最長距離バスの系譜(10)平成元年 小田急・広電・JR関東・中国JR ニューブリーズ号916km | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成元年の春に、東京から広島県に向けて、一気に高速バス路線が2本も開業したときには、軽い興奮を覚えたものだった。

振り返ってみれば、僕が初めて寝台特急列車に乗車したのが、東京と広島の間だったということも、関係しているかもしれない。

昭和59年のことで、今はなき博多行き「あさかぜ」1号だった。
東京駅の長距離列車ホームを18時45分に発車して、初めての寝台特急の雰囲気を楽しみながら長い宵の口を過ごし、広島駅へは、翌朝6時28分に到着した。
「あさかぜ」は、更に5時間近い長旅を続けて、終点博多に11時04分に着く。
さすがに東京から福岡まで「あさかぜ」を通しで利用する人は多くなかったようで、広島の手前では、大半の乗客が降りる支度をしていた。
 


この時代は東京発の寝台特急列車の最後の最盛期であり、乗客数は減少傾向だったものの、

16時30分発長崎・佐世保行き「さくら」
16時45分発西鹿児島行き「はやぶさ」
17時発熊本・長崎行き「みずほ」
18時発宮崎行き「富士」
18時15分発浜田行き「出雲」1号
18時45分発博多行き「あさかぜ」1号
18時55分発下関行き「あさかぜ」3号
19時05分発宇野行き「瀬戸」
21時発出雲市行き「出雲」3号

と、続々とブルートレインが東海道を下っていったのである。

黄昏時に、東京駅の長距離列車用ホームに駆け上がれば、青い客車が連なっている光景を眺められた時代が、今となっては、こよなく懐かしい。
あの頃は、まさか、ブルートレインが無くなろうとは、夢にも思わなかった。

初めての寝台特急の旅で、身分不相応な個室寝台を奮発したことでもあり、どうせならば終点まで乗ればいいのに、僕は妙に遠慮して、広島止まりの切符を購入していた。
生まれて初めての平和祈念公園や厳島の見物も印象深かったのだが、最も僕の記憶に鮮やかなのは、「あさかぜ」の車窓から眺めた沿線の夜景や、夜明けの朝靄に烟る瀬戸内海であった。

 


初めて経験した個室寝台の内部は、今でもありありと思い浮かべることができる。
紀行作家の宮脇俊三氏に「独房みたいだ」と言われた、往年の個室であるけれども、その後に登場した「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」などの豪華寝台特急列車のスィートルームなどに比べれば、進行方向に対して直角に、細長い部屋が並んでいるだけで、確かに殺風景であった。

内部は、座面を引き出せばベッドに早変わりする長椅子と、蓋を閉めれば物置台になる簡単な洗面台だけ、しかも鍵もないという、かなり簡素な造りであるが、それでも個室は個室である。
広島までの12時間を、僕は伸び伸びと大いに楽しんだものだった。

惜しむらくは、長椅子が進行方向に向かって後ろ向きだったことである。
不思議なことに、その後も、個室寝台に乗るたびに、必ず後ろ向きの部屋に当たってしまうのであったが、横になれば関係ないことであり、そのうちに慣れてしまった。
その頃は、寝台特急で訪れるような遠くの街にまで、後になって高速バスが走るようになるなどと、考えもしなかった。

 

 

 

 

 

 


平成元年3月17日に、小田急バス・広島電鉄・JRバス関東・中国JRバスの4社によって、東京駅と広島駅を結ぶ夜行高速バスが運行を開始した時には、度肝を抜かれた。
寝台特急で行くほど遠い街に、高速バスで行けるようになったのかと、感慨深かった。
愛称は、「ニューブリーズ」である。
New Breezeという英語名が当てられ、breezeは、そよ風を意味するという。
僕が広島を初訪問したときに利用した、寝台特急「あさかぜ」と対を成しているかのような、いい名前だと思う。

「あさかぜ」が登場したのは昭和31年のことであり、当初は「富士」の名を冠する予定であったが、列車が富士山の裾野を通過するのが深夜・早朝であることから、「あさかぜ」に決まったとされている。
夜行高速バス「ニューブリーズ」の愛称を決めた運行担当者は、どのような新風を期待したのだろう。
九州特急というイメージが強い他の寝台特急「富士」「さくら」「はやぶさ」などに比べれば、広島県や山口県での乗降も多かった寝台特急「あさかぜ」を、やはり意識していたのであろうか。

「ニューブリーズ」の運行距離は916.9kmで、高速バスとして初めて900kmを越え、3ヶ月前に運行距離日本一になったばかりの渋谷-松江・出雲間「スサノオ」の832.8kmを抜いて、平成になって初めて最長距離を更新した。

続いて、同じ年の4月20日に、小田急バスと中国バスが、新宿と福山・府中・尾道・三原といった広島県東部の街を結ぶ夜行高速バス「エトワールセト」を開業した。
エトワール(Etoile)は、フランス語で星を意味するという。
運行距離は848.5kmで、こちらも「スサノオ」を抜いて、第2位に躍り出た。

僕は、この2路線を往復に使って、久しぶりに広島を訪れることにした。
日本で1、2位の長距離バスを体験できる、マニア垂涎の旅であった。

 

 


「エトワールセト」の始発は、20時45分発のホテルセンチュリーハイアット東京であるが、僕は、20時55分発の新宿駅西口から乗り込んだ。
小田急ハルク前のペデストリアンデッキの下にある停留所は、ポールが立っているだけの、一見、何の変哲もない乗り場だった。
日中は、小田急箱根高速バスがひっきりなしに出入りして、ハルクの1階の案内窓口も賑わっているが、夜ともなれば、窓口は閉まり、待合室も見あたらず、所在なげに歩道に佇んでいるより仕方がない。
角を曲がれば、ネオンが輝く煌びやかな繁華街になるのだが、不夜城の如き新宿でも、ハルク前だけは、ぽっかりと穴があいたように閑散とした暗がりであった。
大きな荷物を抱えた、それらしい人もチラホラと見受けられるが、

「三原まで行かれますか?」

などと聞く勇気もなく、乗り場はここで合っているのかと不安な時間を過ごしたものだった。

それだけに、瀬戸内の海と島々をイメージした爽やかな塗装の「エトワールセト」が、停留所に姿を現した時には、無性に嬉しかった。

定刻に発車したバスは、甲州街道から山手通りに左折し、国道246号線の大橋ランプから、首都高速3号線に駆け上がる。
深夜のハイウェイを800kmあまり、ひたすら西へ走りこんだはずであるが、実は、僕の「エトワールセト」の記憶は、かなりおぼろげである。
富士川SAあたりで就寝前の休憩をとったように思っていたのだが、当時の高速バス時刻表を改めてめくると、「途中休憩 なし」と書かれてあるではないか。
そう言えば、車内に缶詰だったような気もする。
もちろん、運転手さんが交替する停車はあったはずだが、ともかく、それより以前に乗車して、記憶が明瞭に残っている高速バスも少なくないのに、「エトワールセト」の一夜は、よっぽど平穏無事に過ぎ、ぐっすりと眠ってしまったようなのだ。
横3列独立シートの座り心地も上々だったのだろう。

 


だから、どのような経路をたどったのかも、定かではない。
今ならば、山陽自動車道を走るだけの単純明快な行程であるが、当時、山陽道は一部区間しか開通してはいなかった。
昭和57年3月に開通した龍野西IC-備前IC間、昭和63年3月に開通した早島IC-倉敷JCT-福山東IC間だけだったのである。

中国自動車道福崎JCTから播但自動車道を南下し、別所ICから姫路バイパスと太子竜野バイパスを西進して、龍野西ICから備前ICまで山陽道を利用、そこから岡山ブルーライン(当時はブルーハイウェイと呼んでいたような気がする)と岡山バイパスを経て、早島ICから再び山陽道、という経路を通ったのではないかと、夢想したりする。
そんな回りくどいルートを、と思われるかもしれないが、現実に、東京から瀬戸大橋を経て高松へ向かう夜行バスや、後に開業した、大阪から岡山・倉敷へ向かう昼行高速バスが、山陽道が全通する前に取っていた経路である。
もしくは、中国道北房ICから国道313号線を高梁、井原、神辺と、今の岡山自動車道に沿って南下した可能性もある。
色々と想像するのは楽しいけれど、確かなのは、開業当初の「エトワールセト」は、今より40分も所要時間が長かったということである。
しっかりと起きて、車窓に注意すれば良かったと思う。

翌朝は、福山東ICを出てすぐの、6時30分着の広尾バス停を筆頭に、福山駅前に6時40分、府中営業所に7時20分、尾道営業所に7時50分、尾道駅前に8時05分と、バスはこまめに停車していく。
だが、それらの街の朝の光景も、残念なことに、記憶はまばらなのである。
わずかに、朝日にきらめく坂の街並みを下った覚えがあるだけで、あれは、尾道だったのであろうか。

結局、「エトワールセト」の車窓からは、夜空の星も瀬戸内の海も眺めることがないまま、終点の三原駅前には、時刻表通りの、8時30分の到着だった。
街はとっくに目覚めて、忙しく朝の営みを始めていたから、いかにも寝起きです、といった顔でバスから降りるのが、何となく気恥ずかしくて、人目が気になった。

 

 

 


三原からは、JR呉線で、海岸沿いに西へ向かった。
「エトワールセト」からは見られなかった瀬戸内の車窓を存分に満喫し、呉からは、石崎汽船と瀬戸内海汽船が共同運航する、松山-広島航路の水中翼船で、海路、広島へ行くことにしたのである。
呉駅から呉港の中央桟橋まで、歩いて10分ほどであるが、どうして、呉から船に乗ろうと思ったのかは、全く覚えていない。
大和ミュージアムはまだなかったけれど、軍港で有名な呉の街並みを歩きたくなったのかもしれない。
呉から広島まで、船を利用する人間などいないだろうと思っていたから、乗船券を買う時や、係員さんの改札を受ける時には、少々肩身が狭かった。
だが、桟橋からは、10人ほどが整列して乗り込んだから、逆に驚いた。
わずか30分にも満たないクルーズだったが、水中翼船などというものには初めて乗ったので、物珍しくも楽しい時間だった。

子供の頃は、未来を象徴する船として、水中翼船は僕らの憧れだったが、ジェットフォイルなどに押されて、いつの間にか消えてしまった。

広島宇品港からは路面電車で市街地に向かい、寝台特急「あさかぜ」で訪れて以来、5年ぶりの市内散策を楽しんだ。

 

 

 


さて、帰路はいよいよ、横綱の登場である。
日本最長距離夜行高速バス「ニューブリーズ」に乗るべく、僕は、広島駅新幹線口に向かった。
大都市相互間を結ぶ路線だけあって、利用客も多く、発車時刻の直前には、「東京」と行き先表示を掲げたスーパーハイデッカーが、ずらりと4台も並んだのである。
なかなか壮観な眺めであり、僕は、乗る前からゾクゾクしてしまった。
当時、運行4社のうち、小田急バスと広島電鉄、JRバス関東と中国JRバスが組むことが通例になっていたようで、僕が乗った日の上り便は、小田急と広島電鉄が2台ずつ担当していた。

 

 

 


開業当初の「ニューブリーズ」のダイヤは単純明快で、下りは、東京駅を20時に発車して広島駅に朝の8時に到着、上りは、広島駅を19時に発って東京駅に7時に着く、ちょうど12時間の行程だった。
首都圏へ向かう夜行バスは、どれも、朝のラッシュを避けるために、地方を早めに出る傾向がある。

横3列独立シートに納まり、リクライニングやフットレスト、レッグレストのスイッチや角度を確かめ、前席の網ポケットにはさまれた衣紋掛けを取り出して上着を窓枠のフックに吊せば、一夜を過ごす準備は万端である。
だが、午後7時という時間帯はやっぱり早過ぎて、暇を持て余す。
しかし、寝台特急のように、歩き回れるスペースがあるわけではない。
「あさかぜ」の個室寝台とは比ぶべくもない、質素な設備であるのは確かだ。
しかし、結論から先に言うならば、朝までぐっすりと眠れて、さほど疲れも知らずに移動できたわけだから、何の遜色もなかったと言えるだろう。
少なくとも、高速バスは、後ろ向きに坐らせられることはない。

夜行高速バスの乗り心地は、飛行機に似ていると、よく言われる。
高速バスの横3列席の広さは、飛行機のエコノミークラスよりは広いと思うが、ビジネスクラスには及ばない。
今で言うならば、JAL国内線のJクラスが似ているように思う。
12時間あれば、国際線のジェット機ならば、成田からニューヨークまで飛んで行ってしまうけれど、距離の長短ではなく、狭い座席でじっと我慢しているうちに、どこか遠くへ連れて行ってくれるという雰囲気は、確かに似通ったものがある。
一方で、長時間を過ごすに当たって、人間というものは、これくらいの小さなスペースでも何とか事足りるものなんだ、と達観してしまう点が、最も共通していると思うのだ。
もちろん、飛行機は、これが最速の乗り物だから、と自分に言い聞かせていれば、我慢のしどころもあるというものだが、高速バスの場合は、お金さえ出せば、幾らでも代わりの速い交通機関が見つかるという違いはある。

 


「ニューブリーズ」は、広島バスセンターに寄ってから、高速道路に乗り、いったんは、鼻面を西へ向ける。
山陽道が開通していなかったので、市街地の西を回り込む広島自動車道で北へ向かい、広島北JCTで中国道に乗り換えて、ようやく東へ向かうのだ。
漆黒の闇に包まれたハイウェイをしばらく走り、三次ICを降りて、三次駅に寄る。
三次に来るのは初めてだけれども、カーテンをめくっても暗いばかりで、どのような町なのかは全くわからなかった。
数年前の冬に、大阪から福岡までの夜行バス「ムーンライト」に乗った時、このあたりで雪景色になったことを、懐かしく思い出すばかりである。

三次で、チラホラ空いていた席が、完全に埋まった。
あとは、ひたすら、中国道・名神高速・東名高速を走りこむ、900kmの夜道であった。
バスの乗り心地はとても滑らかで、帝釈峡SAで休憩した記憶はかすかに残っているが、その後は、東京駅の直前まで、全く憶えていない。

定刻午前7時よりも、少しばかり早着となったが、乗る前に気構えていたよりも、遙かにあっけない1夜だった。
朝の陽の光が燦々と輝く、東京駅八重洲口バスターミナルに降り立った時は、一瞬、混乱したものだった。
静岡や名古屋などからの比較的距離が短いハイウェイバスで、何度も利用してきたターミナルであるだけに、寝台特急列車の旅にも匹敵する、バス路線としては日本一の長距離を走り切って、はるばる広島からやって来たという実感が、なかなか湧いてこなかったのである。

 


「ニューブリーズ」は、平成15年12月から山陽道経由便が走り始め、一時期、従来の中国道経由便と合わせて、1日2往復となった。
乗客数が多いため、2階建てバスが投入されていたこともある。
平成17年7月には、三次駅と千代田ICの乗降扱いを、新宿と津和野を結ぶ夜行バス「いわみエクスプレス」に譲って、中国道経由便の運転を中止し、山陽道経由のみの1往復になった。
多客期には、広島駅から呉駅まで足を伸ばす臨時便を運行することもあり、人気路線として、四半世紀以上もの間、走り続けているのである。

一方で、寝台特急「あさかぜ」は、博多まで運行していた1往復が、平成6年に運転を取りやめ、残った下関発着の1往復も、平成17年3月に廃止されてしまった。

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>