“マネジメント”のドラッカーが、
マネジメントの担い手の「決定的に重要」な資質として挙げたintegrity(インテグリティ)ーこの言葉の持つ意味の重要さが組織の中で問われている。
かつてこの国で数多の企業が不祥事で消えていく度に、
私はこのインテグリティという翻訳不能とも言える言葉の意味を考えさせられた。
経営者やリーダーの皆さま、
いや経営者やリーダーに限らず、一人でも部下をお持ちの方々、
「インテグリティ」をお持ちでしょうか?
ドラッカーは『現代の経営』で、次のようにインテグリティを用いている。
『経営管理者が学ぶことのできない資質、習得することができず、もともともっていなければならない資質がある。
(中略)
それは、才能ではなく真摯さである。
部下たちは、無能、無知、頼りなさ、不作法など、
ほとんどのことは許す。
しかし、真摯さの欠如だけは許さない。
真摯さに欠ける者は、いかに知識があり才気があり仕事ができようとも、組織を腐敗させる。』
ドラッカーのほぼすべての著書を訳している翻訳家の上田惇生氏は、
integrityを「真摯さ」と訳している。
『マネジメント 基本と原則 エッセンシャル版』(p147)に、
「真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。
それはまず、人事に関わる決定において象徴的に表れる。
真摯さは、とってつけるわけにはいかない。
すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。
ともに働く者、特に部下に対しては、真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。
無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。
だが、真摯さの欠如は許さない。決して許さない。
彼らはそのような者を、マネジャーに選ぶことを許さない。
真摯さの定義は難しい。
だが、マネジャーとして失格とすべき、真摯さの欠如を定義することは難しくない。
①強みよりも弱みに目を向ける者をマネジャーに任命してはならない。
できないことに気づいても、できることに目のいかないものは、やがて組織の精神を低下させる。
②何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者をマネジャーに 任命してはならない。仕事よりも人を重視することは、一種の堕落であり、やがては組織全体を堕落させる。
③真摯さよりも、頭のよさを重視する者をマネジャーに任命してはならない。そのような者は人として未熟であって、しかもその未熟さは通常なおらない。
④部下に脅威を感じる者を昇進させてはならない。そのような者は人間として弱い。
⑤自らの仕事に高い基準を設定しない者もマネジャーに任命してはならない。そのような者をマネジャーにすることは、やがてマネジメントと仕事に対するあなどりを生む。
知識もさしてなく、仕事ぶりもお粗末であって判断力や行動力が欠如していても、マネジャーとして無害なことがある。しかし、いかに知識があり、聡明であって上手に仕事をこなしても、真摯さに欠けていては組織を破壊する。組織にとってもっとも重要な資源である人間を破壊する。
組織の精神を損ない、業績を低下させる。」
とある。
この「インテグリティ」という言葉は、日本語的には高潔さ、誠実さ、真摯さと訳されるがなんかしっくりとこない。
そもそも、integrity という語形は、integer(ラテン語で、「手に触れられていない」の意味) + ity (抽象名詞を作る語尾)であり、
integer を分解すると、in- は、ラテン語において否定を表す意味があり、英語での un- に相当する。
teg- は、英語で touch に相当する意味を持ち、er は、形容詞化する語尾ということになる。
つまり、触れられていない状態、傷ついていない状態、欠けていない状態、といった原義を持っているわけである。
(VALIANT Manegement Callegeより)
これらの原義から窺えることは、「完全さ」だろうか?
確かに、触れられていない、傷ついていない、欠けていない状態というのは学んで身につく資質ではなく、
習得することのできないとなれば、もともと持っている先天的な資質となってしまう。
だが、こういう資質を有して生まれてくる天性の経営者などいるのだろうか?
しかし、私は完全だというカリスマ(「神のたまもの」)だったら・・・どうか。
人間は不完全だから謙虚になれる、
不完全だから他人の言うことに耳を傾けられる。
それは、日本人の心底には「義」があるからである。
仏教にある「自未得度先度他」(じみとくどせんどた)という『利他心』を持っているから、
企業でいえば社会的責任を負えるのではないか。
ここで「マネジメント」とは何かに返ってみる必要がある。
ドラッカーは「企業の目的は利益ではない」、「社会的な役割を果たすため」だと言っている。
だからと言って、利益なんかいらないと言っている訳ではない。
利益が出なければ企業活動を継続できない。
したがって、「利益は継続して社会の役に立つための条件」であると言う。
だから、経営者は常に利益を意識しなければいけないし、利益が出なければ会社は無くなる。
「利潤動機なるものは、的はずれであるだけでなく、害を与える。
このコンセプトゆえに、利益の本質に対する誤解と、利益に対する根深い敵意が生じている。
この誤解と敵意こそ、現代社会における危険な病原菌である。
(中略)利益と社会貢献は対立するとの謬見さえ生まれている。」
(「マネジメント」)
日本にはこういう教えのあることに気がつかなければならない。
『義と利
「義は利の本なり、利は義の和なり」(春秋左氏伝)
「利に放(よ)りて行えば怨み多し」(論語/里仁)
天は義を欲し、不義を憎む。
義あらば進歩あり富むが、義なくば貧する。
義あらば平和なるも、義なくば乱れ滅びる。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」
心ある人は、どうしてもこの「義に喩る」ということが大事であります。
利ということばかりを考えておっては、遂に利になりません。
利によって行なえば、まさに怨が多い。
そういいながら、そう知りながら、人間始終悩まされておるのは経済であります。
そして、この経済ということになりますと、
わかっておるはずの人でも不思議なほど利己的であり、排他的・競争的になりやすい。
道徳などといっておっては、義などといっておっては経済にならぬ、利にならぬ。
礼節などは衣食足って後の話だ。
飯が食えなくて何の教養も文化もあるか
ーーいわず語らず決めこんでおるのが、常人の心理であります。
政策にしても、まず予算の分捕り合い。
予算がないというと、大切な政策も軽く排除されがちであります。
それほど経済優先主義で、誰もが富裕なのかというと、
いつになっても貧乏を嘆かぬことがありません。
それは 経済というものも人生の重要部門でありますが、
決して孤立的に行なわれるものではなくて、
経済を左右するものは案外道徳である、
義であるというような理法・原理・原則に対して、
非常に無知なためであります。』
(安岡正篤)
義とは、人が人としてあることの美しさよ。(上杉謙信)
インテグリティとは「ただしい」ということかも知れない。