常磐高速バス盛衰記(4)~昭和63年東京-平「いわき」号の苦難~ | ごんたのつれづれ旅日記

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(この記事は、以前に掲載した「東京発みちのく行き高速バス慕情第3章~昭和63年いわき行き常磐高速バス・いわき号~」を加筆して再掲したものです)
 
 
福島県には、みちのくの入口というイメージがある。
新幹線の旅が主体になった現在は見る機会が少なくなったけれども、在来の東北本線の車窓からは、白河駅の手前の県境に、
 
「ここよりみちのく」
 
と書かれた河北新報の看板を目にすることができ、大いに旅情をそそられたものである。
 
 
福島県への高速バス路線はなかなか開業しなかった。
いや、この言い方は語弊があるだろう。
 
福島県へ出かけると言えば、誰もが真っ先に東北新幹線や東北自動車道を思い浮かべることと思うのだが、東北道経由の高速バスは、平成10年に開業した新宿-郡山・福島間「あぶくま」号、平成11年に開業した新宿-会津若松間「夢街道会津」号の登場まで待たなければならなかった。
昭和37年に開業した、東京と仙台・山形を結ぶ東北急行バスが、途中で郡山駅と福島駅に停車していた時期はあるけれど、それを除けば、福島県内を起終点にする高速バスの先陣を切ったのは、常磐自動車道を経由する高速バスだった。
 
 
僕が初めて東京駅と平駅を結ぶ「いわき」号に乗車したのは、開業直後の昭和63年11月下旬のことである。
当時は下り便が午前に1本、午後に2本、上り便がその逆という1日3往復だけのささやかな運転本数で、僕は朝の下り便を選んだ。
 
発車時刻である午前8時30分の寸前になって、東京駅八重洲口の3番乗り場に姿を現したのは、「平駅」と行先表示を掲げた東武鉄道バスのスーパーハイデッカー、いすゞ「スーパークルーザー」である。
それまでのつくば、水戸、日立方面への「常磐高速バス」が、新旧織り交ぜたハイデッカータイプの車両ばかりだったことや、当時は昼行便にスーパーハイデッカーを採用した路線が珍しかったことから、見上げるように背の高いバスを目にすれば、胸が高鳴った。
 
 
スーパーハイデッカーを初めて高速バスに投入したのが、どの路線であったのか定かではないけれども、僕が覚えているのは、昭和60年に開業した池袋-新潟線「関越高速バス」である。
従来の車両と比べて車高が高い分、重量も増えるため、法令で定められた1軸あたり10tまでという軸重制限に縛られて、最初は後輪を2軸にした3軸車が主流となり、「関越高速バス」に投入された日産ディーゼル「スペースウィング」の、アメリカの大陸横断バス「グレイハウンド」を彷彿とさせる重厚な3軸車は、長距離バスに相応しい外観であった。
 
外国製のスーパーハイデッカーがちらほらと走っていた昭和59年に、国産初のスーパーハイデッカーとなる三菱ふそう「スーパーエアロ」が登場し、品川-弘前線「ノクターン」号などで使用されたが、軸重基準を守るために車高は3.5mに抑えられていた。
「関越高速バス」に投入された「スペースウィング」は国産スーパーハイデッカーの2番手で、「スーパーエアロ」と同じ年に生産が開始され、3軸車両を採用したことから車高を3.6mに引き上げることが可能となった。
 
 
昭和60年に日野自動車から2軸車でありながら3.6mの車高を実現した「ブルーリボングランデッカー」が販売され、翌年に4番手として、いすゞ「スーパークルーザー」が車高3.6mの2軸車として登場する。
 
たかが10cmと思ってしまいかねないのだが、この10cmの車高の増加を実現し、かつコストパフォーマンスが良い2軸で軸重制限をクリアしたからくりとは、前輪を後方へ下げてホイールベースを従来の6.5mから6.15mに短縮し、燃料タンクを前輪より先端のフロントオーバーハングに置くことにより、重心位置を前輪側に移したことにある。
瞬く間に高速バスのベストセラーとなった三菱ふそう「エアロクィーンM」が登場するのは、「いわき」号が開業した年と同じ昭和63年のことである。
 
いすゞ「スーパークルーザー」は、前後輪の間隔が短くなったことで相対的に車体の巨大さが強調された観があり、その車輪とシャーシーにそんなでっかいボディを乗せて大丈夫なのですか、と心配になるほど頭でっかちな外観が、逆に僕の好みであった。
高いステップを昇って車内に入れば、横4列シートでありながら前後が10列に抑えられているため、シートピッチには余裕がある。
ハイデッカー車両の客室の内部の高さはだいたい180cm程度であるが、スーパーハイデッカーは190~200cmもあるため、バスに特有の圧迫感が少ない。
 
一方の常磐自動車は、日野グランデッカ、日産スペースウィング、そしてJRバス関東は三菱エアロクイーン3軸と、当時の「いわき」号は我が国のスーパーハイデッカーの見本市のようで、思えば豪勢な時代であった。
 
 
発車の30分以上も前から乗り場に立ち、真っ先に最前列左側の席を占めた僕は、この特等席で3時間も過ごせることに有頂天になったが、開業直後で、しかも午前中の下り便であるから、空席の方が目立つ乗り具合であった。
「いわき」号の名誉のために付け加えておくけれど、途中ですれ違った上り便は、ぎっしりと客を詰め込んでいたのである。
地方発着の高速バスは、午前中の上り便と午後の下り便の乗車率が高いのは、どの路線も共通の現象である。
 
定刻に発車した「いわき」号は、狭隘な宝町ランプから首都高速道路都心環状線の堀割に潜り込んだかと思うと、ジェットコースターのように日本橋川を跨ぐ高架に駆け上がっていく。
小石川橋付近の神田川に端を発し、隅田川に流れ込む日本橋川は、江戸時代に切り開かれた人工の水路であるが、殆どの部分で首都高速道路が蓋のように被さっている。
皇居の北側をすり抜けて、一ツ橋、竹橋、神田橋、江戸橋、呉服橋と、首都高速5号線や6号線、都心環状線には、日本橋川に掛けられた橋の名を冠するランプやジャンクションがずらりと並ぶ。
江戸橋JCTから首都高速6号向島線へ向かう登り勾配で、大きく右にカーブして行く「いわき」号の窓からも、隅田川に合流する直前の、日本橋川の澱んだ水面を垣間見ることが出来る。
江戸橋JCTから首都高速9号深川線を分岐する箱崎JCTまでは、名にしおう渋滞の多発地帯であるから、大半のドライバーはイライラして川を見下ろす余裕などはないかもしれないけれど、高速バスに乗っていれば、自分でハンドルを握っていれば目に入らないような景色をじっくりと眺めることが出来る。
 
 
ぎっしりと路上を埋める車の波に揉まれながら、新大橋と両国橋に挟まれた橋梁で隅田川の東岸に渡ると、高架の左右には、浅草をはじめとする下町の密集した家並みが見渡す限りに広がる。
水上バスや屋形船が、川面に白い航跡をひきながら行き交う。
 
右手の側壁越しに、砦のように延々と横長に連なる白亜の高層アパート群が見えてくる。
他には類を見ない、この異様な建造物は、墨田区にある都営白鬚東アパートで、震災などにより火災が発生した際に、防火壁として延焼の拡大を防ぐために昭和54年に建てられたものである。
13階建ての高層アパートは、長さ1.2kmに渡って、全ての棟が隙間なく連結されて鉤状の線を成している。
屋上には貯水タンク、各階に放水銃が設置され、いざという時にはベランダにシャッターが降りて外界と遮断される構造であり、また、団地と隅田川の間にある東白鬚公園には10万人の避難民を収容できるという。
 
 
「常磐高速バス」各路線は、開業当初から首都高速6号線の都心方面へ向かう渋滞に悩まされ、上り便の所要時間を20分から30分程度多く設定するダイヤを組んでいたが、それでも予定より遅れることが少なくなかった。
乗客が、渋滞の心配が少ない下り便だけ高速バスを利用し、上り方面では鉄道を利用するという傾向が見られるようになり、東京とつくばを結ぶ「つくば」号などは、下り便がほぼ100%という乗車率であるにもかかわらず、上り便は50%を割り込んでいたと聞く。
 
この状況を打開したのが「いわき」号で、上り便に限って首都高速を加平ランプで下り、綾瀬駅に停車することで、利用者が鉄道に乗り換えて大幅な遅れを回避することが可能となった。
平成3年からは、全ての「常磐高速バス」上り便が、平日と土曜日に向島ランプで高速を降り、上野駅に停車するようになる。
 
僕が「常磐高速バス」で上り便を利用した経験は、唯一、「つくば」号だけであるが(「下妻・筑波 晩秋の小さな旅~下妻行き高速バスと東京-筑波間つくば号・メガライナーの思い出~」)、首都高速を出て墨堤通りを走り出したバスは、白鬚東アパートの脇を通り抜ける。
隅田川と荒川に挟まれた江東デルタ地帯は、大正12年の関東大震災で10万人以上の死者を出したという悲惨な歴史がある。
噂には聞いていたものの、白鬚東アパートを実際に地上から見上げてみれば、その規模の大きさに圧倒されるとともに、断乎として火災を反対側へ広げてなるものか、と言う強い意思が感じられた。
 
 
ようやく車の流れがスムーズになる頃に、首都高速から常磐道に入った「いわき」号は、幅の広い切り通しに潜り込み、断続するトンネルで三郷や流山の市街地をくぐり抜けていく。
東名高速道路や中央自動車道、関越自動車道、東北自動車道などの東京を起点とするどの高速道路とも異なる旅の導入部で、「常磐高速バス」の車窓の最大の見所は、首都高速6号線から流山までの都市景観であると僕は思っている。
 
切り通しを抜け出せば、我が国随一の流域面積を誇る利根川水系が織りなす湿地帯と田園、そして散在する集落や工場、倉庫などの繰り返しで、欠伸が出るほど坦々とした車窓風景になる。
「スーパークルーザー」の走りは泰然として、乗り心地に申し分はないけれど、前後輪の間隔が短いためか、路面の継ぎ目が多い首都高速はもとより、常磐道に入ってからも、ちょっとした舗装の凹凸を拾っただけで、突き上げるような揺れを感じる。
時々、ごう、と風切り音が突発的に増大し、車体が揺れて、押し戻されたかのように一瞬だけ速度が鈍る。
茨城県の南部は、冬ともなれば北西からの筑波おろしが吹きすさみ、常磐道でもしばしば速度規制が敷かれることがあるという。
 
バスが不意に減速して、小高い丘陵に設けられた友部SAに滑り込んだ時には、おや、と腰を浮かしかけた。
「常磐高速バス」の他の路線では途中休憩を経験したことがなかったので、何らかの故障でも起きたのかと早とちりしたのであるが、
 
「ここで5分間の休憩を取ります」
 
と、運転手さんが素っ気なくアナウンスする。
安堵するとともに、休憩を設けるとは、さすが「常磐高速バス」における最長距離路線と感じ入った。
友部SAは笠間市にあり、三郷JCTから70kmほどの位置である。
降りてはみたけれど、冷たい木枯らしが身に浸みるし、僅か5分間ではトイレを往復するだけで終わってしまう。
 
友部を出れば、程なく水戸ICの標識が窓外を過ぎ去っていく。
東京駅から100kmを超え、もう行程の半分まで来ているのか、と思っているうちに、いつしか左手から山並みが近づいてきて、ハイウェイは少しずつ高度を上げ始める。
日立市の付近では、背後の多賀山地が海岸近くまで迫り、市街地は南北に細長く狭い平地に追いやられている。
 
 
16世紀には金の採掘が始められていたという記録が残る日立鉱山において、明治41年に建設された鉱山機械の修理工場が、現在の日立製作所の創業とされている。
日立市街のかなりの面積を日立グループの施設が占有しているために、住宅地の多くは山間を切り開いて造成されているという狭隘な地形であるから、平地に高速道路を造るなどとはもってのほかで、常磐道は多賀山地を貫く形で建設されている。
 
断続するトンネルをくぐり抜けるたびに高度が上がり、右手の下方には、側壁ごしに、海岸沿いの街並みと、その向こうで煌めく太平洋の海原が見え隠れする。
この側壁があるので、乗用車の座席では充分に車窓を見通せないかもしれない。
いわば「いわき」号でしか味わえない絶景で、平板な印象を抱いていた常磐道にこれほど素晴らしい眺望があったのか、と目を見開かされた。
後日、日立行きの高速バス「ひたち」号に乗車した際には、「いわき」号と同じ車窓を楽しむことが出来るのではないか、と意気込んでいたのだが、「ひたち」号は山岳地帯に踏み込む手前の日立南ICで高速を降りてしまい、国道6号線で海沿いの平地を走る経路であったから、拍子抜けしたものだった。
 
高萩、北茨城と関東地方の北の果てに向かって走り込んでいくうちに、山々や木々の緑が急激に色褪せて、葉をすっかり落とした木立ちが目立つようになり、何となく車窓が白っぽくなったな、と思うと、福島県との県境を越える。
垂れ込めた雲が分厚くなり、今にも泣き出しそうな空模様である。
山あいの田畑には一塊の霧がたなびいて、空調が効いた車内にいても、思わず襟を掻き寄せたくなるような、寒々とした車窓になった。
路面がアスファルトからコンクリートの灰白色になったことも一因であろうか、バスのタイヤが奏でる走行音も、心なしか重苦しい響きに変わる。
 
「ここよりみちのく」などという看板はないけれど、風景の変化が何よりも雄弁に、東北に足を踏み入れたことを伝えてくれている。
 
 
いわき勿来ICの停留所で、「いわき」号は初めて降車扱いを行う。
3人ほどの客が降りていく先に、古びた路線バスがポツンと待機している。
いわき勿来ICといわき湯本ICには、常磐線勿来駅と湯本駅へ向けての路線バスが新設されたのである。
 
来るな、という意味の古語「な来そ」が地名の由来とされている勿来の関は、白河の関と並ぶ高名なみちのくの入口の1つで、蝦夷の南下を防ぐ関所が設けられていたのだが、所在地がはっきりしていない。
古来から数多くの歌枕に詠みこまれている名所でもあり、僕は源義家が詠んだという、
 
吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背に散る 山桜かな
 
という歌が好きである。
古歌には現地で詠んでいないものも少なくないと言われているようだが、奥州で活躍した義家ならば、実際にこの地を訪れたことがあるのではないかと思う。
 
いわき市は、日立鉱山とともに日本の近代化を担った常磐炭田とともに発展し、石炭産業の衰退を受けて、平市・磐城市・勿来市・常磐市・内郷市と石城郡の3町4村、双葉郡の2町村の14自治体が昭和41年に合併し、当時としては我が国随一の面積を持つ自治体となった上で、新産業都市の指定を受け、仙台に次ぐ東北第2位の工業製造品出荷額を持つ工業都市になった。
常磐炭礦が存続をかけて、合併と同じ年に開設したスパリゾートハワイアンズが、東北地方でも最大の集客力を誇るなど、観光都市としての脱皮にも成功した。
 
 
律令時代には「石城」、この地を本拠地にした戦国大名は「岩城」氏、そして徳川時代と明治初期には「磐城」という地名の変遷があったものの、合併によって長野県ちの町、山口県むつみ村、青森県むつ市に次ぐ4例目の平仮名の自治体名になった。
「つくば」号で行ったつくば市でも感じたことだが、僕個人の好みで言うならば、日本の地名である以上は漢字を使うべきではなかったのか、などと頑迷な考えを抱いてしまう。
合併する自治体に磐城市が含まれていることから、他の市町村があたかも磐城市に吸収されたように見えてしまうことを嫌い、平仮名で妥協したという経緯があるらしい。
 
何かと語るべきことが多い街であるが、首都圏の都市景観に始まり、利根川流域の広大な平原と、日立市付近の海と山が織りなす、変化に富んだ車窓の印象が強いためか、いわき市域に足を踏み入れてからの記憶はそれほど定かではない。
確かなのは、東京駅からの203.3kmを見事に定時運転で走破した「いわき」号が、紛れもなく、みちのくの入口に僕を連れて来てくれた、と言うことである。
 
 
7年後の平成6年の師走のこと、僕は東京駅から「いわき」号に乗りこんだ。
初乗りの車窓を大いに気に入ってしまったので、僕は、たびたび「いわき」号に乗りに出かけていた。
この年に、終点の平駅がいわき駅に改称され、「いわき」号の行先表示も「いわき駅」に変わっていたが、だから出掛けてきた、という訳ではない。
この年の12月に開業したばかりの、いわき-福島間高速バスに乗りたいがために、はるばる浜通りまでやって来たのだ。
 
 
僕は、時刻表を読んでいても、華やかな長距離夜行高速バスと同じくらいに、都道府県内の都市間を結ぶローカルな高速バス路線が気になってしまう。
走っている長距離高速バスの全てが道内路線であるという北海道は別にしても、青森-弘前、弘前-八戸、盛岡-宮古、秋田-横手、山形-酒田、新潟-長岡・高田、長岡-高田、長野-佐久・松本・諏訪・飯田、松本-飯田、静岡-浜松、岐阜-高山、金沢-七尾・奥能登、京都-舞鶴、神戸-浜坂、広島-福山、広島-呉、山口-下関、福岡-小倉、長崎-佐世保、宮崎-延岡などといった高速バスに、敢えて乗りに行ったものだった。
 
起終点の街で長距離高速バスが経由しないような停留所に立ち寄ったり、聞こえてくる乗客の会話が方言ばかりだったり、訪れた土地の匂いが溢れる車内の雰囲気には、強く心を惹かれた。
 
 
福島県でも、福島と郡山を結ぶ高速バス路線が、昭和の末期の時刻表に長いこと掲載されていた時期があり、福島側の起終点が「福島競馬場前」と書かれていたものだから、赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞を血眼になって読んでいるおじさんばかりが乗っているのだろうか、などと大いに気をそそられたものだったが、いつしか時刻表から消えてしまった。
競馬場を発着する高速バスは、我が国でも、福島-郡山線が唯一無二だったのではないだろうか。
 
福島-郡山線が復活するのは平成11年のことで、やはり福島競馬場前を起終点にしているが、数年前に乗車した時には、福島競馬の送迎バスという雰囲気ではなかった。
 

 

平成6年に登場した高速バスは、福島の県都と、市町村合併で誕生した日本一の広域都市を結ぶ初めての直通交通機関だから、僕の目を惹いたのは当然の成り行きである。
 
当時のいわき駅の印象は、漠然としている。
現在のようにペデストリアンデッキが張り巡らされた瀟洒な建物になる前の写真を目にした時には、こんな駅舎だったっけ、と首を傾げたものだった。
まして、駅前の片隅にある常磐交通バス乗り場の記憶は更に曖昧で、16時10分発福島行きの3軸スーパーハイデッカー「エアロクィーンW」が客待ちをしていたのは、これが本当にバスターミナルなのかと目を疑うほど、こぢんまりとした建物の脇にある狭い路地だったような気がする。
後になって写真を見ると、ターミナルの横に乗り場があるような構造には見えないのだが、この日は、にわかに降り出した激しい雨に打たれ、息せき切って待合室に飛び込んだものだから、じっくりとターミナルを観察できた訳ではない。
 
 
定時に発車したバスは、雨に煙るいわき市内を後にして、国道49号線でひたすら西を目指しながら、やがて阿武隈の山越えに差し掛かった。
この区間に常磐自動車道が開通するのは、2年後のことである。
冷たい雨に叩かれる好間川の渓谷をぼんやり眺めながら、曲がりくねった山道を揺られる道中が続く。
運転手さんの滑らかなハンドルさばきに身を任せるうちに、短い冬の日が暮れなずんでいく。
 
 
途中で、会津若松-郡山-いわきを結ぶ県内特急バス「スワン」号が、ドイツ・ネオプラン製ダブルデッカーの2階席の照明を煌々と輝かせてすれ違った。
 
福島県浜通りから中通りを経て会津まで、国道49号線を使って結ぶ県内特急バスが運行を開始したのは昭和44年7月のことで、昭和58年3月には、路線バスとして我が国初となる2階建てバスを導入したのである。
1階にはミニラウンジが設けられ、女性乗務員が軽食をサービスしてくれるという破格の路線バスで、1度は乗ってみたい、と憧れたものである。
 
 
「いわき」号から平駅で「スワン」号に乗り換えてみたい、と思ったこともあるけれど、「スワン」号の会津若松行きは午前中だけの運転で全便が「いわき」号の到着前に発車してしまい、会津若松からの平行きも、「いわき」号上り便の発車後の到着であった。
もう少し運転時間帯を分散させてくれないものか、と恨めしくなったが、「スワン」号は全て常磐自動車の車両で、いわきに車庫があったのだから仕方がない。
やむを得ず、古びたハイデッカー車両の便に、平と郡山の間を乗ってみただけにとどまり、愚図愚図しているうちに、平成8年の磐越道開通に伴う経路の乗せ替えや時間短縮と期を一にして、「スワン」号は退役してしまった。
 
 
遂に乗る機会に恵まれなかった「スワン」号であるが、この路線に触れた印象深い作品の記憶が、今でも心に残っている。
レールウェイライター種村直樹氏が、分割民営化を控えた国鉄の鉄道・バス路線を対象にした最長片道切符を使って、いわゆる「ひと筆書き」の旅を実行した壮大な記録「さよなら国鉄・最長片道きっぷの旅」の一節である。
 
『横町停留所へ戻って12時45分ごろ、小野新町から来た磐城石川ゆきに乗り、腰を下ろしたとたん、運転手から声がかかった。
 
「お客さん、種村さんでしょう。これ読んでください」
 
阿武隈高地のローカルバス車内で、突然名前を呼ばれるとはただごとではない。
2つ折のメモ用紙には──
 
「種村様 母親が急に病気になりましたので辻さん方に電話入れて下さい 関東地方自動車局渡辺さんより連絡あり 又辻さんよりも電話ありました」
 
──小野新町支所長鈴木英策のゴム印が押してある。
これはダメだと思った。
「急病」の表現は辻聡の配慮だろう。
母は危篤か、もうこの世にはいない。
連絡先が辻になっているのは妻が母のいる山科へ向かい、辻に伝言を頼んだに違いない。
旅先からは、2、3日ごとに自宅へ電話しているが、一昨日出たばかりなので今夜あたりと考えていたのだが……。
 
「お客さん、電話してください。待ってますから。すぐ電話してもらうように言われてるんです」
 
再び運転手の声がした。
バスが動かないものだから7、8人のお客さんたちは、どうしたんだ、急病らしい……とささやき合っている。
運転手、というか国鉄バス支所の好意はわかるが、他のお客さんまで待たせてここで電話しても始まらない。
おそらくまっすぐに山科へ行かねばならないだろうから鉄道に繋がっている磐城石川へ出てしまったほうがよいと判断、そのむね伝えて発車するよう頼んだ。
バスが本町に着くと今度は助役らしい人が駆け寄り、窓から首を出した運転手が、
 
「乗りましたから」
 
と報告している。
助役からも同じ内容のメモを渡され、心から感謝。
旅のコースは磐城石川から水郡線上りで磐城浅川へ行くのだが、山科となれば下りに乗って郡山から新幹線利用となる。
下りは接続がよく14時02分発の331Dがあった。
バスは蓬田という山間に開けた町へかかり、「会津若松↔郡山↔平特急バス発着所」の看板が見える。
常磐交通の2階建てバス「スワン」の走るルートだろう。
このバスを利用したほうが距離的には遥かに短いが、運行時刻は分からず、じたばたしないことだ。
それにしても、見事に見つけてくれたものだと感心する。
妻が辻に頼んだのは間違いなかろう。
自宅にはデスクプランの予定表コピーを置いてあり、今日の日程は「神俣-本町-石川新町-1355磐城石川1613(232D)……」と記してある。
行程を聞いた辻が、このバスに乗っているはずとの前提で国鉄本社自動車局に頼み、関東自動車局を通じて小野新町支所へ手配があったと思われる。
朝、神俣から横町まで乗ったバスの運転手に石川方面への乗り継ぎ停留所などを尋ね、経由別紙のきっぷを見せているので、あの運転手が支所の帰着点呼で“変わったきっぷの客”が乗ったことを報告しており、僕が横町から乗るものと見当をつけてこのバスの運転手にメモを託し、助役は本町で待ち受けたのだろう。
あらためて運転手に、よく見つけてくれましたねとお礼を言うと、心もち胸を張った。
 
「いろいろ言われますが、これが国鉄の組織というもんです」
 
そうなのだ。
国鉄という全国一元化組織のバスで旅をしていたからこそ、こんな形で連絡を受けられたのである。
「1985年夏 国鉄ネットワークを記録する」旅の途上で、その組織のお世話になったのもめぐり合わせに違いない。
丘陵地を快調に走ったバスは石川町へ入り、磐城石川駅に着いた。
辻に電話すると、やはり母は危篤。
10時半ごろに自動車局へ頼んでくれたそうだから2時間後に横町で伝言を聞いたわけだ。
長い旅を中断し331Dできっぷの経路を逆行。
郡山で山科の病院にいた妻と連絡がついた。
母は14時半ごろ、僕が331Dに乗ってほどなく息をひきとっていた』
 
 
携帯電話がない時代、人々は、残してきた自宅や会社のことを心の奥底で気にかけながら、旅を続けていた。
僕も、この旅の20年後に、遠く離れた土地で病気療養中だった母の容態の急変を知らされるという経験をすることになったから、氏の悲しみと焦燥感はよく理解できる。
 
それにも増して、日本国有鉄道の終焉が目前に迫って何かと混乱してもおかしくない時期であるにも関わらず、全国一元の交通システムを誇る巨大組織の底力を目の当たりにするようなエピソードにぐいぐいと引き込まれ、登場する国鉄職員の善意を強く感じて、読み進めながら涙が止まらなくなった。
 
「これが国鉄の組織というもんです」
 
今は亡き国鉄に対するこれ以上の賞賛と挽歌が、他にあっただろうか。
 
「スワン」号は、急遽旅程の組み替えを迫られた種村氏の脳裏に浮かんだだけの存在であるけれど、今でも「スワン」号のことを思うと、種村氏が遺したこの大作と、亡き母のことが連想されるのである。
阿武隈の山中で種村氏を探した国鉄バス小野新町支所は、分割民営化でJRバス関東の営業所となり、平成15年に、氏が乗車していた小野新町とJR水郡線磐城石川駅を結ぶ所轄の路線バス磐城北線もろとも廃止された。
国鉄バス磐城北線と会津若松-郡山-いわき線が交差していた蓬田は、いわきと郡山のちょうど中間あたりにある山村で、「スワン」号は停まっても、福島行き高速バスは見向きもせず通過してしまう。
 
 
阿武隈山地を越え、雨の中通りに降り立ったいわき発福島行きの高速バスは、須賀川ICから東北道に入った。
安積SAで5分間の休憩がとられたけれど、運転手さんを含めて、バスから降りようとする者は誰もいなかった。
乗客は皆、口を閉ざしたまま身じろぎもせず、淡い照明に照らされた窓ガラスを流れ落ちていく無数の水滴を、じっと見つめているだけである。
運転手さんも、開けていた扉を早々に閉めてしまった。
バラバラと屋根を叩く雨音が鈍く鳴り響くだけの、福島行き高速バスの車内だった。
 
福島西ICで、暗闇と雨をついた高速クルージングは終わりを告げる。
城下町らしく、狭く入り組んだ街路を抜けると、およそ2時間半のバス旅の終点、福島駅東口である。
暗闇に包まれた駅前広場はひっそりとして光が乏しく、陰々と水底に沈んでいるような雰囲気だった。
 
 
昭和63年に1日3往復で運行を始めた「いわき」号は、その後、見違えるような発展を見せる。
 
翌年には1日6往復に増便され、平成2年には1日9往復、平成7年に12往復、平成10年に15往復、平成11年に18往復、平成13年に21往復、平成15年に24往復、平成17年に26往復、平成18年に30往復、平成19年に33往復、そして平成21年に39往復と、実に十数倍の運行本数に膨れ上がったのである。
平成16年には浪江駅まで足を伸ばす系統が設けられ、平成21年に南相馬まで延伸されて、 広野IC、常磐富岡IC、大熊町役場、双葉町役場、浪江駅、原町営業所、道の駅南相馬にそれぞれ停留所が設けられて福島県浜通りの北部もカバーする路線となった。
平成17年にはいわき湯本ICからスパリゾートハワイアンズ、温泉神社を経て小名浜高速バスターミナルに向かう系統も登場し、どちらもいわき市内には立ち寄らない経路であったから、「いわき」号と名乗りながらも全くの別路線のような様相であった。
 
 
バスファンとしては是非とも乗車してみたかったが、相馬系統も小名浜系統も、朝に上り便が出発し、夕方に下り便が運行されるという徹底した地元志向のダイヤであったから、なかなか機会に恵まれないまま、平成23年3月11日を迎えてしまう。
東日本大震災のために全便が運休を余儀なくされた「いわき」号であったが、1週間後の3月18日から東京-いわき駅間で運行が再開されたものの、その後も最大で1日24往復と、震災以前の本数には及んでいない。
それでも、復旧できた系統はまだ幸いである。
南相馬系統と小名浜系統は、長期運休のままであった。
 

 

平成30年6月、7年ぶりに小名浜系統が復活し、また「常磐高速バス」とは無関係に、さくら観光が池袋・東京鍛治屋橋と南相馬・相馬を結ぶ高速路線バスの運行を平成27年に開始する(「原発事故に揺れる街へ~ドリームふくしま・横浜号と福島-相馬特急バス、相馬-東京直通高速バス~」)。
 
一方、時刻表の「いわき」号南相馬系統の欄には「当分の間運休」と、素っ気ない注意書が書き込まれているだけの空欄となり、平成27年の時刻表からは、力尽きたように、南相馬系統の枠すら消えてしまった。
 
「当分の間」……。
 
フクシマが、未だに、先が見えない困難な闘いの最中にあることを、「いわき」号の空白の時刻表は何よりも雄弁に物語っている。
 
 
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