最長距離バスの系譜(11)平成元年 名鉄・長崎自動車グラバー号 966.0km | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京駅発10時00分の名古屋駅行き超特急バス「東名ライナー」は、宝町ランプから首都高速道路に乗り、ビルの谷間を縫うように都心を西へ抜けて、多摩川の手前から東名高速道路に入った。
車両は、当時採用されたばかりの3軸スーパーハイデッカーで、乗り心地も眺望も申し分ない。

 

 

きついカーブが連続する山岳ハイウェイで、箱根山を北側から眺め、雄大な富士の裾野を半周する。
由比と興津の波打ち際で、寒々と荒れた冬の海に息を飲み、牧之原台地の茶畑の中を行く。
東名ハイウェイバスの前半部分は、いつも変化に富んでいて、飽きが来ない。

この日は生憎の曇りで、ところどころ小雨がぱらつく空模様だったから、残念ながら、富士山は、どんよりとした雲に覆われて、拝むことができなかった。
なだらかな裾野に、ちぎれ雲が風に流されているのが見えるだけである。

由比の海岸線では、霧雨に煙る小さな町並みと、寄せては返す磯の白波が、淡い靄に覆われて、1幅の水墨画を見ているかのようだった。
一般的に、太平洋沿岸には明るいイメージがある。
だが、山塊が海岸に迫り、僅かな平地に押し込められた東西主要幹線の合間に、侘びしげに佇むこの町には、しとしとと降る雨が似合うと思う。

僕が、生まれて初めて高速バスに乗ったのは、昭和59年、静岡駅と東京駅を結ぶ東名ハイウェイバスの上り急行便だった。
あの時、目を見張って眺めた清見潟の鄙びた車窓は、今も、何ら変わることがない。

 

 

昭和44年に開業した東名ハイウェイバスは、当初、各駅停車で区間運転の急行便と、東京と名古屋を通しで走りながらも、静岡と名古屋の間は各駅停車になる特急便の2種類の系統があった。
特急便でも、東京と名古屋の間の355.6kmを、5時間56分もかかったのである。

昭和63年3月に、東名静岡、東名吉田、東名浜松北、東名浜名湖、東名豊田、そして名古屋市内だけに停車する超特急便「東名ライナー」が登場し、東京と名古屋の間は、5時間28分に短縮された。
平成11年2月には、東名静岡のみに停車する「東名スーパーライナー」が登場して、所要時間を5時間19分に縮め、平成24年6月にデビューした、新東名高速を経由するノンストップの「新東名スーパーライナー」の所要時間は、5時間きっかりになったのだが、それは、後々の話である。

東京駅を出てから、東名御殿場、東名愛鷹、東名富士、東名静岡に停車し、後半は、名古屋駅まで26ものバスストップ全てに丹念に停まっていく従来の特急便に、もどかしさを感じていた僕は、早速、「東名ライナー」のスピード感を味わいたくて、こうして出かけて来たのである。

超特急と言っても、走行速度が特急や急行と変わるはずもなく、新幹線に比べれば至ってのんびりした走りっぷりである。
それでも、自分と関係のない停留所に停まらなくて済むというのは、精神衛生上、大変によろしい。

世の中が鈍行よりも急行、急行よりも特急を歓迎する風潮は、東名ハイウェイバスの特急と超特急を乗り比べてみれば、その理由がよくわかる。
そんなに急ぎたいならば、高速バスなんぞに乗らず、新幹線に乗ればいいじゃないかと言われそうであるが、1万円以上を支払って2時間ですっ飛んで行かなければならない用事は、その日の僕にはなかったのである。
5000円で5時間半、それで充分だった。

鉄道もバスも、途中停車駅があろうがなかろうが、あらかじめ定められた時刻表通りに、終点に着くことに変わりはない。
別に急ぎたいわけではないけれど、途中停車駅が多い乗り物は、もどかしいのだ。
寄り道せずに目的地に向かって一直線に走り込んでほしい、と思ってしまうのは、どうしようもない、人間の性である。

この日の僕には、東名ハイウェイバスを選ぶ、別の理由があった。

ほぼ定刻に、名古屋駅桜通口の屋内にある、薄暗いJRハイウェイバスターミナルに着いた僕は、ごったがえす人混みをかき分けるように構内を縦断して、広小路口の先に建つ名鉄バスセンターに向かった。

目指すは、19時30分に発車する長崎行き夜行高速バス「グラバー」である。
平成元年9月に開業した高速バスで、営業距離は966.0kmにも及ぶ。
半年ぶりに、東京-広島間「ニューブリーズ」の916.9kmを更新して、日本最長距離高速バスの座に躍り出た路線だった。
僕は、「東名ライナー」と「グラバー」を乗り継いで、遙々、九州の西の果てまで1300kmを、バスだけで行ってみようと思い立ったのである。

日本の最長距離高速バスの歩みを振り返ってきたこのシリーズに、名古屋発着路線が登場するのは初めてである。
当時は、名古屋から九州へ向けての高速バスが、拡充し始めた時期でもあった。

平成元年12月に、福岡行き「どんたく」。
平成2年6月に、北九州・大牟田・荒尾行き「げんかい」。
平成2年7月に、熊本行き「不知火」。
平成3年4月に、佐世保行き「西海路」と、大分行き「ぶんご」と、鹿児島行き「錦江湾」。

このうち、「錦江湾」は平成8年に、「西海路」は平成23年に運行をやめてしまっているが、その他の路線は20年以上も経った現在でも、中京と九州を結んで走り続けている。
「グラバー」は、その先陣を切った高速バスなのである。

 

 

九州と名古屋の結びつきは、昭和43年から57年まで、博多駅と名古屋駅を結んでいた寝台特急列車「金星」まで遡る。
僕が鉄道ファンになった子供の頃には、名古屋を発着するたった1つの寝台特急として、大いに気になる列車だった。

唯一の寝台電車であった583系を使用していたのも、その理由の1つだったと思う。
流麗でありながらも、重厚さを感じさせる583系の容姿が、僕は好きだった。
夜は寝台、昼は座席として使われる、高度成長期の日本を象徴する働き者の電車である。
寝台専用車両に比べて若干無理な構造が祟って、乗り心地が今ひとつ中途半端な印象だったのは、後になって、東北方面への夜行列車で思い知ったのだが、子供の頃の僕には知りようもない。

「金星」は、僕が1人旅を始めるようになる前に消えてしまったから、乗る機会はなかった。
平成の初頭まで、多客期に、名古屋駅と西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)を結ぶ臨時特急として、走っていたこともあるという。

 

 

昭和42年に竣工した名鉄バスセンターは、改装を重ねているとは言っても、どこか古びた感じがあるのは否めなかった。
エスカレーターは狭くて薄暗く、3階の高速バス乗り場に足を踏み入れれば、旅立ちの意気込みがすうっと萎んでしまうような、裏通りに似た雰囲気だった。

それでも、旅支度をした乗客たちに混じって、待合室から、ひっきりなしに出発していく各方面への高速バスを眺めている雰囲気は、旅立ちの前奏曲として悪くない。

まだまだ宵の口で、信州や三重方面への、比較的短距離の高速バスが、乗客を拾っては次々と発車していく。
夕刻の下り便であるから、地方側のバス会社の車両が多く、見ているだけで旅情をそそられる。

何となく気怠そうなアナウンスが、

「○○行きが△番乗り場に到着しました。御利用の方は△番乗り場にお越し下さい」

と、極めて事務的に告げる声だけが、天井の低い場内に響く。

発車の10分前になって、白地に赤いラインが入った名鉄バスの、見上げるようなスーパーハイデッカー車両が乗り場に横付けされた。
車体には、「名古屋-長崎 GLOVER」と大書されている。

2人の乗務員さんが飛び降りてくると同時に、

「長崎行き夜行高速バス『グラバー』号が7番乗り場に到着しました。御利用のお客様は、7番乗り場までお越し下さい」

と流れるアナウンスの声音が、心なしか高揚していたように感じたのは、気のせいであろうか。

名古屋から長崎まで行く人など、どのくらいいるのだろうと危ぶんでいたが、案外、大勢の人がアナウンスに応じて動き始め、車内はほぼ満席になった。

 

 

名鉄バスの夜行仕様のバスは、それまでの夜行バスの標準である29人の定員を3人減らして26人乗りになっている。
おそらく、10cmほどの違いであろうが、前後のシートピッチが長い。
そのわずかな違いでも、感覚的には大違いで、足置きまでの距離が長くて、ゆったりとしている。
前席のリクライニングが倒れてきても、今までのような圧迫感が少ないように感じた。
こいつはなかなかいいぞ、と、他愛もなく嬉しくなってしまう。
 

乗り場の係員さんと、乗客名簿の確認を終えた運転手さんの、

「じゃあ、行ってきます」

という元気な声が聞こえ、「グラバー」号は、定刻に扉を閉めて発車した。

それぞれの乗り場でバスを待つ人々の顔が、窓外を流れ始める。

建物の外に出ると、バスは長いスロープを下って地上に降り立ち、車でごった返す名古屋の市街地を走り始めた。
現在では、名古屋を発着する高速バスは名古屋高速を利用することが多いが、当時は未開通の区間が多く、バスは、国道22号線を走って、渋滞につっかえながら、名神高速一宮ICへ向かう。
やむを得ないことではあるけれど、やっぱりもどかしい旅の導入部である。

目的地は遙か1000km近い彼方である。
ダイヤに織り込み済みであろうことはわかっているけれども、このようなスローペースで大丈夫なのか、と、気を揉んでしまうのも、人間の性だと思う。
別に、長崎に急ぐ用事があるわけでもなく、所用があるならば、夜行バスで行ったりはしないのだが。

岐阜県の山奥から中央西線と中央道に沿って流れてきた庄内川を渡るあたりに、清須という地名がある。
清須は、清洲町・西枇杷島町・新川町が合併して出来た市で、桶狭間の戦いの前後で織田信長が根拠地としたことで知られる清洲と関連がある。

僕は、ドラマや小説で幾度となく描かれた清洲城の場面、

「人間五十年 外天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」

が大好きなのだが、そうは言っても、住宅やビルの明かりが混在する、市街地の続きの平地が見渡す限り広がっている気配だけで、このあたりがそうなのか、と思うばかりである。

一宮ICから名神高速道路に乗って、ようやく速度が上がり、「グラバー」は本領を発揮して、西へ向かって走り始めた。

ハイウェイを行き交う交通量は多く、しかも、東日本に比べて、追い越していく乗用車やトラックの車間距離が短いように思えるから、なかなかスリルがある。
木曽川を渡れば、間もなく濃尾平野と別れを告げて、伊吹山に連なる山並みの懐に分け入り、琵琶湖の南岸に出る。
真っ黒な空洞のような琵琶湖の岸辺に瞬く、大津の市街地の灯を見やりながら、逢坂山のトンネルをくぐれば、今度は、京都の街並みが左右に開ける。
 

桂川を渡って間もなく、「グラバー」は、桂川PAで最初の休憩をとった。
バスを降りると、雨混じりの冷たい風が頬を叩いた。
肌寒さが容赦なく衣服の隙間から忍び込んでくる。
日中に東京を発って、午後9時過ぎに京都の地を踏んでいることに、僕は夢心地だった。

「グラバー」の愛称は、幕末の日本で活躍したイギリス人の武器商人、トーマス・ブレーク・グラバーからとったものであろう。
人名をつけた高速バスに乗るのは、この時が初めてだった。

維新後も日本にとどまって、蒸気機関車の試走を行ったり、炭鉱を経営したり、長崎に西洋式ドックを建設して、造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大いに貢献した人物とされている。
また、麒麟麦酒の基礎を築いた、日本のビールの育ての親としても知られている。
グラバーは、太宰府天満宮にある麒麟像を大層気に入っていたらしく、また、麒麟とは、交流のあった坂本龍馬を指しているとの説もあるらしい。
彼の屋敷があった場所は、現在でもグラバー園として、長崎市民の憩いの場や、観光の目玉となっている。

グラバーという人物については、様々な小説や映画、ドラマに描かれているのであろうが、僕にとって印象深いのは、映画「ゴルフ夜明け前」の登場人物としてである。

桂三枝師匠の新作落語を題材に、昭和62年に、松林宗恵監督により映画化された。
主演の坂本龍馬は渡瀬恒彦が演じたが、近藤勇は桂三枝、土方歳三は西川のりお、西郷隆盛は西川きよし、桂小五郎は島田紳助、他にも明石家さんまや佐藤B作、オール阪神巨人といった吉本興業の芸人が総出演であった。
坂本龍馬と近藤勇が、ふとしたきっかけから一緒にゴルフを楽しむという、破天荒なストーリーであったが、当時の状況や人物像を細かく考察した上で構築された設定であり、映画の評価は低くないと言われている。
何より、坂本龍馬と近藤勇、そして沖田総司が3人でゴルフ(映画では「こるふ」と発音されていた)を楽しみ、意気投合していく場面は、見ていて微笑ましく、後に起きるそれぞれの登場人物の悲劇的な結末を知っているだけに、それが現実であったならどれほど良かったかと、切なさすら感じる映画だったのである。

この映画で、

「西洋では、物事を議論する時に、『ゴルフ』というスポーツで親交を深めるのです」

と、なかなか流暢な日本語で、坂本龍馬にゴルフを勧めたのが、グラバーであった。

グラバーを描いた名作は幾つもあるだろうし、そんなコメディでグラバーを語るなと怒られそうであるが、僕は、この映画が大好きであるだけに、グラバーと言えば、「ゴルフ夜明け前」なのである。

しかも、映画のラストシーンが、敗走しながらも、坂本龍馬との「こるふ」を懐かしむ近藤勇と沖田総司の姿が硝煙の彼方に消えていく、鳥羽・伏見の戦いであった。
鳥羽も伏見も、夜行高速バス「グラバー」が、たった今、走り過ぎてきたばかりの京都南ICの、すぐ近くである。

 

 

桂川PAを発車すると、間もなく車内は消灯されて、鼻をつままれてもわからないような暗闇に包まれた。
僕も、リクライニングをいっぱいに倒して、エンジンの低い唸りを子守唄のように聞きながら、眠りに落ちた。
「東名ライナー」からの乗り継ぎで、さすがにくたびれていたのか、ぐっすりと眠った記憶がある。
大変寝心地のいいバスだった。

時々は目を覚まして、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなったこともあったけれども、前方に鈍く輝きを放つデジタル時計だけの、闇に包まれた車内と、揺らぎのない安定した走りっぷりには、母親の胎内にいるかのような安心感がある。

バスが高速で走り続けている時に、車内に届く遠い音色は、何が奏でているのだろうか。
エンジン音なのか、タイヤがアスファルトを噛む音なのか、それとも、車体の風切り音なのか。
コォォォー、とかすかに鳴り続ける走行音に、旅の途上にある自分を思い出して、何となく幸福な気分に浸ったものだった。

ふと目が覚めて、窓のカーテンをそっとめくると、バスは猛烈な勢いで、長いトンネルの中を走っていた。
オレンジ色の照明が、窓を明るく染め上げながら、次々と後ろに飛び去っていく。
3つの長いトンネルを続け様にくぐったから、長崎自動車道の嬉野ICを過ぎ、多良岳山系を貫く680mの嬉野トンネル、2010mの不動山トンネル、2610mの俵坂トンネルに差しかかっていることが察せられた。

名神高速から中国自動車道を走破し、関門大橋を渡って九州自動車道、鳥栖JCTで長崎道と、幾つもの高速道路を走り抜いて、「グラバー」の旅は、大詰めに差し掛かっていたのである。

間もなく、長崎道の正面に大村湾が開け、バスは、海沿いに南下を始めた。
ハイウェイは、波打ち際までせり出す山塊の中腹に造られているから、眺めはいいはずだが、いかんせん、まだ6時を過ぎたばかりで、ぼんやりとした薄暗がりが窓外を覆っているだけだった。

九州も西の端まで来れば、夜明けは、東京に比べて40分ほど遅い。
1度の経度あたりの時差は、およそ4分であるという。
東京23区は東経139度、長崎は129度と、ちょうど10度違うのだ。
この数字だけでも、「東名ライナー」と「グラバー」を乗り継いだ旅の遠大さが、実感できる。

 

 

平成18年に、大阪梅田と長崎を結ぶ、長崎県営バスの夜行高速バス「ロマン長崎」号で、長崎を再訪した折に、大村湾SAでの到着前の最後の休憩で、17年ぶりに「グラバー」を見かけた。

初夏の旅だったから、すっかり夜が明けていた。
その頃は、名鉄バスの子会社の名古屋観光日急バスが担当していた。
写真を見ると、扉を開けて休憩しているように見えるのだが、僕が乗った「グラバー」が、大村湾SAで休憩した記憶はない。
僕の記憶違いなのか、または、便によって、乗客を降ろす休憩場所を変えることもあるのだろうか。
「グラバー」の長崎側の担当事業者である長崎自動車のバスも、一緒に止まっていた。
「グラバー」が2台運行だったのか、それとも、大阪あべの橋発の長崎行き「オランダ」号だったのかもしれない。
その後、「ロマン長崎」号は運転を取りやめてしまった。
「グラバー」の名古屋側の運行会社は、再び、名鉄バスに戻っている。

 

 

僕が「グラバー」で夜明けを迎えたのは、当時の長崎道の終点、長崎多良見ICで高速道路を降り、国道34号線を走り始めた、午前7時前であった。

八郎川に沿った山あいの狭い谷間に、家々がぎっしり建て込んでいる。
夜明けの街並みの中の坂道を、「グラバー」は勢いよく駆け下っていく。
出発地の濃尾平野とは対照的に、起伏に富んだ地形は、「グラバー」の旅が終わる直前まで続いた。
国道34号線は、長崎半島の根元を横断して、併走する路面電車と一緒に、山裾の合間に広がる長崎市街に入っていった。

終点の長崎新地バスターミナルに到着したのは、定刻7時45分より、かなり早い時間だった。

東京から、九州の西の果ての街、長崎まで、バスだけで20時間近くかけてやって来たことに、意義を見出す人は少ないかも知れないけれども、僕の胸は、達成感でいっぱいだった。
「グラバー」が開業したおかげで、贅沢な旅をさせてもらったと思う。
東京や名古屋、京都よりはぬくもりが感じられる、優しい風が、バスから降りたばかりの僕の頬を、そっと撫でていく。
それは紛れもなく、異国の香りを日本に運び続けてきた、港町の風だった。

 

 

 
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