The Stone Roses/ The Stone Roses (1989) 前編 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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The Stone Roses/ The Stone Roses (1989) 

前編

 

 2つのレモンの話をします。かなり長い話になることを、あらかじめ。

 

 ひとつは、ストーン・ローゼズが1989年にリリースしたファースト・アルバム『石と薔薇』(現在の邦題は『ザ・ストーン・ローゼズ』)のジャケットを飾ったレモン。

 3枚のスライスを、ここでは1個に数えます。

 

 ローゼズのギタリストのジョン・スクワイアは美術の才にも恵まれた人で、ローゼズのアルバムやシングルのカヴァー・アートを手掛けています。

 『石と薔薇』のジャケットで、ジャクソン・ポロックふうのアクション・ペインティングにフランス国旗の赤・白・青とレモンをあしらったのもスクワイアです。2011年に名古屋までポロック展を観に行くと、入口付近にこのジャケットも展示されてありました。「影響を受けた作品」という位置付けだったのでしょう。

 1968年にフランスの学生たちが主導したデモや労働者たちのストライキ、いわゆる「五月革命」の際に、デモ側が催涙弾の威力を和らげるためにレモンを用いたそうで、『石と薔薇』の赤・白・青とレモンはこれに由来します。このカヴァー・アートにはBye Bye Badmanというタイトルが付けられており、アルバムには同名の曲が収録されています。

 『石と薔薇』の日本盤CDを発売日に買ってきて初めて再生したときの記憶は、薄っすらとしかありません。1曲目のI Wanna Be Adoredのイントロがモヤモヤと聞こえて、マニのベースが入って来た瞬間に、なぜかバウハウスとコクトー・ツインズを連想したおぼえはあるのだけど、聴き終わって衝撃を受けたというような感想は持たなかったはずです。

 なのに、1年後の私は髪を長めのマッシュルームにカットして、バギー・ジーンズを履き、指先まで袖口に隠れるパーカーを着て京都の街を歩いていました。マンチェスターのスカリーズ・ファッションを気取っていたのです。

 10月25日にローゼズの大阪でのライヴを観に行くまでは、そのような格好をして悦に入っている自分の姿を予想していませんでした。なぜなら、実際に彼らのライヴを体験する前の私は、ローゼズをザ・スミスのフォロワーのひとつとして、比較的落ち着いて受け止めていたからです。

 

 1987年の9月にスミスが解散し、その後にさまざまなバンドが「ポスト・スミス」と注目されてはスポット・ライトから消えていった延長線上に、私は同じマンチェスター出身のストーン・ローゼズの音を想像していました。

 まったくの新人バンドだったローゼズを異例の熱さで早くから紹介していたのは『ロッキング・オン』です。同誌を毎月買って隅々まで読んでいた私はその熱にあてられて、ストーン・ローゼズはアルバムが出る前から音を聴いてみたいバンドでした。
 

 スミスなき後のイギリスのロックは新しい人材を欠いた状況にあり、ウドゥントップスやプリミティブスやハウス・オヴ・ラヴやスクリーミング・ブルー・メサイアなど、いいバンドはいたのだけど、なかなかフレッシュな主役が現れない空位期だったんです。

 もしもこのストーン・ローゼズとかいう大雑把な名前のバンドがその候補なのだとしたら、きっと彼らもジョニー・マーの系譜にあるギター・サウンドを鳴らすのだろう、と私は想像しました(具体的に脳内で鳴らしていたのは、レイルウェイ・チルドレンのようなギター・ポップです)。

 実際に聴いた『石と薔薇』の印象も、当初はその予想にだいたい合っていました。スミスより率直だとは感じましたが、大きく異なる印象は持たなかったのです。

 私が買った日本盤には、イギリス盤に準じて、Elephant Stoneが3曲目に収録されていませんでした。同様に、イギリスで4ヶ月後の11月にシングル・リリースされるFool's Goldもまだボーナス・トラックとして入っているわけがありません。
 となると、その2曲のない『石と薔薇』は、60年代テイストに溢れるメロディーとコーラスがキャッチーな、フォーク・ロックとサイケデリックの型に倣ったギター中心のロックだったんです。『ロッキング・オン』では渋谷陽一が「60年代そのままじゃないか。60年代はそれだけ歴史と化したということか」という意味のレヴューを書いていて、古くからロックを聴いてきた人は全面的には肯定できないのだな、と思いました。

 

 また、ダンサブルな印象をまったくと言っていいほど受けませんでした。リリースの時点であれをロックとダンス・ミュージックのクロスオーヴァ―として聴いていた日本人は少なかったのではないでしょうか。それはレイヴ・カルチャーの情報が日本へ伝わっていなかったからでもあり、そのバックグラウンドがアルバムに反映されきっていなかったからでもあります。
 いずれにせよ、『石と薔薇』は日本ではスミス解散後のイギリスのインディ・シーンの動向に興味を持つ(おもに)若いロック・ファンに注目され、まずはそのビートリーなメロディーとサイケデリックとフォーク・ロックのテイストが歓迎されたと言えます。私も歓迎しました。


 ニューウェイヴという括りを大きく広げると、スミスはその末尾に入るし、ローゼズも人によっては仲間だと思うでしょう。

 私はニューウェイヴ──ポスト・パンクという言葉で音のイメージを痩身にしたほうがいいかもしれません──もよく聴いていましたが、その理由の一つに、自分たちが影響を受けた音楽を直接的になぞらずに、ヒネりや屈折を加えたり、あえて破壊する、という面白さがありました。

 まあ、これも一概には言えないけれど、ビートルズが好きだからビートルズに似たメロディーを作ろう、というものではなかったと思うのです。スミスもそうした姿勢を持っていました。
 

 ところが、ストーン・ローゼズは違っていました。

 渋谷陽一が半ば嘆いたように、ホントにそのまんまマンフレッド・マンのPretty Flamingoみたいなギターのストロークがあって、60年代のロックで使われたイディオムをストレートに用いています。Shoot You Downでのギターのオリエンタルな味わいはジミ・ヘンドリックスのMay This Be Loveみたいだし、Bye Bye BadmanのサビはバーズのMr. Spaceman。I Am The Resurrectionの後半で70年代のジェフ・ベックっぽい雰囲気が出てきたな、と思ったらアルバムは終わりです。
 こういう直接的なトレースが悪い意味で気になる人もいっぱいいたのでしょう。89年までのロックの歴史をリアルタイムで追ってきた人なら、なおさらの事です。
 
 しかし、私はニューウェイヴの屈折や破壊が好物だったにもかかわらず、『石と薔薇』での屈託のない60年代コピーに惹かれました。
 正確には、徐々に馴染んでいった部分も少なからずあったかもしれません。前述したように、出会い頭のインパクトはさほど大きくなかったのです。それがMade Of StoneやSugar Spun Sisterのメロディーを気に入り、She Bangs The DrumsやWaterfallのギターのリフを自分で弾いて遊んだりしているうちに、段階を踏んで初来日を楽しみに待つようになりました。
 

 そこまでのあいだに、イアン・ブラウンのヴォーカルが私の中で重要性を増していきました。

 フラフラした音程の、鼻にかかった声で歌うあのヴォーカル。声も張らないし、通常のロックのフォーマットでは主張に欠けると見なされがちな弱い歌です。
 でも、彼のあの穏やかな声が60年代ふうのメロディーに乗って「俺はみんなから憧れの目で見られたいんだ」とか「過去はきみのもの。未来は俺のものだ」などと主張すると、なんとも不思議な解放感が鼓膜を通して心を満たしていきました。モリッシーが「ぼっちテロ」なら、イアンは「囁きのアジテーション」でした。
 彼は屈折や破壊が不可避的に築いてしまった迷路を、「そんなところに入るから迷うんだ。アホらしい」とばかりに、入らずに飛び越えて90年代へと進んでいったのです。それは対象化のループに陥っていた80年代には清々しかったし、アルバム内のサイケもフォーク・ロックもレモンのように爽やかで酸っぱい香りを放っていました。
 
 
ここで、もうひとつのレモンが登場します。ローゼズが初来日した時に物販で売られていたTシャツです。白い生地にレモンがプリントされた、どうと言うことのないTシャツ。

 

 10月に最初の来日公演を大阪毎日ホールで観て感じたのは、アルバムと曲の聞こえ方がまるで異なるということでした。それはボブ・ディランのライヴでアレンジが大幅に変わるとか、アルバムよりもハードもしくはパンキッシュにドライヴする、といった違いではありません。
 ドラムのビート感がアルバムとは全く別ものでした。ドラム・セットからコンガやボンゴが鳴っているような音の様相を呈します。そのビート感はロック・ドラムのセンスではなかったんです。

 そこにジョン・スクワイアのギターとマニのベースが耳に痛い音量の衝突を起こし、奥のほうではクレッサが謎のタコ踊りを見せて、イアンは猿がマイクは食べ物ではないと学んでるような動作で、音程を外しっぱなしにして歌う。毎日ホールでは客席から「変やぞ!」と大阪らしいヤジがイアンに飛び、満場の笑いを誘いました。

 

 イアンの動きは確かに変だったとはいえ、私を含めた観客の大半はローゼズの音楽に自分たちの知っているロックとは違う体感をおぼえて驚いたり戸惑っていたのです。「変やぞ!」は、ローゼズの音楽全体に送られた反応でもありました。

 私はそういう「別もの」のビートを体感できたことに喜び、レモンの絵柄がプリントされたTシャツを買い求めたのでした。

 こちらのレモンは、会場で体験した全ての新しい匂いを放っていました。

 「アンコールには応えません」との断り書きが入口に掲げられていたこと。客入れのBGMにハウスが流れていることに驚いたこと。ライヴが始まると真っ暗なステージからサーチ・ライトがグルグルと客席を照らしだして緊張したこと。ジョンのギターが神経に障るノイズを連発して顔をしかめたこと。アルバム未収録で馴染みがなかったWhere Angels Playのサビがやけに耳に残ったこと。「変やぞ!」もそうです。

 そして、なによりもレニのドラムが、スネアのアタックの強さとキックのしなやかさと抜群のハイハットの技をもって『石と薔薇』のメロディーの数々を躍らせていたこと。私はTシャツのレモンにあのビートを重ねました。

 ジョン・レッキーのプロデュースはサイケでポップなレモンの香りや色を伝えた点で秀逸だったと思います。これは日本にいて、やがて「マッドチェスター」と称される一連の盛り上がりを現地で体験できなかった者の視点ですが、ジョン・レッキーは89年前半の時点で必要だったことを的確にクリエイティヴに行ったと評価できます。

 ローゼズの楽曲の魅力は余すところなく『石と薔薇』に表されています。とくにメロディーの良さは、89年に間に合わなかった人たちや食指が動かなかった人たちが遡って聴いても理解しやすかったでしょう。

 ホントにいい曲が満載のアルバムです。どの曲も一緒に歌えるし、Waterfallを逆回転させたバックにメロディーを付けたDon't Stopまでもが独立した輝きでキラキラとしています。

 

 たしかに、ライヴでのローゼズで浴びることができたビートの表現は抑えられています。でも、それでバンドの魅力が半減していないのが本作の凄さで、エヴァ―グリーンとして讃えられるところです。むしろ、このアルバムではリズム・パターンの豊かさと曲のメロディーが絶妙に溶け合ったバランスの良さが長所に挙げられます。

 彼らの我の強さや個性がもっと前に出ていれば、そして「五月革命」と結びつく逞しさをもっとアピールしてあれば、渋谷陽一のような世代も納得させたでしょう。

 しかし、だからこそ、レイヴはおろかクラブ・カルチャーも普及していなかった89年の日本で、「五月革命」の頃に生まれた若いロック・ファンから集めた注目を、スムーズに来日公演へと繋げられたのでした。

 
マッドチェスターなんてのはロック・ヒストリー上でもあまり重視されないムーヴメントです。イギリスのローカルな動きだったし、その終盤はアメリカでのグランジの大爆発によって撤収を余儀なくされました。

 それでも、ストーン・ローゼズの『石と薔薇』と、その後に続いたマッドチェスターは、1968年生まれの私にとってほとんど初めてのロックの(短命ではあったけれど)ムーヴメントでした。

 

 1980年に中学に入った私がちょっとずつ知恵をつけていって、高校生活ともオサラバしたし、バイトしてレコードを買うぞと意気込んだ頃には1986年。

 もちろん、それまでに起きたニュー・ロマンティックも振り返ると愛おしい季節でしたが、サイケデリック、ハード・ロック、プログレッシヴ・ロック、グラム・ロック、それにパンクもニューウェイヴの前半も、私には歴史の一部であって、自分はなんのムーヴメントも体験できなかったと、私は遅く生まれたことを恨んでおりました。スミスとその同時代のバンドには冷んやりとした感覚があったし、そもそも80年代にはムーヴメントが似合わなかったんです。チャリティー以外には。
 
 その10年間が終わろうという1989年に『石と薔薇』を聴いてローゼズのライヴを観たあたりから、ワンダー・スタッフやジーザス・ジョーンズなどの新しいバンドの音がイギリスから入ってきました。ああ、これが活字でしか読んだことがなかったムーヴメントというヤツなんだと、短命に終わるのも知らずに興奮したものです。
 じつは、89年にはリプレイスメンツもギャラクシー500もピクシーズも聴いたのだけど、『ロッキング・オン』が「今はイギリスだよ」と盛んに煽るものですから、アメリカでとんでもない事が進行しているとは気づいていませんでした。
 冷静な判断力があればグランジまで様子を見ていたのでしょうが、私は待てなかった。でも、こっちのクジを引いたことを後悔はしていません。石と薔薇の日々を過ごしたから、私はプライマル・スクリームの『スクリーマデリカ』にいたるシングル群にも反応したのだし、じつはニルヴァーナの『ネヴァーマインド』もそこに連なっていたりします。私はそれらをローゼズが開けた扉の向こうに聴いたのです。


 『石と薔薇』を聴いてから初来日までの3か月の間、そのアルバムは私の耳をサイケでポップなロックとして満足させました。
 いや、それ以外の何かを聴いてもいたような気がします。目の前の込み入った迷路を見て、「邪魔だな。ホイッ」と飛び越える痛快な音です。
 べつに自省や破壊がダメだと言っているのではないです。ロックでは特に、それが人を解放する場合もあります。ローゼズの場合は、そして私の場合は、その方法が自省や破壊のタイミングではなかったということなのです。
 その先の来日直後にFool's Goldのグラウンド・ビートが待っているとは思わなかったし、あの曲でようやくライヴでレニが叩きだしていたビートの意味を悟ったのですが、今度は『石と薔薇』の奥に耳をすませて、ライヴでの残像をそこに重ねました。イアンの歌をもっと徹底的にフラフラにして、ジョンのギターの輪郭をもっとギザギザに崩して、マニのベースの音をもっとうねらせて、レニのドラムのスネアをもっと大きくして、さらにクレッサのタコ踊りを追加して。そんなフィルターを通しても、このアルバムの瑞々しさは揺らぎませんでした。


 アルバムとライヴの2つのレモンの間で、私の嗅覚が何の匂いを探っていたのかは当時も現在も言葉で表せません。

 ただ、その匂いは日を追うごとに強まっていき、Bye Bye Badmanで歌われる「シトラスを吸い込んだ太陽の光」が眩しくも導く先には1990年が待っていました。
 

後編」へ続く


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