九州高速バス大リレー 東九州自動車道編(1)~ゆのくに号で北九州から別府・大分へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成27年8月末の早暁6時02分、激しい雨が路上に飛沫を上げる中を、まだ眠りから覚めきらない街並みにクラクションを一声響かせて、バスが動き出した。
小倉発大分行き高速バス「ゆのくに」号の車室に、僕は収まっている。
 
 
前々日に新宿発の夜行高速バス「はかた」号で福岡入りして所用を済ませた僕は、博多発門司港行き特急列車「きらめき」で小倉入りしていた。
 
「FUKU-HOKU LINE」と銘打った高速バス「なかたに」号や「ひきの」号、「いとうづ」号が1日100往復近くも運行している福岡-北九州間に、JR九州が平成12年に「きらめき」の運転を開始した時には、運転本数が1日十数本程度とバスより少なく、料金が割高な特急列車に乗る人がいるのだろうか、と訝しく思ったものだった。
この列車に用いられる編成は博多を発着する特急車両の間合い運用が多く、僕が乗った「きらめき」12号は、かつて博多と西鹿児島を結ぶ鹿児島本線の特急「つばめ」で華々しくデビューした787系特急用電車だった。
鎧武者を思わせる厳つい風貌の787系は、九州新幹線開業後は日豊本線などに活躍の場を移している。
かつては九州の看板列車として、国鉄時代からの伝統の愛称「つばめ」を名乗り、表街道を我が物顔に行き交っていた車両が、博多-小倉間のような短距離区間に追いやられたり、南九州で大分-宮崎間「にちりん」や延岡-宮崎空港間「ひゅうが」、宮崎-鹿児島中央間「きりしま」といったローカル特急に運用されている姿を目にすれば、栄枯盛衰は世の倣いとは言え、どこか悲哀を感じてしまう。
 
 
バス乗り場に程近いステーションホテルに宿泊したにも関わらず、午前6時のバスに乗るためには、5時起きを余儀なくされる。
 
真夏でも、九州の夜明けは遅い。
激しい雨に煙る薄暗い小倉駅前を、松山発福岡行き夜行高速バス「道後エクスプレス福岡」号と高松発福岡行き夜行高速バス「さぬきエクスプレス福岡」号が、続け様に数人ずつの客を下ろして、終点福岡に向けて発車していく。
 
 
入れ替わりに、車庫がある砂津バスセンター仕立ての「ゆのくに」号が姿を現した時には、ようやく辺りが白々と明るくなりかけていた。
このような早朝の始発便にどれだけの客が乗ってくるのだろうと、眠い目をこすりつつ、時々周囲を窺いながら待ち時間を過ごしていたが、連れ立って別府の温泉街にでも出かけるのか、真っ先に乗り込んだ派手な装いの観光客をはじめ、半分程度の座席が埋まるなかなかの盛況ぶりである。
 
「えらい雨が降っとるとねえ」
「天気予報でも1日雨って言っとったばい。ばってん、なかなかいいバスじゃなかと?」
「少し狭いっちゃけん、電車より安かろうもん」
 
などと博多弁の話し声が聞かれたから、開業したばかりの新しい高速バスに試し乗りしてみようという客が多いのかもしれない。
 
 
乗り物が発車する時の警笛には得がたい旅情がある。
聞かれないと物足りなく思ってしまうくらいなのだが、バスのクラクションは、その瞬間だけバスファンを辞めたくなるくらいに味気ない。
 
旅の前途への期待と、去る土地への惜別の念が自然と心に湧き上がってくる情緒が溢れる筆頭は、何と言っても船の汽笛であろう。
汽笛と言えば、何度か耳にしたことがある蒸気機関車の吹鳴も、どこか物悲しさを帯びて旅立ちに相応しい。
アイルランドの作家ジェイムス・ジョイスの代表作「ユリシーズ」における汽車の擬声音は「frseeeeeeeefronnnng」で、阿川弘之氏は我流であると断りつつ「ホヒーホーヒイイイヒイ」と訳したが、あくまでこれはヨーロッパの話で、例えば昭和54年に公開されたアニメ映画「銀河鉄道999」にも登場し、幹線の特急牽引機として活躍した日本のC62型蒸気機関車の汽笛は、もっと腹の底に響くような野太い轟きである。
 
 
鉄道文学の嚆矢とも言うべき「阿房列車」シリーズで汽車旅を重ねた内田百閒の時代は、東海道本線の下り特別急行列車に乗れば、東京側の区間は電気機関車、途中から蒸気機関車に付け替えるという客車列車全盛期であったが、文中で『電気機関車の鳴き声は曖昧である』と言下に切り捨てている。
百閒先生は、「ホニャア」「ケレヤア」などと電気機関車の「曖昧」な甲高い警笛を表現した。
 
 
僕がブルートレインをはじめとする客車列車に乗ったのは、百閒先生の時代より40年近くも後の、電気機関車やディーゼル機関車ばかりになった昭和の終わり頃だった。
夜汽車の寝台や座席の片隅に納まって、時折車内にも響いてくる「ピョー」という電気機関車の警笛を聞けば、そこはかとない旅情が胸に迫って来たものだった。
百閒先生の擬声語を初めて目にした時には、そんな風に聞こえるものかと読み飛ばしたけれども、何回か口の中で繰り返すうちに、確かにそのようにも聞こえる気がして来たから、文章のプロとは凄いものだと思う。
曖昧だろうが何だろうが、バスに比べれば遥かに勇壮である。
 
 
車の警笛で好みなのは、「コンボイ」や「トランザム7000」などのアメリカ映画でよく耳にした、大型トラックの「ブォー!」と言うホーンで、ハンドルを握りながら運転手が天井からぶら下がった紐を引っ張る鳴らし方と相まって、その迫力には大いに惹かれたものだった。
ただし、あの重低音は広大なアメリカ大陸の大平原だからこそ似合うのであって、せせこましい日本ではうるさいだけだろうし、旅情を感じる類いの音色ではない。
 
 
僕のこの日の旅は、高速バスを乗り継いで、九州東海岸を一気に南下しようという趣旨だった。
この年の4月に、宮崎以南の一部区間を除いて東九州自動車道が全通し、小倉-大分間と大分-宮崎間、そして延岡-宮崎空港間と、JR九州の特急列車が運転されているのと同じ区間に、高速バス路線がそれぞれ開設されたのである。
日豊本線は列車でたどったことがあるけれども、東九州道を走るのは初めての経験だったから、心が躍る。


 
紀行作家の宮脇俊三氏が、かつて東京と宮崎・鹿児島を日豊本線経由で結んだ寝台特急列車「富士」について言及した一節がある。
 
『「富士」は戦前の最優等列車だった。
列車番号は下りが「1」で、展望車、一等寝台車、洋食堂車を連結して東海道、山陽を走った。
しかし、戦後、特急が続々と復活しても「富士」はなかなか甦らなかった。
東京-博多間のデラックス特急が新設されても「富士」ではなく「あさかぜ」と名づけられた。
格式ある「富士」の名にふさわしい豪華列車が走るまでその名を温存されるのだ、とも噂された。
ところがビジネス特急「こだま」が好評で同類の電車が増発されると、その後塵を拝するように「富士」が復活し、四国相手の宇野行として登場した。
「富士」に宇野線くんだりを走らせるのか、と私は思った。
その後、新幹線の愛称名が「富士」になるとの憶説もあったが「ひかり」と決まり、うろうろしているうちに日豊本線経由の寝台特急に落ち着いてしまった。
日豊本線は線区の格からすると、鹿児島本線や長崎本線より一段落ちる(「最長片道切符の旅」)』
 
大分や宮崎、四国の人々が聞いたら怒り出しそうな一文であるけれど、宮脇先生御自身も四国の出身であるから、多少諧謔気味に表現したのだろう。
 
 
僕が「富士」の存在を知ったのは、日豊本線回りで東京と西鹿児島(現・鹿児島中央)を結んでいた頃で、宮脇先生のような違和感は全く感じなかった。
なぜならば、当時の「富士」は運行距離1574.2km、所要24時間26分という日本最長距離を走破する列車として、堂々と頂点に君臨していたからである。
丸1日以上をかけて走り抜く唯一の長距離列車とはなかなか日本離れした存在で、どのような線区を走ろうが、その威厳は比類がなかった。
 
「富士」の歴史を別の視点で読み解くならば、戦前の東京-下関間(運行距離1096.5km)をはじめ、戦後の東京-宇野間(運行距離765.7km)でも、運転開始当初の日本最長距離列車であり、命名した国鉄の担当者は「富士」の名が相応しいと考えていたのではないだろうか。
日豊本線が格下であるか否かは知らないけれども、裏街道には裏街道の良さがあるのであって、どのような沿線風景を見せてくれるのかという楽しみが減ずることは全くない。
 
 
「ゆのくに」号は、平和通り、三萩野、競馬場前北九州市立大学前 、守恒駅、徳力公団前駅、中谷といった市内停留所で少しずつ客を拾う。
北九州モノレールの高架下を行く国道322号線の、沿道に建ち並んだビル街が窓外を過ぎ去っていく。
競馬場前、守垣、徳力公団前はともにモノレールの駅に設けられた停留所で、いかめしい響きの徳力公団とは如何なる公団なのかと身構えてしまうけれど、徳力という土地にある公団住宅のことだった。
 
徳力公団前駅を過ぎるとモノレールは左手にカーブして視界から消え、空が広くなったように車内が明るくなるが、どんよりと垂れ込める分厚い雲から降り注ぐ雨脚は、全く衰える気配を見せない。
台風が九州に接近した影響で、それまでの猛暑が嘘のように肌寒くなり、夏の終わりを強く感じさせる日だった。
 
 
九州自動車道小倉南ICの流入路の入口にある中谷は、「FUKU-HOKU LINE」の1系統である「なかたに」号の愛称にも採用された停留所である。
20年以上前に「なかたに」号に乗車した時にも通ったはずであるが、景色は全く覚えていない。
小倉市街から抜け出したばかりの場所で、小高い山並みに抱かれた田園地帯を眺めながら、このように鄙びた所を通ったっけ、と記憶を探っている間に、バスは九州道に入って瞬く間にスピードを上げ、そのまま北九州JCTで東九州道に舵を切った。
 
北九州市や苅田町の背後に連なる九州山地の一端を長大トンネルで次々と横切り、行橋市がある大きな平野が現れる。
一段と雨脚が強まり、田園の彼方は雲の中に入ったかのように煙って、全く見通しが効かない。
 
 
行橋ICを過ぎると、このような田圃の真ん中から誰が乗ってくるのだろうかと思ってしまうような行橋今川バスストップを、乗降客がないままに通過する。
行橋今川は、起終点の北九州や別府、大分市内の他に設けられた唯一の停留所で、このあたりの地名は福岡県京都郡みやこ町である。
九州の片隅に千年の都を想起させる地名がいきなり出現するものだから、こちらは度肝を抜かれてしまうのだが、熊襲の反乱が起きた時に、景行天皇自ら征伐のために筑紫国に下って豊前国長峡県に行宮を設けたことが、その起源であるという。
 
 
みやこ豊津ICから椎田南ICまでのおよそ10kmは、東九州道でも初期に建設された旧・椎田道路に当たる。
続く椎田南ICと豊前ICの間は、逆に、東九州道で最も遅い開通となった。
 
東九州道の歴史は、延岡南ICと門川ICを結ぶ延岡南道路が平成2年2月21日に、椎田道路が平成3年3月15日に開通したことから始まる。
福岡県内の椎田道路をはじめ、大分県の宇佐別府道路、宮崎県の延岡道路と延岡南道路、鹿児島県内の隼人道路など、最初は並行する国道10号線のバイパスとして高規格で建設された後に、東九州道として組み込まれた区間が多く見られる。

 

 

平成5年3月29日、宇佐別府道路の院内IC-速見IC間開通。
平成6年12月15日、宇佐別府道路の宇佐IC-院内IC間が開通し、また大分自動車道の一部として速見IC-日出JCT間が開通、宇佐別府道路と大分道が接続する。
平成11年11月27日、大分米良IC-大分宮河内IC間開通。
平成12年3月25日、宮崎西IC-清武JCT間が開通し、宮崎自動車道と接続。
平成13年3月31日、西都IC-宮崎西IC間開通。
同年12月27日、大分宮河内IC-津久見IC間開通。
平成17年4月23日、延岡道路の延岡IC-延岡南IC間開通。
平成18年2月26日、北九州JCT-苅田北九州空港IC間開通により福岡側で東九州道と九州道が接続。
平成20年6月28日、津久見IC-佐伯IC間開通。
平成22年7月17日、高鍋IC-西都IC間開通。
同年12月4日には門川IC-日向IC間が開通し、東九州道が延岡南道路の南端に繋がった。
平成24年12月15日、東九州道須美江IC-北川IC間と延岡道路北川IC−延岡IC間が開通し、東九州道が延岡道路・延岡南道路の両端で接続した。
同年12月22日、都農IC-高鍋IC間開通。
平成25年2月16日、蒲江IC-北浦IC間開通。
同年3月23日、清武JCT-清武南IC間開通。
平成26年3月8日、北浦IC-須美江IC間開通。
同年3月16日、日向IC-都農ICの間が開通し、宮崎県内の全区間が開通。
同年3月23日、苅田北九州空港IC-行橋IC間開通。
同年12月13日、行橋IC-みやこ豊津IC間の開通により、東九州道と椎田道路が直結した。
平成27年3月1日、豊前IC-宇佐IC間が開通し、同時に大分道の速見IC-日出JCT間が東九州道に組み入れられた。
同年3月21日に佐伯IC-蒲江IC間が開通し、大分県内区間は全線開通。
そして、平成28年4月24日、椎田南ICと豊前ICの間が開通し、福岡県内区間が完成、福岡県から宮崎県までが東九州道で結ばれたのである。
 
よくもまあ、これだけ小刻みに開業させたものだと思うが、財政難に喘ぐ我が国が高速自動車道路を整備するためには、このように半世紀近い歳月が必要になっている現実には、やるせなさを禁じ得ない。
 
 
順調に距離を稼いできた「ゆのくに」号は、椎田南ICでいったん高速道路を降りる。
この旅の時点では、東九州道で唯一残されていた椎田南ICと豊前ICの間が未完成で、バスはしょうがないな、と舌打ちするかのように国道10号線をノロノロと走り出す。
高速道路の開通が遅れた区間の一般道を走ると、峻険な地形だったり人口密集地だったりすることが多いのだが、国道10号線は右手に蜜柑畑を抱く小高い丘陵、左手に周防灘を臨むのどかな水田地帯の中を、坦々と伸びている。
交通量は多く、片道1車線の道路を、数珠つなぎになった車の列がベルトコンベアのように一定の速度でゆるゆると流れている。
 
一般道の区間で速度が落ちることは、あらかじめ運行ダイヤに組み込まれているのだろうが、大分での乗り換えを控えている身としては、信号待ちなどで行き足が鈍るたびに、腕時計を眺めてハラハラしてしまう。
 
 
椎田南ICと豊前ICの間の建設予定地にある蜜柑畑の農家が、売却を拒否していたため、平成24年9月に行政代執行で強制収用したという話は、耳にしたことがあった。
畑に櫓を築いて抵抗していた地主が、執行員に羽交い締めにされて連れ出される映像も、動画サイトで観た。
地域の利益のためにやむを得ないという意見と、トンネルにしてあげればいいじゃないか、そこまでして東九州道を建設する意義があるのか、などという賛否両論がネット上に飛び交ったことも覚えている。
僕のような余所者にコメントする資格はないけれど、狭い国土に新しいインフラを整備する際に必ずと言って良いほど噴出する議論である。
「ゆのくに」号が運行を始めたことで、てっきりこの区間が開通したものと早とちりしていたのだが、まだまだ鋭意建設中で、のっぺりした白亜の高架道路が国道の隣りに伸びている。
 
まだ熟してはいないのだろうが、沿道の木々に無数にぶら下がった蜜柑の実が、雨に濡れる緑の葉に映えて鮮やかだった。
 
 
20分ほどで一般道の区間を走り終えた「ゆのくに」号は、気を取り直したように豊前ICから高速道路に復帰した。
 
山国川を渡る橋梁で大分県に入った東九州道は、少しずつ海岸と距離を置きながら、国東半島に連なる山岳地帯に足を踏み入れていく。
左手に中津や宇佐の街を見下ろしつつ、山から山へ渡っていく高架道路に、大小のトンネルが連続する。
博多から小倉を経由して大分を結ぶJRの特急列車「ソニック」ならば、海に面した街にも丹念に停車して行くのだが、「ゆのくに」号は、九州道に乗る直前の中谷バスストップを出てから別府湾バスストップまで、行橋今川を除けば途中停留所が設けられていない。
人口が稠密で用地の取得が難しい平野部を避けて、山寄りに建設された東九州道を行く、高速バスの宿命であろう。
 
 
全国4万余りを数える八幡宮の総本社である宇佐八幡宮で知られる宇佐市には、愉快な話が伝えられている。
宇佐で製造された工業製品に「Made in USA」と記して輸出したところ、米国から製造地を騙るなという抗議が寄せられたことがあった。
ところが、当時の市長も負けずに、
 
「宇佐は西暦521年建立の宇佐八幡まで遡る、日本書紀にも著された由緒ある地名である。200年程度しか歴史のない国が何を言うのか」
 
と反論したのである。
 
日米貿易摩擦がそろそろかまびすしくなって来た時代だったのか、はたまた、現在の大統領にも通じる米国の自大主義に日本人がうんざりしていた頃なのか、我が国では喝采を浴びた逸話だったように記憶している。
僕自身は、輸出製品に「Made in JAPAN」とは書いても、工場のある都市の名を印すことなどあったのだろうか、という疑問を感じたものだった。
この話は真偽の程が不明な都市伝説であるという見解も少なくないようで、そもそも日本製品と言えば低品質というイメージが強かった戦後間もなく、宇佐の家電メーカーが確信犯として行ったことであるとか、当時も今も宇佐に家電メーカーはなく、地元企業として有名なのは焼酎「いいちこ」の本社である三和酒類くらいだ、という説もある。
 
 
息がつまるような山あいを縫ってきた東九州道は、日出JCTで、鳥栖から九州山地を東西に横断してきた大分自動車道と合流する。
久しぶりのバスストップが置かれている別府湾SAは、ここまで高度が上がっていたのかと目を見張る程に高みを極め、眼下に幾重にも折り重なる山裾の彼方に豊後水道が広がった。
車窓の劇的な変化に、車内にも歓声が上がる。
 
海岸に向けて一気に駆け下りてから、別府ICで高速走行を終え、湯煙があちこちに立ち昇る別府の市街地を通り抜ける道筋は、博多-大分間高速バス「とよのくに」号や大分-長崎間高速バス「サンライト」号からも眺めた曾遊の地である。
この2路線は大分道経由だったので、今回初めて東九州道を使って来たことを思えば、見覚えがある景色にもどこか新鮮味を感じる。

 
ホテルや観光案内所が建ち並ぶ別府北浜停留所で半分以上の客が降り、閑散となった「ゆのくに」号は、波打ち際を走る国道10号線で大分市へ向かう。
 
「ゆのくに」号の車窓に華を添えてくれた海は、国東半島を境にして、周防灘から豊後水道へと名前を変える。
九州側から見れば、周防灘の対岸は山口県だったが、豊後水道の彼方は四国である。
朝方に見かけた夜行高速バス「道後エクスプレス福岡」号や「さぬきエクスプレス福岡」号は、この海の向こうから夜を徹して走って来たのかと思う。
 
 
豊後水道と言えば、1958年に制作されたアメリカ映画「深く静かに潜航せよ」が思い浮かぶ。
原作は元潜水艦乗組員が実際の体験を基に書き上げた小説で、太平洋戦争中に、クラーク・ゲーブル扮する潜水艦艦長は「Bungo Peat」と呼ばれる日本の駆逐艦「秋風」に自艦を沈められた経験があり、復讐を心に誓って豊後水道に出撃する。
バート・ランカスターが演じる副長との対立と和解が人間ドラマの核を成していて、後の潜水艦映画の原点とも言うべき古典的名作であり、艦橋に立つクラーク・ゲーブルが濁声で「Dive!Dive!Dive!」と急速潜航を命じながら艦内に滑り降りていくシーンは印象的だった。
 
 
映画で太平洋戦争全体の戦況は殆ど語られていないのだが、日本の領海である豊後水道に米潜水艦が出没するくらいだから、日本の敗色が濃くなった戦争末期の話なのだろう。
米軍から優秀な潜水艦ハンターとして恐れられている駆逐艦「秋風」は模型であることが一目瞭然だったし、当時のアメリカ映画にはよく見られたことだが、日本人乗組員が話す日本語のおかしさには気持ちが萎えてしまうけれど、それでも日本人としては「秋風」を応援したくなる。
 
 
「次は高崎山に停まります」
 
と言うアナウンスに、物思いに耽りながら海ばかり眺めていた僕は顔を上げた。
有名な高崎山の日本猿と知遇を得る機会にはまだ恵まれていない。
道端にそびえ立つ建物は、あたかも球場や競馬場を想起させられて興醒めしそうな佇まいだったから、あれあれ、と思ったが、これが高崎山自然動物園と思ったのは僕の早とちりで、よく見れば海側にあり、こちらは大分マリーンパレス水族館だった。
 
 
いつしかバスはぎっしりと車の波に囲まれ、ビルがそそり立つ谷間を傘をさした人々が行き交うトキハ前停留所に到着したのは、ほぼ定刻の8時25分だった。
 
「ゆのくに」号が僕らを降ろして姿を消すと、続いて、大阪から夜を徹して下って来た夜行高速バス「SORIN」号が現れた。
早起きは三文の徳とはよく言ったもので、北九州から大分まで移動したにも関わらず、夜行バスが到着したり、会社が始まる時刻にもなっていなかったのかと思えば、大いに得をした気になる。
 
 
トキハ前に曲がる大分駅前の交差点で、宮崎行き「パシフィックライナー」号とすれ違ったことを思い出した。
 
「つながる東九州 別府・大分⇄延岡・宮崎線 高速バスパシフィックライナー運行中!!」
 
と車体に大書されていたキャッチフレーズに、僕もまだまだ先へ行くぞ、と気分が高揚したものだった。
 
 
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