしばだが、それを誘発する頻度がもっとも高いのは、有名観光地や名山や紅葉ではなくて水蒸気だというのが私の実感である。

それは平凡な田園風景を絶景に変えてしまう(終着駅)』

 

と、日本の風景の神髄は水蒸気であると喝破したのは宮脇俊三氏であるが、実際にその光景に接すると、この国を旅している幸せが胸にこみ上げてくる。

観光地を散策する訳でもなく、乗り物ばかりに乗っている旅のスタイルに、どのような意味があるのかと自嘲したくなることも少なくないけれど、雨の日にバスや鉄道に揺られれば、この趣味を続けていて良かったと思うのだ。

 

 

磨崖仏に程近い臼杵ICを過ぎると、東九州道はぐぐっと海岸に近づいていく。

それだけ、山が海に迫る険しい地形なのだが、「パシフィックライナー」号は、その愛称に反してなかなか太平洋を拝ませてくれない。

津久見、佐伯と居並ぶ海沿いの街の背後を通過して、バスは、大分と宮崎の県境に立ちはだかる山岳地帯に踏み込んでいく。

 

 

「パシフィックライナー」号でも、大分米良ICの入口にある米良バイパス入口から延岡ICまでおよそ70kmもの間、乗降停留所が設けられていない。

並行する国道10号線と日豊本線は、佐伯まで海沿いを南下した後に、宗太郎越えと呼ばれる峻険な地形の真っ只中を貫いている。

日豊本線のこの区間には、特急列車を除くと1日4往復の普通列車しか運転されていない。

東九州道は、国道よりもリアス式海岸に近い東側に膨らんで、緩やかな孤を描くように建設されているけれど、地形や集落など全く眼中にないと言わんばかりの傲然たる線形で、人跡稀な土地を行くことに変わりはない。

 

 

佐伯ICと蒲江ICの間には、北九州と宮崎の間における東九州道に穿たれた68本のトンネルのうち、最後に貫通した1560mの佐伯トンネルがある。

平成元年に竣工した最初のトンネルから、平成26年2月の佐伯トンネルの開通までには、四半世紀もの歳月を要している。

東九州道で先行して開業した区間が、地形が穏やかで後背人口や交通量が多いという理由によって優先的に建設されたのならば、佐伯と延岡の間は、人口密度が極端に少ないことで後回しにされたのだろうか。

 

 

10年以上も前のことであるが、大分と延岡の間をバスで旅した時のことを、ふと思い出した。

 

平成11年に特急バス「わかあゆ」号が運行を開始した時には、大分と延岡の間に定期バスを走らせるほどの往来があるのだろうかと、怪訝に感じたものだった。

この路線に見込まれた採算ラインは平均3割の乗車率であったというから、その程度でペイするならば何とかなるのかもしれない、と思い直したけれど、当初は宮崎交通と大分バスが各2往復する1日4往復の運行だったにも関わらず、平成16年3月限りで大分バスが運行を中止、平成18年4月からは土休日のみ1往復という寂しい状況に追い込まれた挙げ句、平成22年4月に廃止されたのである。

 

 

「わかあゆ」号が経由したのは国道10号線ではなく国道326号線で、豊肥本線に沿って九州山地の懐深くまで分け入り、豊後大野から真っ直ぐに南へ下って延岡に抜ける。

かつて、このルートは日豊間のメインルートであり、日向街道と呼ばれていた。

北川の渓谷に沿って、幅員が狭くすれ違いすら難しい狭隘な道路だったようだが、昭和60年頃から改良工事が進められ、1613mの桑の原トンネルや、北川ダム湖を渡る唄げんか大橋などの開通で、全線2車線の快適な道路に生まれ変わった。

改良によって国道10号線宗太郎越えと所要時間が逆転したため、大分と宮崎を結ぶメインルートとして、原点に回帰したのである。

 

大分のトキハ前を出発した「わかあゆ」号の途中停留所は、米良バイパス入口、パークプレイス大分、戸次、犬飼久原、三重監督署前、小野市、つじの坂、道の駅うめりあ、北川町、レーヨン前、延岡駅前バスセンターであった。

行けども行けども鬱蒼たる杉林が続くだけの寂しい車窓が続き、特急バスが走っていることが不思議に感じてしまうほど、何にもないところだった。

 

 

 

 

つじの坂停留所の別名は「ととろ入口」で、北川ダム湖のほとりにある宇目の集落で、「ととろ入口」と標識を掲げた交差点を目にしたことは、今でも鮮明に覚えている。

ここから県道日之影宇目線で1.5kmほど西に入ると、「ととろ」バス停が置かれている。

この「ととろ」は「轟」の漢字があてがわれている難読地名で、昭和24年に大分バスが佐伯から木浦鉱山に至る路線バスを開設した後に、地元の人々が子供の通学のために手作りの待合所を造った。

木造にトタン屋根をかぶせた簡素な待合所は、幅員が狭いことから道沿いの小川に丸太を渡し、その上に張り出すように造られていたという。

 

 

 

 

昭和63年に宮崎駿監督の映画「となりのトトロ」が公開され、平成9年になって、バス停にベニヤ製のネコバスが置かれているのが発見された。

誰が置いたのかは分からず仕舞いだったが、その後、サツキとメイの人形やトトロの看板などが次々と置かれ、口コミで観光客が集まるようになったのである。

 

待合所は平成16年の台風18号により倒壊してしまったが、町内の大工さんたちの協力で建て直され、杉の皮葺き屋根に顔料で汚し塗装が施されるなど、古びたバス停の雰囲気がそのまま再現されたと聞く。

平成25年4月に、この停留所を通る路線バスは廃止されてしまったが、バス停は撤去されず、近くには「トトロの森」と名付けられた公園が整備されて、ネコバスのパネルやトトロの人形などが置かれている。

「となりのトトロ」の舞台は狭山丘陵であると言われているから、大分の轟と直接の由縁はない。

 

 

「トトロ」という地名は、延岡にもある。

市街地から日向市寄りの外れに位置する土々呂地区で、日豊本線と国道10号線が身を寄せ合うように併走する交通の要所である。

家々の合間をすり抜けてきた列車が海に近づき、反対側からはそそり立つ岩山が線路際まで迫り出して、速度を落としながら右へカーブするあたりに土々呂駅が設けられている。

駅から延岡寄りの国道上には土々呂バス停も設けられ、こちらは今もなお現役で、延岡と日向を結ぶ路線バスが走っている。

運行末期の「わかあゆ」号が日向市駅まで延伸された際には、通り道にもなった。

 

 

かつての土々呂は、宮崎県北部における有数の漁港の町として栄えたものだと地元の人から聞いたことがあるけれども、今では隣りの門川漁港の方が賑わっていて、遠見山や烏帽子岳を抱くこんもりとした半島に囲まれた港も魚市場も、ひっそりと静まり返っている。

「となりのトトロ」に因んだ町おこしやPRが成されたという記録もなく、轟と異なって港町に「トトロ」は似合わないのかもしれないけれど、「わかあゆ」号は、紛れもなく2つの「トトロ」を結ぶ特急バスであった。

ネコバスをデザインした車両でも投入すれば、人気を博したかもしれないのに、とついつい夢想してしまう。

 

 

「パシフィックライナー」号は、北川ICでいったん高速道路を離れ、隣接する道の駅北川はゆまで小休憩をとった。

はゆまとは、飛鳥時代に設けられた駅制度で用いられた駅馬の古い呼び名で、早馬から転じたものだと言われている。

北川ICの前後が無料区間で本線への出入りに料金が発生しないため、東九州道の実質的なサービスエリアとして機能している。

このような方式の休憩施設は、首都圏でも、最近建設された圏央道などに散見されるようになった。

 

背にしているのは大崩山で、このような雨の日には少しばかり不安な心持ちにさせられる山の名である。

広大な駐車場に比べれば多少せせこましく感じる敷地だったけれど、農家の旧家を模したような建物の中には地元の特産品や水畜産物の直売所が置かれ、その品揃えの豊富さを見れば、実り豊かな土地にやって来たのだな、と実感する。

 

 

 

 

「あれ、いつ鳴るっちゃね?見てみたかねえ」

「正午でしょ?あと30分もあるっちゃ」

 

という女性の話し声に思わず振り仰げば、建物の屋根にからくり時計が置かれている。

東京に出て来たばかりの若かりし頃、有楽町のマリオンで、毎時00分になると文字盤が開いて可愛らしい鼓笛隊が飛び出す仕掛けに、思わず足を止めて見入った記憶が蘇る。

何枚も写真を撮ったからお上りさん以外の何者でもないが、道の駅はゆまでは、着物姿の男の子と女の子が馬とともに登場し、「どこかで春が」など数曲を代わりばんこに演奏するのだと言う。

 

見てみたかねえ、と思っても、定時運行の高速バスの客なのだから、時間が合わなければ如何ともしがたい。

 

 

五ヶ瀬川のほとりに設けられた延岡ICでも、バスはいったん料金所をくぐって寄り道をする。

本線高架橋の下に設けられた停留所で降りたのは若い女性客1人で、乗って来る客は皆無だった。

時間調整のために数分ほどエンジンを切ったバスの内外はしんと静まり返り、見渡す限りの水田にしとしとと降り注ぐ雨音が寂しく耳を打つ。

 

市街地までは行かないけれど、延岡に乗降停留所が置かれた「パシフィックライナー」号は、「わかあゆ」号の後継路線と言えるのかもしれない。

 

 

 

 

広々とした河川敷に心が洗われるような思いがした五ヶ瀬川を渡ると、「パシフィックライナー」号は、再び目まぐるしく繰り返されるトンネルに突っ込んでいく。

視界を閉ざされてしまうのは残念だが、排気ガスに汚れていない新しいトンネルを高速で走り抜けるのは、なかなか迫力がある。

稜線の彼方に日向灘を望む区間に差し掛かって、思わず身を乗り出すこともあったけれど、車窓の大半は、目に滲みるような深々とした緑に彩られた山々と水田ばかりである。

1枚1枚の田圃の濃淡が微妙に異なっているのは、品種や田植えの時期の違いによるものなのだろうか。

 

 

何度か行き来したことがある国道10号線の、変化に富んだ沿線風景が、今となっては無性に恋しい。

家電量販店や中古車販売店などが軒を並べる日向市郊外の先にある小倉が浜では、思わず溜め息が洩れるような、文字通りの白砂青松が目に滲みたものだった。

耳川の河口の奥まった入り江に、ひっそりと身を寄せ合う美々津の集落では、ここから船出したと伝わる神武天皇の軍勢は、どうしてこのように狭隘な土地を選んだのだろうと首を傾げたくなった。

都濃や川南近辺では、洪積台地が続くために水田が作れず、区画整理された畑と荒れ地が入れ替わり立ち替わり現れて、開けた大空が高原の趣を醸し出しているから、古びた家々が身を寄せ合う集落ののどかさと相まって、心まで大らかになった。

 

 

九州山地の奥深い秘境である椎葉村を水源とする耳川や小丸川、米良荘からの一ツ瀬川など、源流の清らかさをそのまま保っているかのような川を次々と渡っていくことも、国道10号線の醍醐味だった。

岩山の麓を回り込んで見通しが利かないカーブの先に、どのような風景が現れるのかと楽しみになる国道10号線の道行きであったが、東九州道の構造は、走行の妨げにならないよう滑らかに画一化されて、どこが平地でどこに川が流れているのかすら定かではない。

 

 

西都ICから先は平成13年から開通していた区間で、自分でもハンドルを握ったことがある。

風景が懐かしいと言いながらも、信号停車を繰り返しながら、だらだらと走り続ける単調な国道10号線に嫌気がさして、東九州道を選んだ当時のことに思いが至れば、人間とは誠に勝手なものだと自嘲してしまう。

 

車窓を塞いでいた山並みが、いつしかなだらかな丘陵に変わり、この先に大きな街が現れるような予感が心をとらえれば、そこはもう宮崎市である。

 
 

 

 

 

東九州道上で「パシフィックライナー」号が最後に停車する宮崎バスストップは、生い茂る木々の合間に、高速道路の間際まで民家がぎっしりと建て込んでいる。

ここは大淀川の上流に当たる富吉という地区である。

宮崎市街に用事のある乗客が間違って降りてしまうようなことはないだろうが、どうして「宮崎」などという大雑把な停留所名を冠したのだろうかと不思議に感じてしまう立地である。

 

宮崎西ICから市街地に降りた「パシフィックライナー」号のラストスパートは、それまでの鄙びた車窓と一変して、ビルの谷間を目まぐるしく行き交う人々と、道路から溢れんばかりの車一色に塗り潰され、バスは少しずつ遅れ始めた。

 

 

 

 

このバスは南宮崎駅に近い宮交シティバスセンターが終点なのだが、暫く前から時刻表と睨めっこをしていた僕は、13時10分に到着する宮崎駅で下車することにした。

小倉を出て7時間余り、僕はついに東九州道を走破して、宮崎の地を踏むことが出来たのである。

 

何となく手狭に見える駅前のバス乗り場では、数々の市内線に混じって、新八代行き「B&S宮崎」号や鹿児島行き「はまゆう」号といった高速バスが勢いよく走り込んできては、客を乗せて発車していく。

「はまゆう」号は昭和57年に開業した宮崎初の高速バスであり、「B&S宮崎」は、九州新幹線が全線開業した平成23年の登場で、「パシフィックライナー」号が開業するまで最も新しい高速バスだった。

「はまゆう」号で鹿児島まで足を伸ばすのも一案だったが、このバスは、まだまだ未開通区間が多い東九州道ではなく、宮崎道と九州道経由である。

 

宮崎発着の幾つかの高速バスに乗車した時のことは、今でもありありと脳裏に思い浮かべることが出来るけれども、全く異なる道筋でたどり着いたこの日は、まるで違う街に来てしまったかのような錯覚に苛まれた。

 

 

近代的な高架駅の1階に軒を並べる商店街で駅弁を購入し、僕は13時31分発の大分行き特急列車「にちりん」16号で折り返した。

「にちりん」と言えば、かつては日豊本線の代表列車で、中には博多から小倉を経て西鹿児島まで延々と走り抜く長距離列車も運転されていたものだったが、今では博多と大分の間を特急「ソニック」に譲り、大分と宮崎の間を細々と行き交うだけのローカル特急に短縮されてしまった。

使われている車輌も、前日の特急「きらめき」と同じく、鹿児島本線の看板列車の座から追いやられた787系である。

この列車に間に合うよう、「パシフィックライナー」号を宮崎駅で乗り捨てたのだが、昼下がりの「にちりん」の乗客は、数える程しかいない。

 

それでも、移りゆく日向路の光景は、並走する国道10号線と同じく変化に富んでいて、1時間10分で到着する延岡まで、僕は車窓に目を奪われっぱなしだった。

 

 

延岡駅の改札を出ると、僕は傘を開くのも忘れて、思わず立ちすくんだ。

今山を背にして古びた雑居ビルが建ち並ぶ駅前の光景に、一気に十数年の時間が短絡した。

 

ロータリーに面した延岡バスセンターでは、福岡行き「ごかせ」号と熊本行き「あそ」号が改札を始めている。

これらのバスで延岡を訪れた20年以上前の記憶も忘れ難いけれど、この街で心に浮かぶのは、結婚する数年前まで付き合っていた女性のことだった。

彼女の故郷が延岡の土々呂で、僕は彼女と連れ立って、年に1~2回はこの土地を訪れたものだった。

空路で宮崎入りし、空港レンタカーで延岡に足を伸ばすという行き方が最も多く、国道10号線も、買い物や食事に訪れた延岡駅周辺も、路地の1つ1つに至るまでこよなく懐かしい。

ふとしたきっかけで7年にも及ぶ交際に終止符を打つことになってしまったが、慣れ親しんだ延岡の古風な街並みは、その当時から全く変わっていなかった。

 

 

延岡駅前バスセンターを15時35分に発車する高速バス「ひむか」号は、宮崎市内を経て空港まで足を伸ばす最終便で、宮崎駅に17時30分、宮交シティバスセンターに17時42分、終点宮崎空港には17時59分に到着する。

19時発の羽田行きの飛行機を予約していたから、「パシフィックライナー」号で巻き込まれた宮崎市内の渋滞のことを考慮すれば、時間は案外ぎりぎりだった。

 

それでも、「ゆのくに」号や「パシフィックライナー」号よりひと足早い平成26年4月に開業した「ひむか」号に乗ってみたくて、僕はわざわざ延岡まで引き返して来たのである。

開業当初は各停便6往復とノンストップ便2往復の計8往復が運行されていたが、平成28年5月から各停便だけの5往復に減便されている。

救済策として「パシフィックライナー」号が延岡ICから宮崎市内まで予約不要で乗車可能になり、延岡-宮崎間におけるバスの本数は実質11往復に増えたのだが、「パシフィックライナー」号は延岡市内に入らないため、「ひむか」号の代替機能を果たしていると言えるのかどうか。

十数年前までは、国道10号線経由で延岡と宮崎を走り通す快速バスもあったが、いつの間にか途中区間で寸断されてしまった。

 

 

JRの特急列車「にちりん」や「ひゅうが」を見る限り、鉄道の乗車率が際立って高い訳でもなさそうで、ならば人の行き来がどこに流れているのかと言えば、おそらく自家用車であろう。

高速道路が開通すれば自家用車の利便性も増して、手強いライバルとなってしまうのは、高速バスの宿命である。

延岡方面に向かうために、福岡発の昼行高速バス「ごかせ」号や、廃止された大阪発の夜行高速バス「ひえつき」号が経由していた、九州道から高千穂を越える国道の他に方法がなかった時代のことを思えば、東九州道の完成は間違いなく時代の進歩である。

 

 

 

 

平成29年2月から走り始めた京都発大阪・神戸・延岡経由宮崎行き夜行高速バス「ひなた」号は、北九州から東九州道を南下する新しい経路を選択している。

だが、僕が足繁く延岡を訪問していた時代に「ひむか」号が存在していたならば、頻繁に利用しただろうかと考えれば、答えは否である。

公共交通機関で延岡入りしても、滞在中の足に困ってしまうのだ。

 

延岡ICから東九州道に入るまでに、「ひむか」号は、中央通2丁目、ベンベルグ前、向陽倶楽部前、県病院前、平の前、延岡消防署前と、延岡市内の停留所を丹念に回っていく。

ベンベルグとは再生セルロース繊維のことで、延岡を拠点とする旭化成の工場を指しているのだろう。

「ひむか」号は、殺風景な工場の敷地内にずんずん入っていくから、思わぬ工場見学になった。

 

 

 

 

先に触れた大分-延岡間特急バス「わかあゆ」号に、レーヨン前というバス停が設けられていたことを覚えておられるだろうか。

大正11年にビスコース・レーヨン糸を製造する旭絹織株式会社として設立されたことが旭化成の始まりとされているから、その工場に至近の停留所だったのであろう。

昭和5年には延岡アンモニア絹絲株式会社が設立され、昭和8年に同社が旭絹織株式会社と日本ベンベルグ絹絲株式会社を合併し社名を旭ベンベルグ絹絲株式会社と改称、昭和18年に日本窒素火薬株式会社を合併して日窒化学工業株式会社となり、昭和21年に社名を旭化成工業株式会社と改めたのである。

 

いったいいつになったら宮崎へ向かうのですかと運転手さんに問いたくなるほど、しつこく延岡市内を回る「ひむか」号の停留所が置かれているのは、見覚えのある土地ばかりで、どうしても、ほろ苦さを伴った感慨が湧いてくる。

 

 

 

 

延岡南ICから先は、東九州道で最も早く開通していた旧・延岡南道路である。

 

土々呂と市街を行き来するためには少しばかり遠回りになるけれど、鄙びた土地柄には似つかわしくないような自動車専用道路の快適さに魅せられて、彼女を助手席に乗せてよく利用したものだった。

延岡市街の南で国道10号線から高架道路の土々呂バイパスに分岐し、五ヶ瀬川の支流の沖田川を遡って延岡南道路に入り、土々呂トンネルと加草トンネルを立て続けにくぐり抜けてから、山ぎわに設けられた門川ICで国道10号線に降りるという、僅か10分程度のささやかなミニ・ドライブに過ぎなかったが、楽しそうに生まれ故郷の風景を眺めていた彼女の笑顔は忘れられない。

 

当時は、どうしてこのように立派な道路を建設したのかと不思議でならなかったが、まさか高速道路に転用されるとは思いも寄らなかった。

 

 

門川ICから国道10号線を延岡方面に少しだけ戻ると、小川を挟んだ旧道沿いに洒落た喫茶店があり、延岡を去る前夜には、1人暮らしをしていた彼女の母親と3人で夕食を摂るのが常だった。

彼女とは別の人生を生きている身としては、その思い出が詰まった土地を再訪するなどと言う行為は決して褒められたものではなく、再び延岡の地を踏むことはないだろうと思っているけれども、幸せに暮らしていることを願うばかりである。

 

 

 

上り線の門川バスストップに停車中の大分行き「パシフィックライナー」号を見れば、「ゆのくに」号が大分に到着する直前に見かけた便の折り返しではないか。

この日の旅が、邯鄲の夢のように一瞬にして凝縮した。

まだまだ先がある、と張り切っていた朝のことを思い出すと、九州の東海岸を行き来した僕の旅が、あと2時間あまりで終わりを迎えようとしていることが寂しい。

 

「ひむか」号は、雨が降りしきる黄昏の東九州道を、ひたすら南へと走り込んでいった。

 

 

 

 

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