瀬戸内の渡し守(3)~パイレーツ号で村上水軍を偲びながらしまなみ海道の起点今治へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

浜松町バスターミナルから夜行高速バスに乗るのは久しぶりだった。
 
 
発着する路線が少ない訳ではなく、例えば京浜急行バスが運行する夜行路線は品川や横浜を発車した後に全て浜松町を経由しているし、東北急行の仙台・山形・新庄行き高速バスの起終点であり、相模鉄道と羽後交通が運行する横浜と田沢湖を結ぶ夜行高速バス「レイク&ポート」号も乗降扱いを行っている。
京成グループが運行する千葉・房総方面路線の拠点でもあり、山手線の東半分の地域では東京駅八重洲口と並ぶ有数のバスターミナルと言える。
 
京王バスと富士急行バスが運行する「中央高速バス富士五湖線」も、かつて、一部の便が新宿西口高速バスターミナルを経て浜松町まで足を伸ばしていたことがあった。
大学の教養学部が富士吉田市に置かれていたから、「中央高速バス富士五湖線」は数え切れないほど利用したものだったが、ある時、マニアの虫がむくむくと頭をもたげて、用もないのに浜松町まで乗ってみたことがある。
 
 
新宿西口で殆どの乗客は降りてしまい、僅かに数人が残っているだけで閑散としてしまったバスは、高層ビル街を抜けて、新宿ランプから首都高速4号線に駆け上がり、都心へ向かった。
 
新宿から外苑まではきついカーブが続くタイトな線形だが、渋滞して速度が上げられないので、大したスリルは感じられない。
神宮外苑の北東に建つ慶應義塾大学病院を見上げる切り通しから、断続する地下トンネルに潜り込み、赤坂離宮の北側と、外堀の淵にそびえるホテルニューオータニの敷地の南側をすり抜け、霞ヶ関トンネルで都心環状線と合流すれば、六本木ヒルズや東京タワーの勇姿が現れるという七変化の都市景観は、東京に出て間もない僕の心を鷲づかみにした。
 
 
1972年に公開されたアンドレイ・タルコフスキー監督のソ連映画「惑星ソラリス」では、人類が太陽系外への有人宇宙飛行を実現している未来の都市として、首都高速道路が実写でそのまま使われている。
登場人物が乗る車は自動運転の未来仕様だったが、周囲を走る車は昭和40年代当時の日本車ばかりで、そのギャップが日本人として妙な心持ちにさせられる。
登場人物が無言で考え込む場面が延々と続き、その幕間に背景として次々と展開する都市景観を鑑賞しながら、ソ連の人々にとって東京の街並みは未来都市に見えるのか、と感じ入ったものだった。
 
初めて東京に家族旅行に出て来た10歳の時に、長野からの特急「あさま」が到着した上野から宿泊するホテルまで、昭和通りをタクシーで走ったことを思い出す。
交差する道路を次々とアンダーパスしていく先進的な構造に仰天し、東京とは何と凄い都市なのだと畏れ入った僕も、ソ連のことを笑えない。
 
 
大蛇のように身をくねらせて都心を進む首都高速を走りながら、よくもまあ、このようにジェットコースターもどきの道路を造ったものだと思う。
車の免許を持っていなかった僕にとって、浜松町行きの「中央高速バス」の旅は、「惑星ソラリス」を体感する、気晴らしのドライブと同じだった。
 
芝公園ランプを降り、周囲を圧してそびえ立つ世界貿易センターの1階に設けられた浜松町バスターミナルに到着したのは、定刻より10~20分ほど遅れていたと記憶している。
 
 
「中央高速バス」富士五湖線の歴史は、昭和31年10月に新宿と河口湖・山中湖の間136kmを一般道経由で運行した急行バスに遡る。
京王帝都電鉄と富士山麓電気鉄道(現・富士急行)による運行で、4~5月と7月~9月の土休日運行の季節便で1日2往復、所要4時間30分だった。
昭和43年3月に中央自動車道調布IC-八王子ICが開通し、その区間を高速道路経由に変更、所要時間は3時間50分になった。
昭和44年3月に中央道相模湖IC-河口湖IC間が開通したのを機に所要時間を2時間10分と大幅に短縮して、11往復に増発されている。
浜松町バスターミナルの開設により、一部の便を浜松町発着としたのは昭和45年3月で、昭和46年4月の新宿西口高速バスターミナルの開業よりも早い。
 
平成8年10月に乗り入れが中止されるまでの四半世紀以上、「中央高速バス富士五湖線」は浜松町バスターミナルを出入りしていたことになるが、僕が乗車したのは1回だけだった。
 
 
世界貿易センタービルは、JR浜松町駅に隣接する40階建て・高さ152mの超高層ビルである。
日本初の超高層ビルである霞が関ビル(36階・147m)より2年遅れての竣工で、昭和46年に京王プラザホテル(47階・169m)が竣工するまでは日本一の高さを誇っていた。
 
世界貿易センターと言えば、2001年9月11日の同時多発テロで崩壊したニューヨークのツインタワーが有名であるが、東京の同名のビルとはどのような関係があるのかが気になっていた。
米国の「ワールド・トレード・センター」は、1943年にニューヨーク州知事が市内ロウアー・マンハッタンに高層ビルの建設を提案したのが始まりで、いったんは延期されたものの、1960年にデイヴィッド・ロックフェラーがニューヨーク港湾公社に建設計画を提案し、1968年に着工されている。
 
 
東京では、東京商工会議所の出資により、貿易センタービル建設のための「東京ターミナル」と、運営組織としての「社団法人世界貿易センター」が設立されて、ニューヨークより1年早い昭和42年に着工された。
昭和45年に東京とニューヨークのビルが相次いで完成し、同時期に「ワールド・トレード・センター連合(World Trade Centers Association、WTCA)」がニューヨークで創立され、東京の「社団法人世界貿易センター」も創立メンバーとして加盟したのである。
 
このような経過を知れば、高度経済成長期に経済大国・貿易立国として力をつけてきた僕らの国の歩みを象徴しているように思えてくる。
今やWTCAには91ヶ国・317の企業体や政府が加盟し、全世界の主要都市に世界貿易センタービルが建てられている。
 

ニューヨーク港湾公社と言えば、マンハッタンに世界有数の規模を誇る「Port Authority Bus Terminal」を運営していることでも知られ、その繋がりにより、浜松町のビルにもバスターミナルが組み込まれたのかもしれない、と夢想してしまう。
浜松町バスターミナルは、僕がニューヨークを訪れた時に足を踏み入れた「Port Authority Bus Terminal」よりも遥かに規模は小さいけれど、外の光が全く射さない閉鎖された空間は、どこか似通っているように思える「ニューヨーク点描~ポートオーソリティ・ターミナルの大陸横断長距離高速バス~」)。
 
浜松町の世界貿易センタービルは、平成33年に解体されてしまうという。
存在して当然と思っていたものが消えると聞けば、一抹の寂しさを禁じ得ないが、「911」で消滅したツインタワーに代わって瀟洒な高層ビルが再建されたニューヨークのように、浜松町にも新しい貿易センタービルが再登場し、願わくば、バスターミナルも同様に併設して欲しいものだと思う。
 
 
平成17年8月のこと、僕は、あちこちに照明が届かない暗がりが残る浜松町バスターミナルで、バスを待っていた。
 
真夏の午後7時過ぎと言えば、まだ完全な日没には至らず、街並みのあちこちに薄暮の薄明かりがぼんやりと残っていたが、浜松町駅構内の雑踏をくぐり抜けて、巨大な世界貿易センタービルの懐深く抱かれたバスターミナルに入ると、人影はまばらで、まるで深夜に場末のターミナルに放り出されたようにも感じる。
 
 
これから乗るのは、今治行き「パイレーツ」号である。
 
京浜急行バスと瀬戸内バスが平成元年に運行を開始した夜行高速バスで、その登場は徳島行き「エディ」号と同時だった。
一緒にチラシに印刷された程、近しい関係の2路線であるが、「エディ」号は途中でフェリーを介するという珍しい経路に惹かれてさっさと乗りに行った一方で、「パイレーツ」号の方は放置したままだった。
その後に開業した、高知や松山など四国の他の地域へ向かう高速バスに目を奪われたからであろうか。
 
 
「パイレーツ」号の四国側の目的地である川之江、新居浜、西条、今治も、四国有数の工業都市ではあるものの、如何にも渋い地域で、同じ一晩かけてわざわざ出かけるならば、松山や高知に食指が動くのはやむを得ないだろう。
時刻表で「品川-今治」の文字を目にするたびに「私を忘れちゃいませんか」と責められているような後ろめたさを感じていたが、後になって、別の理由で乗るタイミングを図るようになっていた。
 
 
備讃瀬戸大橋と明石海峡大橋に次ぐ3番目の本四連絡道路として、平成11年に「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」が一部の地上区間を除いて開通し、同年5月から高速バス「しまなみライナー」号と「キララエクスプレス」号が走り始めたのである。
 
「しまなみライナー」号は、四国側の起終点を今治に置き、広島線(16往復)・福山線(16往復)・尾道線(10往復)・三原線(8往復)・因島線(4往復)の5つの系統が運行されていた。
「キララエクスプレス」号は、松山を発着して広島、福山、尾道を結ぶ3系統が登場した。
 
最初は、しまなみ海道を経由して本四間を連絡する高速バスでは最も運行距離が長い「キララエクスプレス」号松山-広島線に乗りたかったのだが、開業後半年も経たない平成11年10月いっぱいで運行を休止してしまった。
開業ブームの時期だけで終わってしまった岡山・倉敷-高松・琴平間「瀬戸大橋特急バス」よりも遥かに短期間での廃止に、呆気に取られたものである。
 
「しまなみライナー」号は、今治港-土生港や今治港-三原港などを結ぶ航路との競争で利用者数が低迷し、開業後3ヶ月8月に三原線を4往復に減便、9月に因島線を3往復に減便し、11月には三原線と因島線が運行をやめてしまう。
平成13年には尾道線が8往復に減便された後に平成17年6月に廃止され、現在は福山線と広島線だけが存続している有様である。
 
「キララエクスプレス」号も、広島-松山間では航路利用が定着しており、所要時間と料金で劣勢だった広島線が廃止されたのを皮切りに、福山と尾道が隣接していることから平成16年6月に両系統を統合して、福山行きの一部の便が尾道を経由するようになっている。
 
ならば、しまなみ海道の渡り初めは「しまなみライナー」号今治-広島線で、と気を取り直し、東京から今治へ向かう「パイレーツ」号もペアにして、旅程を組み立てることにした。
なかなか機会に恵まれないまま時は過ぎ、「しまなみライナー」号今治-広島線も半数の便が休日運行となってしまったものだから、下手をすると乗り損なうぞ、とやきもきしたものだった。
この日、ようやく念願が叶う。
 
 
「パイレーツ」号の東京側のターミナルは、品川高速バスターミナルと浜松町バスターミナルである。
浜松町の方が駅と直結して乗り換えが便利であり、品川では駅から5分ほど第1京浜国道を歩く必要があるにも関わらず、僕はこれまで頑なに起終点に拘って品川で乗り降りしてきた。
「パイレーツ」号に限って浜松町から乗車することになったのは、
 
「広島のお好み焼き、いい店見つかりました?」
 
と、早々と旅心を遠方に飛ばしているT子と一緒だからである。

当時、僕が付き合っていたT子は、僕のような乗り物趣味を持ち合わせている訳ではないが、九州延岡にある実家への帰省では、何かしらの長距離交通機関を利用せざるを得ない。
毎年恒例となっていた夏休みの延岡への帰省に話が及んだ際に、ふと、僕がしまなみ海道のバス旅を目論んでいることを話したら、それでもいいと言ってくれた。
 
「しまなみ海道を通るバスって広島まで行くんですか?だったら、オープンしたばかりの『大和ミュージアム』に行ってみませんか。広島風お好み焼きも食べてみたいし」
 
などと、今度の旅の主役が広島であるかのように浮かれ始めたのである。
T子は広島へ行ったことがないと言う。
初めての広島ならば、硬派な僕は、まずは平和記念公園や原爆ドームに行かねばならないと拘ってしまうのだが、取り敢えず主張するのはやめておいた。
広島に着いてから、連れて行けばいい話である。
「しまなみライナー」号の始発地である今治までは夜行バスだぞ、と言い聞かせて、覚悟を決めさせたのだが、
 
「そのバスって何時間かかるんです?」
「確か13時間くらい」
「だったら大丈夫ですよ。あなたと付き合うようになってから、夜行バスには慣れました」
「ごめんね。変なものに慣れさせて」
 
 T子は僕と同じ職場で働いているのだが、郷里への往復の旅費がなかなか捻出できず、帰省があまり出来なかったと言っていた。
LCCなどなかった時代である。
僕と付き合い始めてから、年に1~2回は延岡に行けるようになったから、T子は常に感謝の言葉を口にしていた。
その行程に、僕が好きな高速バスを挟む場合もあり、T子もそれなりに楽しんでいたように見えたのだが、だからと言って、恩着せがましく僕の趣味を押し付けて、運行距離897.2km、所要12時間25分もかかる「パイレーツ」号なんぞに乗せるのは、不憫である。
松山空港まで一気に航空機で飛んで、しまなみ海道だけバスにしようか、などと大いに迷ってしまったのだが、同情よりもマニアの欲求が勝利して、計画は変更しなかった。


その代わり、という訳でもないけれど、
 
「今治までのバスが出る品川の乗り場は駅から近いんですか?」
「いや、少し歩く」
「駅の近くで乗れるところはないんですか?」
「品川の次に停まる浜松町は駅と繋がっているよ」
 
と、僕は思わず口を滑らせた。
 
「だったら浜松町から乗りませんか。座席指定なんですよね?始発から乗らなくてもいいじゃないですか」
 
と口を尖らせるT子の主張は断りにくかった。
 
浜松町に着いてからも、品川から乗りたかったという思いが胸中に去来したが、この日はあいにくの雨模様だったから、
 
「品川から乗らなくて良かったですね」
 
と、T子は至って涼しげな表情である。
 
 
始発ではないから、バスが来て、乗客が乗り終われば呆気なく発車である。
 
バスターミナルを出ると、一陣の風雨がザーッと窓を濡らし、外を過ぎ去る街の明かりが水滴に滲む。
つい先程まで、蒸し暑い真夏の雨がもたらす湿気に息が詰まりそうだったことを思えば、この中を重い荷物を持って歩かなくて良かったかな、と、悔しいけれどもT子に感謝したくなる。
乗り物は、利用する者が便利と感じる場所から乗ればいいのであって、だからこそ、京浜急行の夜行バス路線は、いつも品川より浜松町の方が乗降客が多いのだろう。
 
 
バスは霞ヶ関の官庁街に設けられた霞ヶ関ランプから首都高速都心環状線に入り、谷町JCTで3号線に分岐していく。
僕らが指定されたのは横3列シートの前から3番目の左と中央列の席である。
窓際席を占めてリクライニングやフットレスト・レッグレスト、マルチチャンネルステレオ、頭上の空調など座席回りの装備を点検していたT子が、ふと真顔になって、
 
「このバスの名前、どうして『パイレーツ』なんです?」
 
と呟いた。
 
 
中世の日本では、交易に従事する傍ら、通過する船舶や沿岸地域からの略奪、あるいは報酬を受け取って航行の警護を組織的に請け負った土豪のことを海賊衆と呼んだ。
海賊衆として名を馳せた村上水軍の勢力拠点は、芸予諸島を中心とした中国・四国地方に挟まれた海域だった。
村上水軍についての最も古い記録は、南北朝時代の1349年に、能島村上氏が東寺領弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという記述である。
 
村上氏は、拠点とした島の名を冠した能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏の3家に分かれ、戦国期には毛利水軍の一翼を担い、1555年の厳島の戦い、1561年の豊前簑島合戦、1567年の伊予出兵、1576年の木津川口の戦いなどで活躍した。
織田信長と石山本願寺との長年に及ぶ戦いで、石山本願寺に兵糧を搬入しようとする毛利水軍と、大阪湾を封鎖する織田水軍との攻防戦である木津川口の戦いについて、『信長公記』などで読んだことがあり、毛利水軍の中心的存在であった村上水軍のことも、天下取りを目指す信長すら悩ませる無気味な存在として、僕の心に強く残っていた。
 
村上水軍の起源としては、源氏の血を引く信濃村上氏とする説が最も有力である。
信濃村上氏と言えば、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信に挟まれて辛酸をなめた戦国武将であり、僕の故郷信州と瀬戸内の思わぬ繋がりには驚かされる。
海とは無縁の山国を起源とする一族が日本有数の水軍を擁することになるとは、面白い因縁と言えるだろう。
 
しかし、毛利氏が豊臣秀吉に臣従し、刀狩令とともに海賊停止令が発令されてからは、帆別銭の取立てや収奪行為を働くことは困難になり、大名の家臣となって海から遠ざけられ、日本の海賊衆は消滅することとなる。
今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住み、平成28年には「日本最大の海賊の本拠地:芸予諸島~よみがえる村上海賊の記憶~」というタイトルで日本遺産に認定され、村上水軍が活躍した今治市と尾道市、芸予諸島に42項目の遺産対象が存在する。
 
T子の問いで今治行き夜行高速バス「パイレーツ」号の愛称について考えなければ、瀬戸内沿岸地域と村上水軍の繋がりに思い当たることはなかっただろうと思う。
「瀬戸内ライナー」などという平凡な名前ではなく、優れた愛称を命名した京浜急行と瀬戸内バス、そしてT子に感謝すべきであろう。
 
 
用賀で首都高速から東名高速道路に入った「パイレーツ」号は、ぐいぐい速度を上げながら多摩川を渡って東京を後にした。
まだまだ宵の口であるが、車内ではほとんどのカーテンが閉め切られて、どの客も身じろぎ1つしない。
T子も軽くリクライニングを倒し、カーテンを開けて闇の彼方を流れ去る灯にじっと顔を向けている。
お喋りが途絶えて急に静かになったので、退屈して不機嫌になっているのではないかと覗きこんでみれば、瞑目して寝息を立てていたから、僕も背もたれを倒して目を閉じた。
 
 
乗り心地が変わったような気がして目を開けると、バスは減速しながら最初の休憩地点である富士川SAに滑り込むところだった。
まだ消灯していなかったから、深く眠れたはずもなく、うつらうつらしただけのように思っていたので、いつの間に箱根を越えたのかと驚いてしまう。
 
「ここ、どこですか」
 
と欠伸を噛み殺しながらT子が聞く。
 
「富士川だよ」
「まだ静岡に入ったばかりですか。先は長いですね」
「休憩はここが最後だから、消灯して眠ってしまえばすぐに感じるよ」
「だといいですね」
 
ちょっぴり浮かない表情のT子の気を少しでも晴らそうと、外へ誘ってみた。
雨はやんでいたが、蒸し暑く重い空気がミストサウナのように身体を包み、思わず溜め息が出た。
 
「うわあ、バスに戻りませんか」
 
とT子が尻込みをする。
 
「でも、ここで用足しをしておいた方がいいよ。車内のトイレは狭いから」
「うーん、考えてしまいますね。サービスエリアのトイレよりバスのトイレの方が清潔じゃないですか?そうだ、建物に行くんでしたら、自販機でお茶のペットボトルを買って下さると嬉しいです。そば茶があれば最高です」

勝手なことばかり言い残して、T子は乗降口の中に消えてしまう。
 
 
T子を信州の僕の実家に連れていった時、たまたま飲んだそば茶をT子はいたく気に入っていた。
静岡にそば茶などあるものかと思いながら、ずらりと並ぶ自販機を1つ1つ品定めしていくと、何台目かにちゃんと売っていたから、ひとまず安堵した。
そば茶1本でT子の無聊が慰められるのならば、安い買い物である。
 
広大な駐車場にはトラックや様々な行き先の夜行バス、そして乗用車がぎっしりと駐車して、行き交う人々も多い。
近くには、広島行き「ニューブリーズ」号や松江・出雲行き「スサノオ」号の姿が見え、運行距離が800kmを超える所要12~13時間の長距離路線が揃い踏みである。
 
 
この日の「パイレーツ」号は3台運行の盛況だった。
青と緑の波線に海賊船のイラストが描かれた専用塗装の車両ばかりではなく、京浜急行長距離路線の共通塗装である白地に波線が描かれたバスも見受けられたから、さすが夏休みの多客期で、サービスエリアの賑わいを目にするだけでも、盛大な祭に参加しているような高揚感を覚える。
混雑する時期の旅行は敬遠したくなるものだけれど、旅の途上にある見知らぬ人々との不思議な一体感だけは、独特の魅力だと思う。
 
富士川SAを出て消灯すると、漆黒の闇に包まれた車内で、2人ともよく眠った。
ふと目を覚ましたのは、時計の針が午前5時を回った頃合いだった。
ここはどこだろう、と思いながらも、カーテンを閉め切った車内の中央列の席に座っている身では、外を眺めることもままならない。
携帯を取り出してGPS機能で位置確認をした瞬間、僕は隣りで眠っているT子の肩を揺り動かした。
 
「もうじき瀬戸大橋だよ」
 
眠りが浅かったのか、ぱっと目を開けたT子がカーテンを引き開けようとしたので、僕は慌てて押し止めた。
 
「まだ寝ている人もいるから、カーテンを被って外を見なよ」
「それじゃ、あなたが見られないじゃないですか」
「僕はいいよ。何度も通ったことがあるから」
 
 
真夏であっても西日本の夜明けは遅めだから、果たして景色が見えるのかが危ぶまれたが、カーテンの隙間からは白々と夜が明け始めているように見受けられた。
上半身を起こしてカーテンをすっぽり被ったT子を横目に、僕は再びシートに深々と身を任せ、これまでに乗車した数々の高速バスから眺めた備讃瀬戸大橋の眺望を思い浮かべた。
夜明けの瀬戸大橋を見なければ、四国行きの夜行バスの魅力は半減すると思っている。
僕の趣味に無理矢理付き合わせてしまった罪滅ぼしに、T子にどうしても早暁の瀬戸内海を拝ませてあげたかったから、よくぞ、このタイミングで目覚めたものだと自分を褒めたくなる。
 
大いに安心しながらそのまま眠ってしまったようで、次に瞼を開けたのは、
 
「おはようございます。バスは定刻より早めに運行しておりまして、間もなく高瀬サービスエリアに到着します」
 
と言う、運転手さんの囁くようなアナウンスが流れた時だった。
 
 
高瀬SAは、瀬戸中央自動車道と高松自動車道が合流する坂出JCTの西に位置する、四国に上陸して最初のサービスエリアである。
あちこちの席でカーテンが開け放たれ、朝の光が車内に怒濤のように流れ込んでくる。
あいにくの雨模様で、びっしょりと濡れた舗装や木立ちの葉がぼんやりと霞んでいる。
吹いてくる風は爽やかだが、湿り気が強い。
 
同じく休憩中の高知行き「ブルーメッツ」号の隣りで、霧雨の細かな水滴に濡れそぼる「パイレーツ」号の車体を見上げながら、夏だなあ、と思う。
 
「瀬戸大橋、良かったですよ。渡るのは初めてだったんです。起こしてくれて感謝しています。しまなみ海道も楽しみです」
 
前夜の富士川より悪天候であるにもかかわらず、今度はバスを降り、トイレで顔を洗ってきたT子が笑顔で言う。
 
「それにしても、ひどい天気ですね。雨男でしたっけ?」
「うーん、旅行で雨に困った記憶はあまりないんだけど……」
 
語尾を濁したのは、乗り物に乗るだけの、あまり天候に影響されない旅行ばかりしてきたからである。
 
三島・川之江IC、新居浜、西条、東予といった降車停留所は、再び眠りの中で過ぎた。
夜行の車内でも、二度寝はいいものである。
 
終点の今治桟橋に着く寸前に目を覚ませば、車内に残る乗客は僅かになっていた。
市内の街並みには燦々と陽が射して、高瀬SAの雨が嘘のようだった。
 
今治桟橋には、予定の7時55分より30分ほどの早着になった。
乗車時間は12時間を切ったけれども、長旅だったことには違いなく、
 
「このバス、乗り心地が良かったなあ。ぐっすり寝ちゃいました。良い天気ですね」
 
と、足取りも軽くステップを降りたT子の言葉に、ホッと胸を撫で下ろした。
 
 
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