日本最長路線バス名金急行線の系譜を継ぐ五箇山号で本州縦断10時間のバス旅 ~前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和62年に走り出した、名古屋と金沢を結ぶ高速バス「北陸道特急バス」は、昭和の末に始まった現在の高速バスブームの一翼を担った老舗路線である。
それまで北陸本線の特急列車「しらさぎ」や高山本線の特急「ひだ」が独占していた都市間輸送に参入するなり、瞬く間に人気路線へとのし上がり、今でも1日10往復が運行されている。
 


僕も、国鉄の夜行高速バス「ドリーム」号で東京から名古屋に出て、開業後間もない「北陸道特急バス」の初乗りを兼ねて金沢に向かったことがある。
並行していると言っても、鉄道と高速バスの車窓は全く異なっているから侮れない。
バスは名神高速道路で濃尾平野を西へ進み、米原JCTで北陸道へ分岐すると、琵琶湖の北端にそびえる賤ヶ岳や柳ヶ瀬山の麓を右に左にと回り込むように分け入っていく。
 
草の葉に かどでせる身の 木部山 雲に路ある ここちこそあれ
 
と道元禅師が詠んだ木ノ芽峠に近い杉津越えから眼下に敦賀湾を見下ろし、小松付近からは日本海の波打ち際を走れば、金沢までおよそ4時間弱、「しらさぎ」とはひと味もふた味も異なる快適なクルーズだった。
 
 
名古屋と金沢を結ぶバスは、「北陸道特急バス」が初めてではない。
 
金沢駅前のバス乗り場で、「名金線」という名を見聞きしたことがある方もおられるだろう。
西日本JRバスの一般路線バスが「森本」「福光」などといった行き先を掲げて出入りしているだけであるから、福光や森本とはどこにある町なのか、それが何故「名金線」なのかと混乱してしまうが、非常に歴史の古い伝統路線なのである。
「名金線」とは、この路線が歩んできた数奇な歴史から生まれた名称である。
 
 
金沢と福光を結ぶ路線がバス開業したのは昭和10年のことで、当初は金沢と福光の文字を取って「金福線」と命名されていた。
終戦直後の昭和23年に「金福線」は岐阜県白川村まで延伸され、昭和8年に美濃白鳥-牧戸間で開業して以来、順次路線を伸ばしていた国鉄バス「白城線」と、五箇山付近の境川橋詰停留所で連絡したことで、金沢と美濃白鳥を結ぶ「金白線」を名乗る。
昭和42年12月1日に美濃白鳥から名古屋まで延長されて、名古屋鉄道バスと共同運行で、太平洋岸から日本海岸までを走り抜く直通バス「名金急行線」が誕生したのである。
 
 
当時の停留所は、名古屋駅-尾張一宮駅-岐阜駅前-小屋名-美濃市役所前-郡上八幡駅前-美濃弥富駅前-美濃白鳥-正ヶ洞-蛭ヶ野高原-牧戸-飛騨中野-平瀬-鳩ヶ谷-西赤尾-下梨-福光-金沢駅の18駅で、全区間を乗り通した運賃は1200円であった。
投入された車両は、「急行列車の1等並み」と謳われたリクライニングシートと冷房を完備した44人乗り(補助席を含めると54人)の新車であったという。
鉄道よりも豪華な車内設備で集客を図るあたりの裏事情は、昭和30~40年代に開業した長距離バスで多く見られたことである。
豪華バスに補助席がついているのか、と思う方もおられるかもしれないが、それは時代の違いというものである。
 
 
開業初日には、金沢駅前の国鉄バス乗り場で、国鉄バスと名鉄バスの2台が揃って発車式が行われている。
国鉄金沢自動車営業所の所長が、
 
「念願の相互乗り入れが実現し、中部飛騨の山脈を越えて名古屋へ向かう夢のバスが登場した。今後市民の足として可愛がって貰いたい」
 
と挨拶し、それぞれのバスの担当運転手への花束贈呈が行われた。
北國新聞の記事によると、その日は朝から雪模様で、座席の約半分が埋まる程度の乗客数であり、名古屋までの乗車券を買い求めた客は1人だったと報じられている。
 
もともとは岐阜県中北部や石川県南部の鉄道空白地帯を、越美北線・南線や城端線などの最寄り駅と結ぶ路線として意義づけられていたローカル路線が、なぜ名金間を結ぶ長距離バスに発展させられたのか、その意図や経緯はわからない。
 
 
昭和40年代初頭の名金間では、東海道本線と北陸本線経由で1日1往復が運転されていた国鉄の特急列車「しらさぎ」が所要3時間半、同じく1往復の急行「こがね」が4時間半、そして1日数本が運転されていた米原乗り換えの各駅停車の所要時間が7~8時間、また高山本線経由の準急「加越」と「しろがね」が5~6時間を要していたことから、名金急行線を直通する利用客も少なくなかったのかもしれない。
名古屋から北陸へ向かうのは大旅行だったのである。
 
「名金急行線」の全盛期には名古屋駅-金沢駅間の直通便が4往復設定され、9時間40分にも及ぶ日本一の長距離路線バスだった。
子供の頃に全国版の時刻表でこの路線の存在を知り、是非とも乗車してみたいと思った。
しかし、もともと過疎地域に設けられた路線の宿命と言うべきか、昭和54年に国鉄バスが鳩ヶ谷と福光の間の運行を中止して、名古屋-鳩ヶ谷間と福光-金沢間に分断され、名鉄便も夏期だけの季節運行となってしまった。
 
 
平成2年7月の週末、まだ梅雨が明け切らずじめじめした鬱陶しい日々が続いていたが、本屋で立ち読みした時刻表の巻末に「名金急行線」名鉄バス便「五箇山」号の運行開始について掲載されているのを目にして、よし、今年こそ行くぞ、と心に決めた。
名古屋までは横浜発の夜行高速バス「ラメール」号を利用することにした。
 
「ラメール」とはフランス語で海を意味する。
平成元年に登場した、美しい響きの愛称を持つこのバスは、当時、雨後の筍のような勢いで路線数を増やしていた横浜発着路線の1つだった。
横浜を拠点とするバス事業者3社が競うように新路線を開拓し、中京・関西の都市圏向けの路線だけでも、名古屋は京浜急行、京都は神奈川中央交通、大阪は神奈川中央交通と相模鉄道のダブルトラック、奈良と和歌山は神奈川中央交通、神戸は京浜急行といった有様で、あたかも戦国時代の陣取り合戦を見ているかのようだった。
人口が200万人を超えて大阪市を抜き去り、我が国第2位の都市となっていた横浜では、高速バスの需要も大いに見込まれていたのだろうが、その後、東京など首都圏各地を発着する他の路線に吸収されたり路線そのものが廃止になったりした挙げ句、今では横浜だけを発着する夜行高速バス路線は1つも残っていない。


深夜の横浜駅東口YCATバスターミナルに横付けされたバスは、東京駅と名古屋駅を結ぶ老舗の夜行高速バス「ドリームなごや」号を運行しているJR東海バスの担当だった。
青と緑の波線に彩られた専用塗色のバスは、見上げるようなスーパーハイデッカータイプだったが、乗り込んでみれば、車内にずらりと揃った座席は、ちょっぴり窮屈な横4列シートである。
当時でも横3列シートの夜行バスが主流となりつつあったものの、「ドリームなごや」号では昭和44年の開業以来の横4列シートが依然として残されていた時代で、「ドリーム」号に乗り慣れていた僕は、まあ、こんなものだろうと、それほど落胆はしなかった。
「ドリームなごや」号が現在のような横3列シートの2階建て車両を導入したのは平成3年、「ラメール」号が横3列シート化されたのは平成18年のことである。
 
この間、品川発着に延伸されたり、名古屋市内の星ヶ丘や栄に停車するなど、様々な梃入れ策が講じられたが、平成20年に「ラメール」号は廃止されてしまった。
 
 

ただし、平成14年に開業した、西船橋駅を起終点にTDR・東京テレポート駅といった湾岸地域を経由して名古屋に向かう夜行バス「ファンタジアなごや」号が、「ラメール」号廃止の半年後に横浜を経由するようになり、横浜と名古屋を結ぶ夜の旅は今も残されている。
 
運行末期ともなれば空席が目立ったという「ラメール」号であるが、僕が乗車した便は掛け値なしの満席だった。
指定された車内中程の窓際席でくつろぎ、乗降口を次々と昇って来る客に目を向けながら、今夜の相客はどのような人だろうかと若干の不安に駆られているうちに、
 
「ここ?」
「もっと先じゃない」
「6のBとC、あ、ここみたいよ。どっちに座る?」
「どっちでもいいから、早く座りなさいよ。後ろがつかえてるんだから」
 
などと賑やかに言い交わしながら、通路を進んで来た若い女性の2人連れが、僕の横で足を止めた。
 
「失礼します」
 
と、先頭の女性が目をいっぱいに見開いてこちらを見つめてから、隣りに腰を下ろした。
連れの女性は、通路を挟んだ向こう側の席のようである。
 
弱ったな、と思う。
同性同士ですら、高速バスの車中では、袖や肩が触れ合う隣りの客に何かと気を遣うものである。
ましてや、長時間をともに過ごす夜の道中である。
相手も同様であろうが、身じろぎ1つするにも気が散ってしまい、名古屋まで心安らかに過ごせなくなる可能性がある。
女性専用席を設けるなど、世の中の乗り物がジェンダーに対して敏感になるような時勢ではなかったのかもしれない。
 
 
「やっぱ、席が離れちゃうんだ」
「しょうがないじゃない。あなたが切符を買い間違えたんだから。どうして明日の日付の切符を買っちゃうわけ?」
「ごめんね。でも、交換して貰えたんだから、もういいじゃん」
「そうね、あんな間際でよく席が残ってたわよねえ」
 
僕の思惑に関係なく、2人は通路越しのお喋りに余念がない。
反対側の窓際席は若い男性が占めて、隣りに誰が来ようが関係ない、という風情でそっぽを向き、早くもリクライニングを倒しているのを見て取った僕は、
 
「僕がそちらに移りましょうか?」
 
と、2人の会話が途切れた隙を窺って申し出た。
 
「えっ?いいんですか?ねえ、こちらの方が席を替わって下さるって」
「ラッキー!ツイてるじゃん!そうしようよ。本当にすみません」
 
と、相方の女性は早くも腰を浮かせている。
せっかくの窓側の特等席を放棄して通路側の席になってしまうけれども、この場合は致し方ない。
明日の予定もあることだから、安眠の方が重要である。
対面の席の男性は聞き耳を立てていたのかもしれないけれど、僕が移動して来ても、うーん、と不機嫌そうな唸り声を上げ、改めて顔を窓に向けただけだった。
余計なことをしやがって、と内心舌打ちしていたかどうかは、僕が関知するところではない。
 
隣り同士になった2人組は、それまでにも増して猛烈な勢いでお喋りを始め、この調子では車内の静謐の妨げになって、僕が乗客全員に恨まれるのではないかと首をすくめたが、発車して間もなく、揃って寝息を立て始めたから、胸をなで下ろした。
2人が静かになるのも当然で、「ラメール」号の出発時刻は23時30分と極めつきに遅く、保土ヶ谷バイパスを経由して横浜・町田ICから東名高速道路に入る頃には、日付が変わっていた。
 
 
「ラメール」号は深夜のハイウェイを順調に下り、足柄SAと三ヶ日ドライブインで20分ずつの休憩をとる。
これは「ドリーム」号と全く同じ行程である。
駐車スペースも共通で、他の「ドリーム」号がずらりと「ラメール」号を囲んでいる。
白と青のツートンカラーにツバメマークが入った国鉄色のバスが居並ぶ中に、全く異なる外観のバスが割り込んでいる様は、何となく違和感がある。
運転手さんは、そのようなことにはお構いなく、顔見知りらしい「ドリーム」号の運転手さんと何やら談笑している。
 
「ドリーム」号に乗車すると、三ヶ日ICの外にある「みかちゃんセンター」で関西風うどんを供する店が深夜も営業していて、程良い夜食が楽しめたものだった。
「ラメール」号に乗車した夜にもうどん屋が開いていたかどうか、実は記憶が定かではないけれど、開いていたように思う。
ならば、「ドリーム」号の知られざる名物だった三ヶ日うどんの食べ納めだったということになる。
翌年に「ドリーム」号が横3列シートを備えたダブルデッカーに入れ替わったのと同時期に、三ヶ日における休憩と乗務員交替が、「みかちゃんセンター」からJRバスの営業所に移されて、うどんを賞味する機会も失われた。
 
 
当時の「ラメール」号は、横浜駅から名古屋駅まで、途中停留所がいっさい設けられていないノンストップ運行だった。
休憩以外はひたすら眠りを貪り、早朝6時前に名古屋駅桜通口の構内にあるバスターミナルに到着した時には、あまりに呆気なく感じたものだった。
 
今の「ファンタジアなごや」号下り便の横浜駅東口YCAT発も23時30分で、「ラメール」号と同じであるが、星ヶ丘駅や千種駅、栄といった名古屋市内停留所によるために、名古屋駅到着は「ラメール」号より遅い6時23分である。
別の社の夜行高速バスで、23時半頃に名古屋を出て早暁4時50分に新宿で降ろされた経験がある。
交通機関を利用する際には、早く着いて解放されたいと感じてしまうものだろうが、もう少し寝かせて欲しい気持ちにさせられるのが、首都圏と名古屋の間の時間的距離である。
 
まだ人影が疎らな名古屋駅のコンコースを歩いて、僕は名鉄バスセンターに向かった。
「ドリーム」号から「北陸道特急バス」に乗り継いだ4年前にも、同じように朝の名古屋駅構内を通り抜けたことを思い起こせば、歳月が一気に短絡した。
 

 

往年の「名金急行線」をたどる名鉄バスの「五箇山」号は、名鉄バスセンターを8時40分に発車する。
3階の薄暗い長距離バス乗り場に現れた名鉄バスは、真っ白な車体に赤い帯が入っただけのハイデッカーで、他に何の装飾も施されていないから、のっぺりとした外見だった。
僕が名古屋駅や名鉄バスセンターで過ごしていた2時間あまりの間に、街は夜から昼の装いに様変わりしていて、バスセンターの長いスロープを下りた先の街路はぎっしりと車に埋め尽くされていた。
 
 
名古屋駅の南側に設けられたスロープと、名駅通りに挟まれた区画には、ゲームセンターやボーリング場、飲食店などが入った「名鉄レジャック」が建っている。
 
開業当初の「名金急行線」の国鉄バス便は、「ラメール」号や「ドリーム」号と同じく名古屋駅バスターミナルを発着していた。
その後、運行区間を短縮した国鉄バスの名古屋-鳩ヶ谷間高速バス「特急 白川郷」号も、名古屋駅を拠点としていた。
一方の名鉄バス便は、「名鉄レジャック」が建つ敷地に一時期開設されていた「笹島高速センター」を起終点としていた。
名神高速道路しか開業していなかった時代に、高速センターとはよくぞ名付けたと思うが、昭和42年に、我が国初めての立体バスターミナルとして名鉄バスセンターがオープンするまで、名鉄の長距離バスは笹島を拠点としていたのである。
当時の時刻表やパンフレットを見ると、笹島を起点に伊良湖岬、上高地、木曽福島、飯田、中津川、長島、下呂温泉、そして郡上八幡や金沢など各方面に、名鉄バスが運行されていたことがわかる。
このような資料を見てしまうと、この時代に生まれていたかったと思う。
 
 
名鉄バスセンターが完成してからは、「名金急行線」名鉄便は同センターを発着するようになり、名古屋側のターミナルは、最後まで国鉄と区別されていた。
 
10年前ほど前に、名古屋駅バスターミナルから名鉄バスセンターまで、5分程度の接続で乗り換えようと駆け足をしたことがあるのだが、間一髪の差で間に合わず、乗りたかったバスの後ろ姿を、息をはずませながら無念の思いで見送ることになった。
国鉄の車掌が乗務列車に乗り遅れることを「尾灯オーライ」と呼ぶのだと、元国鉄車掌だった作家の壇上完爾氏の本で読んだことがある。
「尾灯オーライ」とは、発車を見送る駅員が列車最後尾の赤灯を指さし確認する事であるが、それを車掌がする羽目になるという表現が、深刻な事態にも関わらず、どこかおかしみを感じさせる。
国鉄バスと名鉄バスが運行に加わった「北陸道特急バス」には、名鉄バスセンターと名古屋駅バスターミナルの双方に立ち寄る親切な便が設けられていたから、名金急行線で2つの乗り場を取り違えた挙げ句に「尾灯オーライ」をした客が、少なからず実在したのかもしれない。

 

 

「おはようございます。本日は名鉄バスの金沢行き『五箇山』号を御利用いただきましてありがとうございます」
 
名古屋市内を行くバスの車内で、交替運転手さんがひょっこりと乗降口から顔を出して、挨拶を始めた。
名古屋から金沢までの行程が263.2kmと聞いただけでは、長距離高速バス全盛の昨今では大した距離ではないように感じてしまうが、高速道路をいっさい使わず、夜行の「ラメール」号の1.5倍にも及ぶ9時間もの所要時間に備えて、「五箇山」号の運転手さんは2人乗務している。
 
車の波に揉まれるように国道22号線名岐バイパスを北西へ進み、9時20分に尾張一宮駅に立ち寄った「五箇山」号は、木曽川を渡って岐阜県に入る。
あいにくの雨模様で、広々とした河川敷に繁る木々や藪が、雨に打たれてうなだれている。
茶色に濁って渦を巻く水流は河原から溢れんばかりで、垂れ込めた雲に隠れている遠くの山々を眺めながら、上流もかなり降っているのだな、と思う。
 
今では名古屋高速を使う路線も少なくないが、かつては、名古屋を発着して名神高速や中央自動車道に乗る高速バスで何度も行き来した懐かしい道のりである。
幅員が広く複数の車線が設けられている立派な道路であるが、それにも増して交通量が多いために渋滞に巻き込まれることも多く、もどかしい思いをするのは「五箇山」号でも変わりはない。
 
 
当時はまだ廃止されていなかった、真っ赤な路面電車の名鉄岐阜市内線が行き交う岐阜市街に入り、バスは9時41分発の岐阜駅にも立ち寄る。
ここまでの旅の鳥羽口だけで1時間が経過しているから、実にのんびりした旅の導入部だった。
「五箇山」号では、発着地付近で乗降制限を設けるクローズド・ドアシステムが採用されていないため、名古屋駅から岐阜駅まで利用することも出来るけれども、さすがにそれほど酔狂な客はいなかった。
 
岐阜で数名の客を加えた「五箇山」号は、左手に岐阜城を見上げながら、国道156号線に舵を切って北へ向かう。
ヒトデのように平野に触手を伸ばしている山裾を嫌うかのように、なだらかな平地を選びながら敷かれている国道は、関市、美濃市を経て濃尾平野の北辺に近づいていく。
集落と緑の水田が繰り返される単調な車窓の奥から、壁のようにそそり立つ山々が少しずつ迫ってくる。
往年の名金急行線には、岐阜と郡上八幡の間に「小屋名」と「美濃市役所前」の2つの停留所が設けられていたが、「五箇山」号はどちらにも停車せずにひたすら奥飛騨を目指す。
 
 
小屋名は関市街の西の外れにある長良川のほとりにある集落で、平成17年に廃止された名鉄美濃町線の駅が設けられていた。
小屋名のあたりまでは見通しの良いのどかな田園の平野が続いていたが、美濃の市街は山なみに抱かれた扇状地にあり、「五箇山」号はいよいよ中部山岳地帯の懐深くに分け入っていく。
国道156号線は、幾重もの山裾に深々と渓谷を削る長良川の流れに沿って、うねうねと身をくねらせながら北へ進む。
ハンドルを回す運転手さんの動作が忙しくなり、バスの速度が心なしか落ちたように感じた。
霧雨に煙る谷間を、一塊の霧が侘びしく漂っている。
 
 
長良川と吉田川が合流する山あいに位置する郡上八幡の町並みは、細長い河原のような地形にある。
レールウェイライターの種村直樹氏が国鉄担当の新聞記者だった時代に、昭和40年代初頭の越美北線・南線の廃線問題を取り上げた記事を読んだことがある。
郡上八幡や美濃白鳥など沿線に住む人々の声とともに、この土地の様子や「名金急行線」と覚しきバス路線の有様が合わせて描写されていたから、強く印象に残った。
 
『「列車の方が安全じゃ」
「いや、道路の方が速いし、気分がええ」
 
岐阜国体の時、というから5年前のこと。
徹夜踊りと百姓一揆で有名な岐阜県郡上八幡町では町をあげて、この論争に明け暮れていた。
相撲競技の行われる同町に天皇、皇后両陛下をお迎えする国体に備えて、長良川沿いに走る越美南線とほぼ並行する国道156号線が舗装された。
どちらをお通ししたらいいか、というわけだ。
越美南線──高山本線美濃太田から北濃まで72km。
沿線に刃物の関市、和紙の美濃市がある中濃の動脈である。
 
「結局、列車に落ち着きましたがねえ」
 
30cmほども雑草が伸び放題の無人駅、木尾に程近い八幡町のドライブイン。
次々に入ってくるマイカー族の対応に追われながら、主人は語る。
 
「私なんか、ここ数年、あの線に乗ったことがないねえ。早い話、岐阜へ出るにしても、回数の多いバスの方が速くて、料金も安いんだから」
 
なるほど、有人駅が減るのに反比例するように、次々にできたドライブインは、美濃市から郡上郡白鳥町にかけて、もう20に近い。
 
「とろいこと言やあすなあ」
 
と言うように、三島重郎白鳥町長は首を振って、ヒサシの長い家並みの向こうに見える山を指さした。
 
「国鉄諮問委員会の連中は、1度でも現地を見たことがあるのかね。あの稜線の向こうはもう福井県、行きの深いこの地方で、冬、道路がつかえないのは毎年の大雪で立証ずみ。
そりゃあバスも便利だよ。
越美南線延長の陳情に行くときも、国道を通ることが多い。でも、だからといって、この町を陸の孤島にするつもりかね」
 
おっかぶせるように中沢耕作八幡町長がギョロリ、目を向いた。
 
「いざとなれば、我々には宝暦義民と謳われた百姓一揆の血が流れとりますぞ」(毎日新聞昭和44年6月23日)』
 
 
『岐阜県境に近い福井県大野郡和泉町のまんなかに、広々とした荒れ地がある。
人口2553人。
過疎の見本のような村だが、村内の金でスキー場建設が具体化している。
山1つ越えた亜鉛鉱山へ直結する県道バイパス造りも本決まりになった。
寒々とした荒れ地が日本鉄道建設公団で工事中の越美線朝日駅予定地なのだ。
越美線美濃太田-福井間は明治30年頃建設運動が起こり、大正12年の帝国議会で予定線に決まった。
岐阜県側の工事は昭和9年北濃まで伸びたが、福井県側は路盤工事だけで太平洋戦争のため中断された。
あと25kmで半世紀の夢が実現するが、具体的な工事計画はない。
 
「道路が鉄道の代わりになるのは雪の降らん地方のことです。冬は3ヶ月もバスが止まる。第一、損だ得だと言う前に、国が約束を守らにゃ。愛国心なんて言っても、誰も相手にしなくなりますぞ」
 
村の元中学校長、朝日牧雄さんは精神論を説く。
村も鉄道建設公団も、越美線が全通すれば、観光と地下資源開発が進むと頑張る。
 
「バカバカしい。つないだって、誰が乗りますか。過疎対策だと言うのなら、国か県の仕事だ」
 
浅野利治国鉄中部支社長は悪役を承知で言い切った。
南・北線のレールが繋がる日は、果たして来るのか?(毎日新聞昭和44年6月24日)』
 
 
『「踊りの町、郡上八幡へ」
長良川の上流、吉田川のほとりにある八幡町役場で会った中川耕作町長の名刺の裏に、踊りの絵、八幡城の写真と、こんな文句が刷り込んであった。
 
「踊りと美しい自然。しかし観光客を誘致しようにも、袋小路のような越美南線ではねえ。行きも帰りも同じ列車では、つまらんでしょうが……」
 
越美線が全通しさえすればと、ここでも、ついグチになる。
北陸本線と結ぶ回遊ルートができれば国鉄を利用する途中下車客が増えるという、淡い期待だ。
昨年、越美南線の終点に近い美濃白鳥から、国鉄バスで福井県境を越えて約1時間の所に、新しい観光地ができた。
電発のつくった九頭竜ダムと真っ赤な吊り橋、そのそばに岐阜県の業者が鍾乳洞を開発。
5月連休3日間に1万6000台のマイカーと貸切バスで4万5000人が集まった。
ほとんどが名古屋、岐阜ナンバー。
普段の日曜日も3000人は下らない賑わいである。
それなのに、越美南線と国鉄バスを乗り継いでくる観光客は1人もいない。
 
「なんせ国鉄バスは1日に2へんしかないで、行っても帰れんで、しょうがねえなァ。せめて白鳥からダムまで、汽車を受けて往復するバスでも動かしてくれるとええが、白鳥の営業所ではダチカン(埒があかない)」
 
と、地元の人は嘆く。
名古屋からの直通急行列車はわずか2両編成。
ひとつかみの客を乗せてガタガタ走る。
観光客に見捨てられたこの列車に、地元の人は深い愛着を持って乗る(毎日新聞昭和44年6月26日)』
 
 
この記事にも取り上げられている郡上一揆とは、郡上藩がこれまでの年貢徴収法を変更し、増税を決定したことがきっかけとなって1676年に発生した。
藩の弾圧や懐柔などで豊かな農民層の多くが脱落し、中農、貧農が運動の主体となった一揆勢であるが、幕府の老中への直訴を決行、長期化する情勢の中で、藩の弾圧を避けるために郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築したのである。
時の将軍徳川家重が、一揆に幕府中枢部が関与している疑いを抱いたことで、幕府評定所で裁判が行われ、一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下される一方で、郡上藩主は改易となり、幕府高官の老中、若年寄、大目付、勘定奉行らも免職となった。
 
施政者の圧政から身を挺して民を救う義民の話は各地にも伝わり、首謀者は死を賜るという結末を迎えることが少なくない。
郡上一揆でも同様の結果となったが、百姓一揆の結果、領主や幕府高官らの大量処罰が行われた例は他に類を見ない。
郡上一揆をきっかけとして、年貢の増収により財政の健全化を図る方策は廃れ、商業資本への課税が推進されるようになったとも言われている。
この地域の人々が、かつては国を揺るがし、新しい時代を拓いたことを思えば、眠っているような古い町並みを車窓から眺めているだけでも、粛然とした心持ちになる。
 
 
徹夜踊りとして有名な郡上おどりは、毎年7月中旬から9月上旬まで、延べ32夜に渡って開催される盆踊りである。
特に、8月13~16日のお盆に夜通し踊り続ける盂蘭盆会が徹夜踊りと呼ばれ、一般参加も可能と聞いているから、いつかは行ってみたいものである。
徳島県の阿波踊り、秋田県の西馬音内の盆踊りと並ぶ日本三大盆踊りの1つに数えられている郡上おどりの起源は、郡上一揆で混乱した民心を治めるためだったという。
 
 
僕が郡上八幡で思い出すのは、平成13年に公開された佐藤マコトの漫画が原作の映画「サトラレ」である。
郡上八幡ほどの町であれば、もっと芸術的な名作の舞台にもなっているのではないかと思うけれども、思い浮かぶのは、岐阜県の農家出身である神山征二郎が監督し、平成12年に公開された「郡上一揆」くらいであるが、僕は未見である。
安藤政信が演じる、心の中の言葉が周囲にいる人々にあからさまに伝わってしまう研修医が主人公で、鈴木京香、寺尾聰、八千草薫などが扮する周りの人々の葛藤が描かれた、SFチックなヒューマンドラマだった。
僕は原作を読んだことはないけれど、きちんとした人間賛歌になっているストーリーに大泣きしたものだった。
映画の舞台は岐阜県の架空の町とされていたが、ロケの殆どが郡上八幡で行われ、郡上おどりや、越美南線が第3セクター化された長良川鉄道を含めて、郡上八幡のしっとりと落ち着いた町並みは強く心に焼きついた。
この映画を初めて観たのは、東京と下関を結んでいた寝台特急列車「あさかぜ」の個室で放映されていたオーディオサービスだった。
退屈しのぎに小さな画面のスイッチを何気なく入れた途端にたちまち惹き込まれて、2度も繰り返し観賞して夜更かししたことや、その旅から帰って直ぐに通販でDVDを手に入れた思い出も、今となっては大変懐かしい。
 
吉田川のほとりにある桜並木は、映画で何度か背景に挿入され、「サトラレ桜」の名で呼ばれるようになったという。
 
 
昭和4年の開業当初の面影をそのまま残している、木造駅舎の郡上八幡駅を11時09分に発車した「五箇山」号は、再び国道156号線を北上する。
山々の隙間を縫うようだった郡上八幡までの道筋に比べれば、長良川が見せる表情は穏やかになった。
山並みが後退して空が広くなり、水田と家並みが途切れることがないままに、バスは白鳥の町へ歩を進めていく。
後の平成14年に郡上八幡町と白鳥町は合併して郡上市になったが、地形の上でも、2つの町には連続性があるようだった。
 
人気が全く見られず、雨だけが降りしきる美濃白鳥駅前バスターミナルの発車は、11時40分である。
「名金急行線」開業当初の名鉄便に比べれば、名古屋発車が20分遅いにも関わらず、美濃白鳥には20分も早く着いている。
道路が改良されて、バスの性能が向上したからであろうか。
 
白山信仰の拠点として栄えた白鳥町の北西には白山山系が連なり、「五箇山」号が遡ってきた長良川は、手前にそびえる大日ヶ岳が水源である。
ここからが「名金急行線」の前身である国鉄バス「金白線」としての伝統あるルートで、本番はこれからである。
 
だいぶ遠くまで来たような気がしていたけれど、白鳥から金沢までの距離は約160km、まだ全行程の3分の1を消化したに過ぎなかった。
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