日本最長路線バス名金急行線の系譜を継ぐ五箇山号で本州縦断10時間のバス旅 ~後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。


日本一の長距離運行を誇った「名金急行線」の末裔である「五箇山」号が、美濃白鳥を過ぎ、白山山系の麓を更に登り詰めていく国道156線には、厳しい気候を物語るように、母袋温泉、しらお、鷲ヶ岳といったスキー場の案内標識が散見されるようになる。


白鳥から40分ほど進めば、窓外の眺望が大きく開けて、瀟洒なペンションがぽつりぽつりと散在する蛭ヶ野高原に出る。
蛭、などという字を用いた地名からは、深々と藪が生い繁っている様を想起してしまうが、降りしきる雨に煙っていてもなお、爽やかな解放感を感じさせる見晴らしの良い高原だった。
ここが「名金急行線」のほぼ中間地点である。
12時20分に到着したひるがの高原スキー場で30分の途中休憩が設けられているので、昼食がてらバスを降りて身体を伸ばし、存分に高原の冷気を味わうことが出来た。


以前に国鉄バスがぎっしりとスキー客を詰め込んでいる写真を見たことがあるけれど、お堅い印象がある国鉄バスがスキー輸送とは、何となくそぐわない気がする。
「名金急行線」が分断された後にも、蛭ヶ野高原の手前にある大日岳スキー場まで、名古屋からの直通便が冬季に運行され、「スキー場休業日には運休」などと時刻表に記載されていた。


蛭ヶ野高原を南北に貫く国道沿いに分水嶺公園があり、ここから北へ流れる水は庄川、南へ流れる水は長良川である。
バスの窓から見ることは出来ないが、公園に置かれた素朴な石碑には、左右の矢印にそれぞれ「太平洋」「日本海」と書かれているという。

分水嶺を過ぎても奥飛騨の山々は尽きることなく、「五箇山」号はまだまだ山越えを続けなければならない。
急傾斜で谷に落ち込む山裾を濡らす庄川の、僅かな縁にへばりついているような山村が荘川村である。
このあたりは奥飛騨の屋根とも言うべき山岳地帯で、1000mを越える山々がひしめき合い、村の中心である牧戸の標高は約800mもある。
荘川村の六厩地区は東海地方随一の寒冷地帯とされ、昭和56年2月の-25.4℃を筆頭に、今でも毎年のように-20℃を下回る低温が観測されている。
「五箇山」号が運行される真夏でも、山肌を覆う木々の色彩はどこか褪せて、素寒貧とした光景に変わる。



平成20年7月に全線が開通した東海北陸自動車道において、最後まで未開通区間として残されたのが、荘川ICと白川郷ICの間であった。

この区間には、全長1万710m、道路トンネルとして首都高速中央環状線山手トンネルと関越自動車道関越トンネルに次ぐ国内3位、世界でも12位の長さを誇る飛騨トンネルが掘削されている。
このトンネルが貫く籾糠山は、事前のボーリング調査が不調であったために、蓋を開けてみるまで地質が分からないという手探り状態で工事が始まった。
工事中の湧水は青函トンネルを上回る毎分70トンにも及び、刻々と変化する地盤と相まって、予想外の難工事となったために、平成19年とされていた開通時期が翌年までずれ込んでしまったのである。
土木史上稀に見る難工事であったにも関わらず、青函トンネルや安房トンネルなどのような死亡事故が起きなかったのは偉業と言えるだろう。
荘川IC付近の東海北陸道には、標高1085mの松の木峠に日本高速道路最高地点があり、日本一の118mの高さを誇る鷲見橋が架けられていることにも、この地域の峻険さが表されている。


分水嶺に近い上流にしては水量がたっぷりしているものだな、と思う間もなく庄川の川幅が一気に広がって、木々の間に御母衣湖が現れる。
無数のさざなみが輪を描いて、山影を映した静かな湖面を雨だれが打っている。

昭和36年に竣工した御母衣ダムの建設もまた、東海北陸道と同様に脆弱な地質に悩まされた。
一帯には断層が多く、崩落が頻発する地質で、1585年には大地震によって、現在のダムの位置にあった帰雲城が崖崩れで埋没し、城主一族が滅亡したという悲惨な記録も残されている。
御母衣ダムの建設計画が持ち上がった昭和20年代後半は、朝鮮戦争に伴う特需景気で日本の工業生産力が飛躍的に向上し、電力需要も急上昇していた時代である一方で、戦時中の物資不足や空襲の影響が残っていて発電施設が絶対的に不足し、停電がしばしば生じていた。
経済発展のためには電力の安定した供給が不可欠であったため、地質が弱くても建設が可能なロックフィルダム方式を導入することで、建設が推進されることになった。

ダムが建設された荘川村と白川村は、かつて米の収穫がほとんど見込まれなかった飛騨地方における貴重な穀倉地帯であり、かつ林業なども営まれている比較的豊かな土地であったが、ダム建設に伴い174世帯・230戸が水没し、約1200人が移転を余儀なくされることから、住民は猛然とダム建設に反対した。
冬の豪雪から生活を守るために、家長が強力なリーダーシップをとる大家族主義によって厳しい生活を乗り切っていたことや、除雪作業や合掌造りの建て替えなどを通じて強固な共同体が形成されていた土地柄が、団結した反対運動につながり、水没対象となる230戸が「御母衣ダム反対期成同盟」を結成する。
御母衣ダムをめぐる一連の住民運動には、どこか、300年前の郡上一揆に通じる気質が垣間見えるような気がする。
一方、建設主である電源開発の高碕達之助総裁は、時に涙を流しながら膝詰めで交渉に臨み、住民の理解に努めたという。
電源開発側が、「御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、これを実行するものであることを約束する」と記した「幸福の覚書」によって補償交渉の基本姿勢を示したことで、反対派住民の態度が軟化する。


深々と緑色に染まる豊かな水を湛えた人造湖の果てに、堤高131m・堤長405mの御母衣ダムが姿を見せるはずであったが、ダムの脇をすり抜けていく国道156号線には洞門が連続して、全く見通しが利かない。
このまま御母衣ダムを拝むことが出来ないまま過ぎてしまうのかと気を揉みながら、幾つもの洞門をくぐり抜け、かなり下流まで降りてくると、ようやく巨大なダムが全景を現した。
壁面に岩石が剥き出しになっているロックフィルダムの武骨な外観に、人間とは途轍もない建造物を造り上げるものだという驚嘆を禁じ得ない。
建設をめぐる人間模様に思いをめぐらせれば、尚更のこと心を打つ眺めだった。



御母衣ダムの先には、鳩谷ダムに堰き止められた人造湖が車窓右手に続き、その北側を大きく回り込むように坂を下ると、「五箇山」号は白川村の集落に入っていく。

「長らくの御乗車お疲れ様でした。間もなく萩町に到着します。バスは、萩町バスターミナルで30分の休憩と見学の時間を取る予定です。こちらで降りて、萩町までお歩きになることも出来ますので、御希望の方はお申し出下さい」

国道から旧道の白川街道に右折した辺りで、交替運転手さんがアナウンスした。
萩町と言われてもピンと来ずに、怪訝そうな表情をしている僕に向かって、

「ぜひどうぞ。貴重品さえお持ちいただければ、お荷物は置いていっていいですよ」

と運転手さんが重ねて勧める。
言われるままにバスを降りた僕が心許なく思えたらしく、運転手さんも一緒に乗降口を降りてきて、

「この道をこのまま真っ直ぐに進んで下さい。バスは道沿いに停まっていますから、すぐ分かりますよ。ゆっくり歩かれても充分に間に合いますけど、萩町の発車時刻は14時39分ですから、お乗り遅れなさいませんように」

と丁寧に案内してくれた。



降りしきる雨が煩わしいのか、降りた客は僕1人であった。
乗り続けるつもりのバスに「尾灯オーライ」するのは初めての経験で、別に乗り遅れた訳ではないけれども、僕は、走り去る「五箇山」号の後ろ姿を心細い気持ちで見送った。
またこのバスに会えるのだろうか、と思う。

記憶が定かではないのだが、僕が降りたのは、集落の入口の萩町神社バス停だったような気がする。
鬱蒼と木々が生い茂る境内で一拝してから、僕は傘をパラパラと打つ乾いた雨音を聞きながら、とぼとぼと歩き始めた。
なだらかな稜線に囲まれた、清冽な雰囲気の集落である。
胸に吸い込む空気が清々しい。
古びた農家の縁側で藁細工をしているお婆さんが、何やら見慣れない人間がいるようじゃが、といった顔つきで僕を眺めている。
「五箇山」号に乗って、このような散策の時間を持てるとは予想もしていなかったが、どうして僕はここを歩かされているのだろう、とも思う。

時間は余裕がありますよ、と運転手さんに言われても、初めて来た土地で、目的地までの時間距離がわからない状態では、せっかくの散歩が勿体ないけれども、つい足早になる。
鈍い話であるが、しばらく歩を進めると、青々とした水田の向こうに建ち並ぶ、がっしりとした重々しい外観の合掌造りが見えて来たことで、ああ、ここは白川郷だったのかと漸く思い当たった。


折しも、高岡行きの加越能鉄道バスが、水たまりを跳ね飛ばして勢いよく走り去っていった。
白川郷のような有名観光地を運行する所要2時間以上の路線にしては、古びた車両であったため、少しばかり驚いたものだったが、仮に「五箇山」号に合流出来なくても、路線バスが走っていると分かっただけで大いに心強い。
そのうちに、「五箇山」号の車内で見かけた人々が三々五々歩き回っているのが見えて、すっかり安堵した。
「五箇山」号が停まっているバスターミナルの近辺が、合掌造りの住宅が集まっている地区だったから、萩町で降りても充分に観光は可能で、僕も築400年と言われる旧家を覗いたり、五平餅をかじったりした。

それでも、バスを離れてのんびりと歩いた時間は、「五箇山」号の行程の中でも、忘れがたい強烈な記憶を残した。
粋な演出だったと思う。



白川郷を後にした「五箇山」号は、白川村の中心で、「名金急行線」の一部区間が廃止された後に終点となった鳩ヶ谷を14時42分に通過し、岐阜と富山の県境に跨がる最後の難所に挑んでいく。
開業当初に「中部山岳横断バス路線」と銘打たれたこの路線は、ここからが本領発揮である。

このあたりの国道156号線は、谷の急斜面を削って道を通したために、幅員が狭く転落の危険と隣り合わせの悪路であったことから、「イチコロ線」と揶揄されていたと聞く。
バスがシリンダーのようにすっぽりとはまってしまいそうな狭隘なトンネルを行く「名金急行線」の写真を見たことがあるけれど、全く変わっていない昔ながらの道路が続き、バスは入口でクラクションを鳴らしながら、注意深く進入していく。


蛇行している庄川に沿って県境が引かれていることから、トンネルと橋で直線状に建設された国道は、県境を7回も越える面白い走り方をする。

県境に架けられた7つの橋は、飛越七橋と呼ばれ、橋ごとに欄干が7色に塗り分けられている。
合掌造りをモチーフとした造形で、飛越七橋で最長の440mを誇る黄色の合掌大橋は、橋の中央で富山県南砺市を通過するが、両端は岐阜県白川村である。
くすんだ赤色に塗られた149mの飛越橋で、岐阜から富山へ渡る。
198mの成出橋は、飛越橋より鮮やかな赤色のアーチをくぐりながら、岐阜県へ戻る。
緑の欄干に彩られた126mの小白川橋で再び富山県へ。
天正年間の山崩れで神社が庄川に押し流され、数年後に御神体の木像が発見されたという伝説から名付けられた127mの宮川原橋では、青の欄干を眺めながら岐阜県へ。
筏で木材を運びながら庄川を下った船頭が焚き火をしたことから名付けられたという、長さ120m、藍色の欄干の火の川原橋で富山県へ。

6番目の火の川原橋で富山側に越境してしまったら、最後の橋で岐阜に戻ってしまうではないかと不安になってしまうのだが、紫に染められた欄干を持ち、最も短い106mの楮橋だけは、県境を越えないというオチであった。


「名金急行線」の功績の1つとして、秘境と言われた五箇山にバス路線が通じたことが挙げられる。
五箇山は、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷と呼ばれる5つの地域に集落が散在する庄川上流の山村である。
川の上流地域へ向かうには、谷口から川沿いを遡るのが一般的だが、庄川は、牛岳と八乙女山に挟まれて谷口で深い峡谷を形成しているため、人馬の通行を拒絶してきた。
そのため、五箇山から砺波平野にでるためには、1000m級の高清水山系の鞍部に拓かれたブナオ峠、小瀬峠、細尾峠、朴峠、杉尾峠、栃原峠、杉谷峠などの峠道を越える必要があった。
比較的緩やかとされていた朴峠ですら、「五箇山追分」に、

朴峠追分け 身の毛もよだつ 下は谷底 人喰らい

と唄われ、転落事故や雪崩に怯える難所だったのである。

五箇山の交通がどのようなものだったのかについては、トナミ運輸の社史に書かれた次の記述によく表されている。

「当時、五箇山、利賀村への道路にはバスも通っていなかったから、五箇山、利賀村の人たちは砺波運輸の山行便のトラックに便乗していた。もっとも荷物の上に乗るのだから便乗料は自由払い。ただ、いつの間にか“五箇山便乗料”なるものが自然のうちに決まり、殆どの人がトラックを降りる時に便乗した距離に応じて、いくらかずつ払うようになった」


「名金急行線」の五箇山越えの写真を見て、ちょっとハンドルを切り損なえば脱輪して谷底に真っ逆さまではないか、と息を飲むような、とんでもない山道を行く特急バスの姿に、仰天したことがある。
昭和40年代までの日本の道路では決して珍しい光景ではなく、整備が遅れがちな県境を越えて走っていた長距離バスは、今では信じられないような悪条件の道を使って各地を結んでいた。
この時代の運転手さんの技量と、それに生命を預ける乗客の度胸には、ただ恐れ入るのみである。

標高720mの細尾峠に馬車が通すための近代的な道路が開拓されたのは明治20年だったが、肝心の峠があまりの急坂であるために馬車が上り下り出来ず、人力で荷運びをしなければならないという有様だった。
昭和2年に、ようやく自動車を通せる道路が細尾峠に開削され、昭和29年には富山地方鉄道のバスが通うようになり、「名金急行線」も乗り入れるようになった。


「名金急行線」は通年で運行される計画であったが、開業した昭和42年12月1日の夜から岐阜県の山間部は大雪に見舞われ、翌日の名古屋駅発の1番バスは牧戸で折り返し、金沢発は全便が運休という事態になる。
そのまま牧戸-福光間が冬季に運休と決まり、季節運行とされてしまったのである。
昭和54年6月に、名古屋-金沢間の国鉄直通便は冬季運休のまま廃止が決まり、実質的に昭和53年6月から11月にかけての運行が最後になったことが記録されているから、「名金急行線」が1年を通じて運行されたことは1回もなく、現在の「五箇山」号の夏期運行の形は、在りし日の姿そのままということになる。


12月に雪が積もり始めると、5月に雪解けを迎えるまではどうにもならず、五箇山の人々は昔ながらに外界と隔絶された雪ごもりに甘んじなければならなかった。
道路が閉ざされる冬場になると、庄川を船で行き来し、バスや、今は亡き加越能鉄道加越線の青島町駅(後の庄川駅)からの鉄道に乗り換えていた。

5年の歳月をかけて建設された五箇山トンネルが、昭和59年に開通式を迎えることで、冬季の通行止も解消されたが、既に「名金急行線」全線を直通する国鉄便は廃止されて久しく、名鉄便も観光需要が主体となっていたために通年運行されることはなかった。


国道156号線沿線における最後のダム湖は、庄川の険しい谷口に建設された小原ダムである。
手前に合掌造りで知られる菅沼集落が、その先には相倉集落がある。
のんびりと開けた高原の趣があった白川郷とは異なり、険しい山々を背負い、他と隔絶された厳しい雰囲気の佇まいだった。

定刻15時02分に到着する西赤尾バス停で、「五箇山」号は15分の休憩をとる。
菅沼地区の手前に設けられた停留所は、白川郷と五箇山で最大と言われる岩瀬家合掌造りの入口にある。
間口26.4m・奥行き12.7m、高さ14.4mの堂々たる家屋は、大黒柱に使われている一尺角の欅をはじめ、24畳敷の出居の敷板にも全て欅材が使われ、しかも釘を一切使わず縄とねそで結び上げて造られているという。
数百年の風雪に耐えて人々の生活を守ってきた、その風格ある佇まいを見上げれば、ただ圧倒されるばかりである。


岩瀬家の紹介文が、更に心を打つ。

「五箇山は大自然の優しさよりむしろ厳しさの多い地です。
人々は、その厳しさに寄り添うように生活してきました。
その象徴が合掌造といわれる家屋です。
手を合わせたような急勾配の屋根の形は、豪雪地帯のこの地で雪を落としやすくし、屋内を幾階にもわけて活用する為です。
この岩瀬家は準五階建てで、3~5階は養蚕の作業場となっています。
また、下階の炉から暖をとり、風通しをよくする為上階の床板は透かしの目皿になっています。
岩瀬家は、昭和33年5月14日に国指定重要文化財に指定されました」

20年ほど後に、高岡から名古屋へ向かう高速バス「きときとライナー」号に乗り、東海北陸道で山を越えた時の光景は忘れられない。
長いトンネルを抜けた五箇山ICで、いきなり車窓が白一色に覆われ、山々に塞がれた谷間で深い雪に埋もれて身を寄せ合う合掌造りを目にした時には、胸がつまる思いがした。
厳しい自然と闘いながら健気に生き続ける、人間の気高い姿そのものを目の当たりにしたように感じたのだ。



「五箇山」号は、小原ダムの下流にある下梨の集落で、国道304号線に左折する。
道はいきなり急勾配に変わり、エンジン音が一段と高鳴る。
この旅の僅か10年前まで冬の往来を閉ざしていた峠道とは、いったいどのような光景なのかと、思わず身を乗り出した。
しかし、国道304号線はさほど地形の険しさを感じさせることなく、長さ3070mの五箇山トンネルを呆気なく走り抜けて、30分足らずで城端の町に降りてしまう。
それでも、改良された国道の長大トンネルや橋梁に注意深く目を凝らせば、五箇山トンネルは深い谷を渡る橋に直結されているなど、全く平地が見当たらない険しい地形にかなり苦心して建設されていることが伺われる。
少しばかり交通手段が便利になったからと言っても、奥深い五箇山の幽邃さは、今も昔も変わりはない。

ちなみに、「名金急行線」の前身である「金白線」が「金白北線」と「金白南線」に分かれていた頃に、両者が接続する停留所となっていた「境川橋詰」は、五箇山越えの旧道に設けられていたという。


午後4時過ぎに到着した城端駅は、JR城端線の終着駅とは思えないほどこじんまりとした瓦屋根の駅舎だったが、周囲をぎっしりと建物に囲まれているから、久しぶりに大都会へ戻ってきたような気分にさせられる。
町並みは途切れることなく福光に続く。

福光から先は、西日本JRバス名金線が頻繁に行き交う幹線国道に身を任せて、金沢までたどるばかりである。
すれ違うJRバスの運転手さんが、顔をほころばせながらこちらに挙手の挨拶をしてくれる光景が、「名金急行線」を共に担い続けてきた2社の絆を感じさせて、無性に嬉しかった。


昭和54年に「名金急行線」国鉄便の鳩ヶ谷と福光の間が休止になってからも、全区間で2往復を維持していた名鉄便「五箇山」号は、昭和55年から1往復に減便された後、この旅の11年後の平成13年9月30日をもって34年の歴史に幕を下ろした。

名古屋と鳩ヶ谷の間に残されていたJR東海バスの「特急 白川郷」号も、一部区間を高速道路に乗せ換えて奮闘したが、平成14年に運行を休止している。
末期の時刻表を見れば、掲載されているのは僅かに3往復、しかも通年の定期運行は美濃白鳥と鳩ヶ谷の間だけで、名古屋-美濃白鳥間は1往復が大型連休や夏休み、紅葉の季節の秋口、年末年始だけに延伸されているに過ぎない。
しかも、一部とは言え東海北陸道を経由しているにも関わらず、名古屋と鳩ヶ谷の間の所要時間は5時間40分程度と、大して短縮されていない。


この頃になると、長距離高速バスとしては異例の小型バスで運行されていた「特急 白川郷」号の姿に、「名金急行線」の凋落ぶりと、経営的に厳しい路線状況が察せられて胸が痛んだ。

昨今は小型バスで運行される高速バス路線も増え、岡山と鳥取を結ぶ「鳥取エクスプレス」号や、福山と高知を結ぶ「オーシャンライナー」号などを目にした時には、過疎のローカル路線のように代替交通機関がない場合はともかく、そこまでして走り続ける必要があるのかと首を傾げたくなったこともある。
極力コストを抑えてでも路線を維持したい、という事業者の熱意の表れなのだろう。
岡山-鳥取線などは、短躯ながらも横3列シートを備えた19人乗りのバスを投入していたから、どのような乗り心地なのかとわざわざ乗りに出かけたこともあったけれど、その日は普通の大型バスで運行されていて、がっかりさせられたものだった。



「名金線」は、昭和40年代から50年代にかけての10年間だけ、本州を縦断するという壮大な使命を担ったが、21世紀を迎えて、金沢と福光を結ぶ創成期の姿に戻ったことになる。
しかし、「名金急行線」の意思を継いで、今もなお、名古屋と金沢を結び続けているものがある。
それは、空前の耐久レースを走り抜く人間の足である。
「さくら道国際ネイチャーラン」のHPには、次のような巻頭の言が掲げられている。

『太平洋と日本海を結ぶ266㎞の道を、桜のトンネルで結ぼうと決意した男がいた。
御母衣ダム工事で、水没する山寺の樹齢400年を数える桜の古木が移植され、見事に蘇ったその生命力に感動したからである。
その男は、名古屋と金沢を往復するバスの車掌・故佐藤良二氏である。
彼はバスの走る道沿いに、桜の苗木を黙々と植え続けた。
乏しい蓄えを注いだ。
少ない休暇を使った。
2000本も植えただろうか。
男は病に倒れた。
志半ばで力尽き、逝った。
47歳の短い生涯だった。
清貧という言葉が改めて見直される今、「人の喜ぶことをしたい」と病魔に侵された我が身を顧みず、無償の行為を貫いた佐藤氏の生き方は、貧しくとも豊かな心を持つ、人間の幸福な姿を問いかけてくれる。
佐藤氏が夢みた「さくらのトンネル」を、走り抜けるという形でその遺志を受け継ぐと共に 「太平洋と日本海をさくらでつなぐ」という大事業の完成に少しでも寄与できればと「太平洋と日本海を桜でつなごう さくら道国際ネイチャーラン」を開催する』


時は遡り、昭和34年11月に「御母衣ダム反対期成同盟」の解散によって水没世帯の補償交渉が全て終了した直後に、「さくら道」の物語は始まった。

解散式の後、電源開発総裁の高碕達之助氏が「御母衣ダム反対期成同盟」の書記長若山芳枝氏と共に歩きながら荘川村の光輪寺に差し掛かった時、樹齢400年以上に及ぶアズマヒガンザクラに目を留める。
見事な枝振りを目の当たりにした高碕氏は、桜研究の第1人者だった笹部新太郎氏に桜の移植を依頼したのである。
光輪寺の桜は重量35トン、同じく湖底に沈む予定だった照蓮寺の桜は38トンもあり、それを200m上の山腹に引き上げるという前例がない依頼に、最初は断ろうとした笹部氏であったが、高碕氏の熱意に折れて、移植事業の総指揮を執ることとなった。

昭和35年、愛知県豊橋市の造園業者丹羽政光氏の助力を得て本格的な移植作業が始められたが、笹部氏は枝も根も伐採せずに移植することを主張し、あまりにも巨木であるため伐採なしの移動は不可能と考えた丹羽氏と真っ向から対立する。
丹羽氏は、桜の木に多くの根が張っていることと、若い根が予想以上に多かったことから、職人としての長年の経験と勘に基づき、笹部氏が不在の間に独断で枝と根の伐採を行い、移植を実行に移す。
根も枝も幹も伐採され、変わり果てた姿となった2本の桜を目の当たりにした笹部氏は愕然として、「移植に失敗したら、桜研究から完全に身を引く覚悟であった」とまで思い詰めたが、翌年の春、サクラは根付きに成功して蕾を付けた。
移植から10年後の昭和45年の春、2本の桜は満開の花を咲かせ、11年に及ぶ荘川桜の移植事業は成功に終わった。
高碕氏と丹羽氏は既に故人となっていたが、笹部氏や水没地の住民は桜の移植場所に集まり、事業の成功を喜び合った。
その後も、毎年春になるたびに、水没地の住民は荘川桜に集い、高度経済成長の礎として湖底に沈んだ故郷をしのんだという。

少しでも傷がつくと枯れてしまうことが多い桜の脆弱性を考えると、荘川桜の移植事業は「世界植物史上の奇跡」とまで言われ、水上勉が荘川桜の顛末を「桜守」という小説に著している。


ドラマは更に続く。

国鉄バス「名金急行線」の車掌を勤めていた佐藤良二氏は、丹羽氏から荘川桜の移植事業を写真で記録することを依頼された。
前代未聞だった難事業の価値ある記録として、佐藤氏による一連の写真は「日本さくらの会」に保存されている。
荘川桜がダムの畔で見事に開花した際に、佐藤氏は、荘川桜に取りすがって泣く老婆の姿を目にする。
老婆は、「移植しても枯れる」と言われていた荘川桜が見事な花を咲かせたことに、感極まったのである。
桜にこれほど人の心を動かす力があることを知った佐藤氏は、太平洋と日本海を桜で繋ぐことを思い立ち、昭和41年から名金急行線の沿線に、たった1人で桜の苗木を植え始めた。
昭和52年1月に47歳で病死するまでの12年間で、約2000本の桜を植え続けたのである。

「この地球の上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。
花を見る心がひとつになって、人々が仲よく暮らせるように」

との言葉を遺した佐藤氏の行為は、世間の感覚では、必ずしも手放しに賞賛される類いのものではないかもしれない。
国鉄の給料の殆どを桜に注ぎ込んだ彼の生活は決して楽ではなく、白鳥にある自宅を民宿にしていたことからも、彼を支えた家族の苦労は察するに余りある。

それでもなお、「名金急行線」は、沿線住民から「国鉄の良ちゃん」と親しまれた佐藤氏とさくら道なくしては語れない。
1号桜は、「日本さくらの会」から荘川桜移植の記録のお礼として贈られたもので、JR中央本線千種駅前にあった国鉄バス名古屋営業所に植えられ、名古屋城本丸前に1000本目、金沢市兼六園に1500本目が、毎年春になると見事な花を咲かせているという。
さくら道の植樹は地元の人々によって現在も続けられ、毎年、桜の開花時期に開催される「さくら道国際ネイチャーラン」は、彼の意志を絶やすまいとして生まれたのである。

さくら道の物語は、「郡上一揆」を演出した岐阜県出身の神山征二郎監督により、平成4年に映画化されている。


福光の市街地を抜けた「五箇山」号は、富山県と石川県の県境を成す丘陵地帯を進む。
緩やかなカーブが繰り返される穏やかな車窓が続き、右手から北陸自動車道が寄り添ってくる。
低く垂れ込めた雨雲のためなのか、7月とは思えないほど、日暮れは駆け足で訪れていた。
溶けるように暗転していく奥飛騨の山々を背に、加賀平野に走り出た「五箇山」号は、北陸本線の森本駅前を通過して、東から金沢市街に入っていく。
殷賑な古都の灯が、薄暗くなりかけていた車内を明るく染め上げるようになれば、名古屋から10時間近くを費やして日本の脊梁山脈を横断してきた長旅も終わりを告げる。

バスに乗りに来たはずであるのに、ゴールを目前にした僕の心に浮かんでくるのは、越美線の存廃問題、郡上一揆と郡上おどり、御母衣ダム、白川郷や五箇山の合掌造、荘川桜、さくら道など、厳しい自然と折り合いながら生命を紡いできた、沿線の人々の物語ばかりだった。
「名金急行線」とは、なんと人間臭い路線だったことだろう。

ひっきりなしに出入りする路線バスの合間を縫うように、「五箇山」号が金沢駅前の西日本JRバス「名金線」乗り場に到着したのは、定刻の17時を少しばかり過ぎた頃合いであった。


少し離れた北陸鉄道バスの乗り場には、17時30分発の名古屋行き「北陸道特急バス」を待つ人々が列を作っている。
東京から夜行バスと一般道だけのバスを乗り継いで、随分のんびりと金沢まで来たつもりだったのに、まだ名古屋行きの高速バスに間に合う頃合いなのかと思う。

このバスの名古屋到着は21時23分である。
「名金急行線」と「北陸道特急バス」、名金間を結ぶ新旧の長距離バスを乗り継いで名古屋に折り返せば、新幹線に乗り換えてその日のうちに東京へ戻るという手があったのかと、時代の進歩に驚くとともに、少しばかり悔しい思いがする。
そのような方法など思いも寄らなかった僕は、八王子行きの夜行高速バスをあらかじめ予約しておいたのだ。

颯爽と乗り場を後にする「北陸道特急バス」に「尾灯オーライ」をしながら、僕は、八王子行きの夜行バスが金沢駅を発車する22時10分までの長い待ち時間をどのように過ごそうかと、思案に暮れていた。
これを乗り遅れと呼ぶのかどうかは、今でも分からない。





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