常磐高速バス盛衰記(3)~昭和63年東京-日立・高萩「ひたち」号の旅情~ | ごんたのつれづれ旅日記

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常磐自動車道を走る「常磐高速バス」の車窓の佳境は、水戸ICを過ぎたあたりから左手より山並みが近づいてきて関東平野が窄まり、ハイウェイが少しずつ高度を上げ始める日立付近ではないかと思っている。

背後の多賀山地が海岸近くまで迫り、市街地は南北に細長く狭い平地に身を縮めている。

 

 

16世紀には金の採掘が始められていたという記録が残る日立鉱山において、明治41年に建設された鉱山機器の修理工場が、現在の日立製作所の創業とされている。

日立市街のかなりの面積を日立グループの施設が占有しているために、住宅地の多くは山間を切り開いて造成されているという狭隘な地形であるから、平地に高速道路を造るなどとはもってのほかで、常磐道は多賀山地を貫く形で建設されている。

 

日立南ICを過ぎ、日立中央ICを経て日立北ICまでは、断続するトンネルをくぐり抜けるたびに高度が上がり、右手の下方には、海岸にへばりついている日立の街並みと、その向こうで煌めく太平洋の海原が見え隠れする。

平板な印象を抱いていた常磐道に、これほど素晴らしい眺望があったのか、と目を見開かされる。

しっかりとした側壁が設けられているので、乗用車では隠れてしまうかもしれない。

 

この山岳地帯を越えると、常磐道は福島県に入っていく。

日立とは、関東平野の北の果て、みちのくの入口なのだな、と思う。

 

 

この車窓は、東京駅と平駅を結ぶ「いわき」号に乗った時に、初めて目にした。

 

「いわき」号の開業は昭和63年11月、この章で取り上げる東京と日立を結ぶ「ひたち」号の開業は、その5ヶ月前の同年6月のことである。

「ひたち」号に乗車した際に、「いわき」号と同じく海と山が織りなす車窓を楽しむことが出来るのではないか、と意気込んでいた記憶があるから、僕が「ひたち」号に乗車したのは開業順とは逆に、「いわき」号の後ということになる。

 

「いわき」号に乗車したのは開業後間もない時期のことで、僕が心を躍らせながら「ひたち」号に乗るべく東京駅八重洲南口のバスターミナルに足を運んだのは、「いわき」号に乗ってから大して日時を経ていない昭和63年の師走だった。

 

 

当時の僕は、高速バスで旅をするならば、最前列の席で車窓を楽しまなければ価値が半減する、という一種の強迫観念にとらわれていたから、定員制で自由席の「常磐高速バス」に乗る時には、発車の1時間ほど前にはターミナルに着くようにしていた。

バスが次々と乗り場に横づけされても、行列の脇に退いて一向に乗ろうとしない僕の振る舞いは、周りからどのように見られているのだろう、と、ある程度は人目を気にしつつも、所在なく立ち続けたものだった。

 

バスの最前列左側の席は、揶揄もしくは諧謔の意味合いを込めてマニア席と呼ばれているらしい。

強引にその席を確保したがるファンが一定数存在し、そこに座る客を煙たがる運転手さんもいると耳にしたのは、かなり後になってからのことである。

早くからそうとを知っていれば、マニア席を選ぶのを控えたかどうかは分からない。

 

運転手さんの一挙手一投足が気になってしまう席であるのは確かで、無愛想な運転手さんに当たると、じろりとこちらを睨みつけるような視線を投げ掛けた後は知らん顔、という車中では、気が重くなり、後席に移ろうかな、と悩ましく感じたこともある。

事故が起きれば命に係わる可能性が少なくないし、最近は3点固定方式のシートベルトの装着を要求される、何かと煩わしい席であるのも間違いない。

それでも、後席よりも遥かに開ける展望と、運転手さんの運転操作をじっくりと見られる魅力には打ち勝てず、それほどマニア席に拘らなくなった現在でも、あいていれば座りたくなってしまう。

 

用もないのに乗り物に乗りたがるのは児戯に類する行為であることは自覚しているし、今では、如何にも物欲しげな醜態を他人に晒さなくても、与えられた座席で目一杯楽しむことが旅の醍醐味である、と達観もしくは諦観しているから、マニア席に座れなくてもそれほど落胆しなくなった。

それでも、どのような人物が最前列に座っているのかが気になったりする。

せっかく最前列の席に座っているのに、本を読み出したり、居眠りをしているのに気づくと、僕に譲ってくれればいいのに、と不遜な考えが浮かんでくる。

 

 

『電車に乗ると、つい先頭車のいちばん前に立つ。

前方が見えておもしろいからである。

いい歳をして子供みたいだと言われそうだが、吊革につかまって片側だけを眺めているより格段におもしろいのだからしかたがない。

けれども私だけではない。

もちろん、そういうところに立つのは少年が大半であるが、大人も少なくない。

もっとも、年配の紳士は少年のように窓に額を押しつけて前方を凝視したりはしない。

たまたまその位置に乗り合わせたように何気ない振りで立っているが、眼は一心に前方を見ている。

運転士の気分を味わい楽しんでいるにちがいない。

同類のことはおのずとわかるものである。

ただし、電車のいちばん前に立って前方を見たがるのは、老若を問わず男に限られているようだ。

女性は皆無といってよい』

 

 

紀行作家宮脇俊三氏の「終着駅は始発駅」所収の「トンネル三題」の一節である。

 

「同類」に限らず、普段は鉄道などに興味を示さない人種であっても、先頭部で前方の景観と運転手のきびきびとした動作を目にすれば、誰もが惹き込まれると僕は思う。

僕も、初めて高速バスに乗車した時は、運転手の運転ぶりが面白くてしょうがなかった。

最近の鉄道では、サービスの一環であるのか、運転席と客室を隔てる窓のカーテンを開いて前方の眺望を乗客に提供することが多くなり、客の立場では嬉しいことであるけれども、鉄道でもバスでも、自分の仕事ぶりを他人に見られる環境を、運転手さんはどのように感じるのだろうか、と思う。

 

バスを待つ行列に加わっていても、自分より前にいる乗客について、この中で誰が最前列席に座るのだろうと品定めをすることがある。

限定された体験に基づく見解であるけれど、ひょい、と最前列席に気軽に座るのは、中年以降の年齢層が多い。

鉄道では女性が少ないと宮脇氏が嘆いているけれども、バスでは女性も少なくないように思える。

車酔いしにくい席であるのも確かだから、それを理由とする乗客もいるのだろう。

ファンでなくても、マニア席が好きな御仁は多い、というのが、僕の実感である。

 

 

開業当初の「ひたち」号の運行本数は1日4往復で、「常磐高速バス」の中では最も少なかったが、5ヶ月後に開業した「いわき」号は1日3往復からのスタートであった。

どちらも、常磐線の特急「ひたち」が足繁く直結している都市であるから、バスの利用者は決して多くないものと控えめに見積もったのであろう。

 

地方と大都市を結ぶ高速バスは、圧倒的に地方側の居住者の利用が多く、日帰り圏内であれば午前の上り便と午後の下り便の利用者数が大半を占めている。

それを反映して、午前の上り便と午後の下り便しか走らせない路線もある中で、「ひたち」号は午前に下り便1本、午後に上り便1本を割いてくれているから、僕のような東京在住者にはありがたい。

 

 

初乗りは当然、午前9時40分に東京駅を発つ下り便と決めていたが、そのためには休日の朝早くから出掛けなければいけない。

「常磐高速バス」の先陣を切った東京-つくば線「つくば」号も、第2陣の東京-水戸線「みと」号も春先の乗車であったから、待ち時間は汗ばむくらいの陽気であったが、「ひたち」号を待つ間は、ビルの合間を吹き抜けてくる木枯らしが身に浸みた。

 

発車後は、八重洲通り、首都高速道路宝町ランプから都心環状線、6号向島線、中央環状線、三郷線という「常磐高速バス」でお馴染みになった車窓風景が展開する。

河岸までぎっしりと建て込んでいる隅田川沿岸から、河川敷が広くて一気に視界が開ける荒川沿岸へ渡っていく車窓の劇的な変化は、何回目にしても飽きることはない。

 

常磐道に入ると田園や丘陵ばかりになるが、借り入れの終わった田畑は土の色ばかりに覆われて、すっかり葉を落としている木々も多く、常緑樹の緑も心なしか色褪せているような気がする。

東京では銀杏の黄葉が真っ盛りを迎えていたけれど、少し北へ来るだけで、紅葉などはとっくに終わっていた。

素寒貧とした沿道風景は、「つくば」号や「みと」号とは全く別の道路を通っているかのように錯覚するほどだった。

 

 

水戸ICを過ぎ那珂川を渡ると、多賀山地の山裾が一気に左手から前方に押し寄せて来て、いよいよ関東平野もどん詰まりか、と思う。

つくば、水戸と少しずつ北に路線を伸ばした「常磐高速バス」も、ついに関東平野の北端まで達したのか、と感慨にふけるところであろうが、1ヶ月前に「いわき」号を体験しているから、真新しさは感じられない。

水戸北ICと那珂ICを轟然と通過すれば、日立南ICの先で、長さ2442mの日立トンネルを皮切りに山中に足を踏み入れ、彼方に日立灘を見下ろす絶景が拝めるはずであったから、前途への期待ばかりが膨らんでくる。

 

ところが、「ひたち」号は、「日立南・太田」の標識が見えると、

 

『間もなく新田中内です』

 

と降車停留所の案内を流しながら減速をはじめ、日立南ICを降りてしまったではないか。

 

新田中内停留所は、日立南ICの流出路が国道6号線と合流する交差点の数百メートル先に置かれている。

時刻は11時20分、ほぼ定刻通りの見事な運行だが、インターチェンジからこれだけ離れてしまうと、もう1度常磐道に戻って、市街地に近い日立中央IC方面に走る気配はない。

もう高速道路に戻るつもりがないのか、と思わず腰を浮かしてしまうような、インターチェンジの外に設けられた停留所が大きく離れている路線も経験したことがあるけれど、「ひたち」号はそうではなかった。

新田中内、石名坂、金畑団地、塙山、常陸多賀駅、諏訪表原、成沢、日立警察署前といった降車停留所の存在は時刻表で知っていたものの、それらの位置を調べた訳ではなく、てっきり日立中央ICから日立市内に向かうもの、と漠然と決めつけていたのである。

 

山岳区間の眺望の楽しみを奪われて、がっかりした僕の脳裏に、新田中内から日立駅までの国道6号線の記憶は殆ど残っていない。

おそらく、どの地方都市ともあまり変わり映えのしない郊外風景の中を走り抜けたのだろう。

東京から142.3km、2時間15分のバス旅は失意の中で終わりを告げ、おそらく特急「ひたち」で帰ったと思われる復路のことも、完全に忘却の彼方である。

今でも、「ひたち」号と言えば、日立南ICで落胆した経験が真っ先に思い浮かぶ。

 

 

間もなく年号が平成に変わり、先輩格の「つくば」号や「みと」号、そして後輩の「いわき」号は人気路線に育って増便を重ねたが、「ひたち」号は1日4往復のまま、長いこと据え置かれていた。

 

あまり利用者数が伸びない路線であったのか、日立製作所のビジネスマンはお金持ちで特急列車ばかり使うのかな、などと考えていたら、突如として平成5年に1日6往復に増便され、うち4往復が高萩駅まで延伸されたのである。

更に、平成8年には日立中央ICを経由する超特急便が登場、同11年には1日8往復、同13年には高萩IC経由北茨城市役所行きの系統が増設されて1日10往復、同18年に11往復、同20年に18往復、同21年に20往復、同23年に22往復まで増便、と見違えるような発展ぶりを見せるのだが、それは後の話である。

 

僕は、1度体験した高速バス路線の延伸や経路変更にはあまり興味が湧かず、余程のことがない限り乗り直したりしないが、「ひたち」号高萩系統には無性に乗りたくなった。

その理由は判然としない。

高萩という未見の街に行ってみたかったのか、それとも、1度目では記憶がおぼろになってしまった日立南ICから先の行程を再び体験してみたくなったのか。

 

 

僕が乗車したのは高萩系統が登場して間もなくの初夏のことで、当時は、下り便の東京発が15時40分、16時40分、17時20分、18時00分と全て午後の運行、上り便が高萩発6時00分、6時40分、8時10分、8時55分と午前の運行であった。

 

午前の下り便に初乗りした時とは大いに事情が異なり、休日に時間が捻出できなかったのか、それとも衝動的に出掛けたのか、とにかく高萩行き「ひたち」号に乗車したのは、仕事を終えた平日18時発の下り最終便であった。

発車直前に東京駅八重洲南口3番乗り場に駆けつけると、バスを待つ乗客は長く列を作っていて、程なく現れたJRバス関東のハイデッカーの最前列席は、瞬く間に他の客に奪われてしまった。

賑やかに話し続けるおばさんの2人連れが最前列左側席を占め、運転手さんはうるさくないのかな、と心配した記憶がある。

最前列でなくても、前から3~4列目の窓際に座れたし、乗れただけ良しとしよう、と自らを慰めながら、暮れなずむ常磐道の車窓を眺めながら過ごしたが、不思議と後悔した記憶はない。

直前まで忙しく仕事をしていたことが夢のようで、シートに身体を預けながらぼんやりと過ごしたひとときの心地良さは、今でもはっきりと心に蘇る。

 

陽が長い季節ではあったけれども、高速道路を降りて日立の市街地に足を踏み入れる午後8時過ぎともなれば、窓外は完全な闇に包まれていた。

日立の街並みとは案外光が少ないのだな、という心細さが込み上げてきて、定刻20時20分に到着した日立駅前まで払拭されることはなかった。

駅舎には煌々と照明が灯されているけれども、周辺の建物の明かりが乏しいのである。

僅か5年前に訪れたばかりであるのに、このような所だったっけ、と思う。

 

 

ここで降りれば、20時54分に日立駅を発車する上り最終の特急「スーパーひたち」32号で、上野駅に22時23分に戻ることが出来る。

しかし、20時55分に到着予定の高萩駅まで行ってしまえば、もう上りの特急列車は運転されていない。

それどころか、21時18分発の普通列車670Mで22時55分着の土浦駅まで行き、23時26分発の474Mに乗り換えて我孫子駅に23時59分着、そして、最終の1本前の0時02分発常磐線快速電車で上野駅に0時36分着、という情けない方法しかなくなるのである。

 

当時の常磐線は、上野駅と平駅(後のいわき駅)を結ぶ200kmを超える長距離普通列車が何本も運転されていたが、直通列車すらない時間帯なのである。

どの列車も終電もしくはそれに近く、逆に、このような時間でも高萩から上野までスジが繋がっていることを幸運と思うべきだろう。

曲がりなりにも東京へ帰ることは出来るのだし、高萩行きのバスに乗ろうと決めて来たのだから、僕は先に進まねばならない。

 

 

日立駅前では、驚いたことに、20~30人はいた僕以外の乗客が、全員降りてしまった。

通路を乗降口に進む列が消え、高萩に行く客は誰もいないのか、と閑散とした車内を見回していると、

 

「お客さん、こっちへ来ませんか」

 

と、若い運転手さんが振り返って声を掛けて来た。

 

「いいんですか?」

「どうぞ」

 

望むところです、と勇んで最前列左側席に移動すると、バスは動き出した。

夜だから車窓はあまり望めないけれども、それでも、後席より最前列の方が見えるものが多いのは確かである。

運転手さんのハンドルさばきも、うっとりするほど滑らかだった。

やっぱりこの席はいいな、と運転手さんの心遣いに感謝したくなる。

 

「お客さんは高萩ですか」

「はい」

「じゃ、川尻十文字は通過します。放送はいらないですよね。進めちゃいましょう」

 

川尻十文字とは、日立駅と高萩駅の間の国道6号線上にある唯一の途中停留所である。

 

十字街、という地名ならば、『十字街とは北海道の都市の都心部に多くみられる地名。開拓時にその都市の中心部になる交差点の周辺に名付けられることが多い』と辞書に記されている通り、小樽に新光町十字街、入船十字街、長橋十字街、稲穂十字街などが存在し、深川、留萌、女満別、余市、倶知安など数え切れない程の街に十字街が見受けられる。

十文字、という地名も、おそらく街道が交差する場所、と言う共通点があるように思えてならず、茨城県の他にも、秋田県や福島県、群馬県など、関東・東北地方に点在しているという。

 

運転手さんが進めちゃいましょう、と独りごちたのは、停留所案内のことで、片手でボタンを何回か押すと、

 

『御乗車お疲れさまでした。次は終点、高萩駅です』

 

と気の早い録音放送が流れ、合わせて運賃表も高萩駅までの料金に変わった。

 

「日立から高萩までは、いつも、こんな感じなんですか」

「うーん、今まで私が乗った便は、みんな日立で降りちゃいましたねえ。高萩まで伸びたことを知っているお客さんが少ないのかな。今日は珍しいなって思いましたよ」

「誰もいなければ日立で打ち切りなんですか?」

「いえ、路線バスですからお客さんがいようといまいと、高萩まで行きますよ。それに、私もこのバスも高萩営業所の所属なんです」

「良かったです。僕だけのために運転手さんが高萩まで行かなければならないんだったら、申し訳ないですからね」

「大丈夫です。どうせなら、お客さんがいた方が張り合いがありますよ。ですから、御乗車、誠にありがとうございます」

 

と、運転手さんは正面を見据えながら破顔した。

行き交う車のヘッドライトや街灯に照らされて、その横顔が明るくなったり暗くなったりする。

混雑する日立市街を抜け、このような時間になっても、行き交う車は多い。

左手には、山々の黒々とした輪郭が連なっている。

右手にはこんもりとした松林が続き、小さな川を跨ぐ橋を渡ると、その奥に、幾つもの白い波頭が浮かぶ暗い海原が垣間見えた。

 

何の用もなく、高萩に着いたらとんぼ返りするだけの僕が乗らなければ、このバスは、空で高萩まで行くことになったのか、と思う。

高萩駅までおよそ16km、30分程の道のりは、陽気な運転手さんと楽しく話をしながら、瞬く間に過ぎた。

マニア席に座って運転手さんと話し込みながら車中を過ごしたことは何度もあるけれども、招かれたのは「ひたち」号が唯一である。

 

乗り直して良かったと思う一方で、マニアであることがどうして運転手さんに露呈したのか、今でも不思議で仕方がない。

 

 

 

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