雑感:All For Oneのこと | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 朝、目が覚めたら枕元のスマホにストーン・ローゼズの新曲が入っていた…などという、子供の頃のクリスマス以来のサプライズ。
 金曜日から今日まで、その曲、All For Oneを繰り返し聴き、たぶん、そろそろ100回を数えようとしています。
 
 前々回の記事に書いたように、私はこの新曲をあまり気に入っていません。なのに、なぜそんなにリピートするのかというと、私自身の内なるローゼズ信者が「バカか、おまえ。わかるまでちゃんと聴け!」と圧力をかけてくるのです。
 これは私が若僧だった時分にブルースやらカントリーやらジャズやらの未知の領域に手を出して挫けそうになったとき、オッサンたちに叱られたトラウマがいまだに尾を引いているのですが、それ以上に、大好きなバンドの22年ぶりの新曲にあっさりと好悪をくだすのがイヤだ、という思い入れがあります。
 さすがにこれだけ聴くと、それなりに良さも通じてきます。じっさい、最初に聴いた時よりは慣れました。All For One、私は嫌いではありません。違和感がぬぐえないのです。
 
 ネットの評判を拾ってみると、「さすがローゼズ」「ローゼズらしい」といった賛成派、「ガッカリした」「歌詞が単純すぎる」といった否定派、に分かれているようです。
 ほかには、「期待には及ばなかったけれど、なかなかいい曲」「悪くはない」などの”擁護”的なニュアンスもあり、すべてをひっくるめて、「2016年のいま、ローゼズの新曲が聴けてうれしい!」という思いが、おおかたの共通するところではないでしょうか。
 
 こうした賛否両論は、94年のアルバム『セカンド・カミング』がリリースされたときにも起きました。
 あのときは、5年間待たされて、脳内再生がパーフェクトにできるくらいファーストを聴きこんだファンの、ファーストでのバーズっぽい「ギター・ポップ」や霞がかったサイケデリックな音像を期待していたら、セカンドはおもいっきりツェッペリンっぽくてブルージーなギター弾きまくりだった、ということへの反応でした。これが新旧もしくはジャンルによるファンの意見の対立を引き起こし、2つのアルバムをめぐる議論にはいまだにそのときの余韻が窺えます。
 
 私にとってのマンチェスター産ロックは、まずザ・スミスとニュー・オーダーでした。年齢的に、ジョイ・ディヴィジョンやドゥルッティ・コラムやア・サーテン・レシオではありません。
 ストーン・ローゼズはスミスの次に来たバンドで、スミス崩壊後のUKロックの空位期を経てローゼズが現われたときの清新な印象は今でも鮮烈におぼえています。スミスとローゼズの音楽的な志向は異なるものですが、この2つのあいだには「断」と「続」の両方を意識せずにおれません。そのことが89年に聴いたファーストをセカンド以上に特別なアルバムとして私の中で位置付けさせています。
 
 ところが、その後にオアシスという、日本ではローゼズよりも知名度をあげることになるバンドが出てきました。
 彼らはローゼズのセカンドのリリースが準備されている90年代前半に颯爽と登場し、新しいマンチェスター産ロックの顔となりました。
 オアシスのファーストを聴いたとき、私は同郷ということ以外に、ローゼズのことをまったく連想しませんでした。良い意味でガラが悪く威勢のいいオアシスは、90年で時間の停まっていたローゼズのある種デリケートなサウンドとは別ものだったからです。
 
 当時の事を思い出すと、ローゼズのイアン・ブラウンが喧嘩っぱやいとか、ニュースでいくら武勇伝を聞いてもピンと来ませんでした。ザ・スミスとの断続でいえば「続」の要素が、あの当時のローゼズの印象にはまだあったのです。
 イギリス人だからフットボールが好きなのはわかるにしても、それと彼らの「スカリーズ・ファッション」の縁なんか、89年、90年の時点では知ってはいても実感はできませんでした。それが把握できるようになったのは、マンチェスターのことをフットボールの話題でも見聞きするようになった90年代半ばです。オアシスはその頃に進撃を開始しました。
 
 こうなってくると、マンチェスターのイメージもジョイ・ディヴィジョン~スミスの頃からはかなり変わってきます。
 逆にいうと、オアシスの曲に満ちたsing along感、みんなで大合唱して明日からは仕事かぁとボヤく、あの生活感みなぎるロックンロールを先に知った人が温故知新にとスミスでも聴いたら、いったいどう思うのでしょうか。リアムが後夜祭で盛り上がるそばで、モリッシーが「百葉箱の蝶つがいでも直しているほうがマシだね」とでも言いだすようなものではないですか。
 
 しかし、私にとってのマンチェスター、「マッドチェスター」は、どちらかというとモリッシーが百葉箱の蝶つがいを直すほうに近い部分もあったのです。ローゼズが「これからはオーディエンスが主役の時代だ!」とインタビューで言い放っても、「過去はきみのもの、未来はぼくのもの」と歌っても、『セカンド・カミング』が火の出るようなブルース・ギターとグルーヴに溢れていても。
 これが私にとってのマンチェスター産ロックなんです。
 
 私が新曲All For Oneに持ってしまう違和感も、どうやらこのへんに起因するようです。
 この曲は、シンプルでキャッチーなコーラスと肯定的なメッセージ、そしてジョン・スクワイアの溌剌としたギター・リフがひたすら前を向いて、再出発のファンファーレを高らかに鳴らしています。最初はなじめなかったベースとドラムスもよく聴くと躍動感があります。
 曲のプロダクションは89年でも94年でもない、2016年のロックとして良い塩梅にエッジが利いおり、それがローゼズのポップな魅力と結びついている点は、繰り返し聴くことによって私にも納得できました。彼らが『石と薔薇』でも『セカンド・カミング』でもない音に向かっているのは伝わりますし、私もその姿勢は支持したいと思います。
 けれど、ガッチリ組んだスクラムが遠目には見えるのですが、その団結の内実が自然に音へと反映されているかとなると、そのへんは心許ない。まだ薄っぺらい気がします。
 イアンの快心のヴォーカルとジョンの爆裂するギター・ソロなどでハッとさせるところがあるとはいえ、曲調の凡庸な古めかしさは、よく言えばストレートですが、屈折した陰翳や含みには欠けます。それがないから爽快なんだと言われるかもしれないけれど、私はそこが物足りない。
 私はローゼズに「オアシスではないマンチェスター」を期待してしまうのかもしれません。
 
 これを書いているあいだに、100回目の再生は越えました。もちろん、義務感だけでこうまで繰り返し聴くことはありません。でも、こんなに「バッサリ切り捨てたくない」という気をつかうローゼズの曲は、『石と薔薇』に出会ってからの27年間で初めてです。
 『セカンド・カミング』だって、「新たに芽吹いているものが確実にある」と自信をもって肯定できたのだから…。
 

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