kawanobu日記/9.11テロの日にコーラン焚書の企てとそれに対して起こった大きな反応をどう見るべきか:グラウンド・ゼロ、ムハンマド、イスラム教、『悪魔の詩』 画像1

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 本日は、9.11同時多発テロ9周年である。
 今も思い出すが、世界貿易センタービルが、煙を上げて倒壊する映像は衝撃的だった。日本人ビジネスパーソンを含め、世界各国から出張、派遣されてきた人たちも加えて、3000人近い、何の罪科もないアメリカ市民が殺害された。アメリカという超大国にとって、9.11テロは、69年前の真珠湾攻撃に次ぐ本土攻撃であっただけに、今も傷心のうずく記憶である。

一躍、有名になり、パーフォーマンスは大成功か
 その9.11に合わせ、アメリカ、フロリダ州のある小さなキリスト教会がイスラム教の聖典コーランを燃やすパーフォーマンスを計画したことに対し、イスラム諸国各地で抗議行動が起こり、アメリカ国内でもオバマ大統領まで憂慮を表明する騒ぎになった。思わぬ騒動に腰が引けたのか、9日、その教会のテリー・ジョーンズ牧師は、記者会見してコーラン「焚書」の中止を表明した。
 コーランを燃やすと表明した教会は、カルトめいた小教会のようで、教会の説教に来る信者は50人足らず、という。どこも報道しなければ、こんな騒ぎにならなかったが、報道されたことで、無名のこの教会と主任牧師は、一躍アメリカ全国区となった。仕掛けた同師にとって、思わぬ大成功のパーフォーマンスだったに違いない。
 しかし、はっきり言えば、この主任牧師のやろうとしたことは愚行、である。これによって得られるのは、イスラム世界に庶民層レベルまでアメリカへの憎しみを植え付けるだけ、であり、アメリカ国民と国家、さらにキリスト教にとって何の実りももたらさない。

ムハンマド風刺画に圧力をかけたイスラム
 だがこの愚行に対して、「すべての宗教は平等だと定めた(アメリカ)憲法を持つ国のすることか」とか、「他者の否定であり、憎悪と差別を助長するものだ」と警告するイスラム諸国の批判も、受け入れがたい。異教に対する不寛容は、イスラム教こそ激しいからだ。
 例えば2005年から06年にかけ、ヨーロッパの各新聞が預言者ムハンマドの風刺画を載せた時、イスラム原理主義過激派から編集者への処刑などの脅迫が行われた。イスラム各国では、最初に掲載した新聞の発行国デンマークに対して抗議する暴動まで起こった。イスラム諸国の大使たちが集団でデンマーク首相に面会を求め、圧力をかけようともした。
 上記の動きは、明らかに表現の自由に対する侵害であった。
 イスラム教徒にとって異教徒は、説得ではなく殲滅の対象だから、こうした行動がストレートになされやすい。その端的な例は、他国の作家に対する恣意的な「死刑宣告」だろう。

他国の作家・翻訳者に「死刑宣告」のファトワを出す非道
 1988年、インド系イギリス国籍の作家サルマーン・ルシディー氏がムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』に対する反応は、風刺画騒動よりさらに過激だった。イランの最高指導者ホメイニがルシディー氏と小説の発行に関わった者に「死刑宣告」のファトワ(宗教見解)を出し、イランのイスラム系財団は「死刑」を実行した者に数億円の懸賞金さえ出すことを表明した。
 この「死刑宣告」によってルシディー氏は地下に身を隠さざるをえなくなり、各国の翻訳書の発行所や翻訳者へのテロが頻発した。
 日本でも、同書翻訳書の筑波大学助教授、五十嵐一氏が、91年にムスリム暗殺犯らしき犯人により殺害された。実行犯が国内に潜伏しているとすれば、06年にすでに時効を迎えた。

自由に対するフリーライドは認められない
 フロリダの小教会のジョーンズ師がコーラン焚書の計画をたてたのは、9.11テロの主要現場となったグラウンド・ゼロ近くにもちあがったモスクを含む大規模なイスラム系施設の建設計画が動機となっただろう。この計画が明るみに出ると、9.11テロの遺族を中心に激しい反発が起こった。
 リブパブリが遺族であれば、やはりこの計画には嫌悪を覚えただろう。オバマ大統領は、「アメリカの宗教の自由に対する約束は揺るぎないものでなければならない」と建設計画の支持を明言したが、遺族を初め共和党支持者などから強く反発されると、一般論だと後退した。トンチンカンな発言、と批判せざるをえない。
 オバマ大統領の言うことは、確かに正論だ。信仰、思想、表現の自由は、基本的人権であり、何物にも妨げられるべきではないからだ。しかし同時に、その原則には例外があってはならないのだ。宗教の自由へのフリーライドは認められない、ということである。

なぜグラウンド・ゼロ? 広いニューヨークの他の場所に建設すればすむこと
 イスラム教徒、イスラム諸国が、グラウンド・ゼロ近くにモスクを含むイスラム系施設の建設の自由を求めるのであれば、イスラム諸国でもコーランやムハンマドへの批判の自由も認めねばならない。それを認めず、ルシディー氏や五十嵐氏などへの暗殺さえ命じる宗教は、アメリカはもちろん自由の国の国民に嫌悪されるだけだ。
 グラウンド・ゼロ近くにイスラム系施設を計画したムスリムは、遺族感情に配慮すれば、広いニューヨークのどこか他の土地に移すことはいくらでも可能だろう。あえてグラウンド・ゼロに計画したから、アメリカ人の被害感情の傷に塩を塗ったのである。
 そうした繊細さを欠く人たちの行為は、今回のジョーンズ師の愚行と同じように愚行ではないだろうか。
 なおイスラムの不寛容さについては、09年8月27日付日記:「イスラム社会がどうにもなじめない:コーラン、ジハード、千夜一夜物語、アラビアン・ナイト、名誉の殺人」 を参照されたい。
 写真は、3年前の4月に行ったニューヨーク、グラウンド・ゼロの様子。

昨年の今日の日記:「なぜ性はあるのか――有性生殖の意義②:ジャガイモ飢饉、アイルランド、風と共に去りぬ、ケネディ家」