道元のブログ

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ものの見方・考え方そして生き方に関すること。

現代日本におけるリーダーのあり方
一 人間としての佇まいが消えた 一
現代の日本社会を見渡すとき、私たちはある種の「飢え」を抱えてはいないでしょうか。
それは、言葉の豊かさや、情報の速さ、あるいは洗練されたパフォーマンスへの飢えではありません。
私たちが切実に求めているもの。それは、指導者たちの根底にあるはずの「人間としての佇まい(たたずまい)」です。
いつからか、私たちの社会のリーダー像は、いかに自分を大きく見せるか、いかにSNSで瞬発的な支持を集めるかという「自己演出」に偏りすぎてはいないでしょうか。しかし、私たちが本当に心を動かされ、信頼を寄せるのは、そうした表面的な技術(テクニック)ではありません。ただそこにいるだけで、言葉を超えて周囲に安心感と品格を与える、あの静かな「佇まいの美しさ」です。
では、現代において失われつつある「人間としての佇まい」とは、一体どこから生まれるものなのでしょうか。
一、 「才」を統べる「徳」という背骨
中国の古典『菜根譚』に、「才は徳の奴(め)なり、徳は才の主なり」という言葉があります。
才能や知力、政治的手腕といった「才」は、人間の道具(召使い)にすぎず、それを正しく使いこなす主人は「人格(徳)」であるという意味です。
現代のリーダーシップは、この主従関係が逆転しているように思えてなりません。「才」というパフォーマンスが暴走し、それをコントロールすべき「徳」という背骨が見えなくなっているのです。
優れた佇まいとは、決していわゆるマナー講座で教えてもらえるような、外付けの作法ではありません。「自分を良く見せたい」という驕りを捨て、人間としての恥ずかしさを知り、自らを厳しく律する。そのようにして内面に蓄積された「徳」が、器から溢れるようにして、黙っていてもジワジワと周囲に滲み出てくるもの。それこそが、佇まいの正体です。
二、 欺くことのできない「インテグリティ」
西洋に目を向ければ、ピーター・ドラッカーは指導者に最も必要な資質として「インテグリティ(真摯さ・誠実さ)」を挙げました。そして彼は、「インテグリティは後から学ぶことはできない。身についていなければ、はじめからおしまいである」と断言しています。
インテグリティとは、他者に対して、そして自分自身の職責に対して「嘘がない」ということです。
目の前に生身の人間(あるいは国を代表する要人)がいる場で、手元の画面に没頭する。あるいは、内々の信義を無視して自分の成果だけを外部にアピールする。そこにあるのは、相手への敬意の欠如であり、自身の役割に対する真摯さの欠如です。
周囲の人間は、リーダーの発する美辞麗句ではなく、その一瞬の着座姿勢、握手の交わし方、視線の配り方から、その人の「真摯さ」を無意識の内に見抜いています。佇まいとは、どれだけ取り繕っても隠すことのできない、その人の「生き方そのものの告白」なのです。
三、 「他者への想像力」という日本の美徳
かつて日本人が大切にしてきた佇まいの根底には、徹底的な「他者への想像力」がありました。
自分の都合や快適さを優先させるのではなく、相手の立場を慮(おもんぱか)り、その場の調和(和)を重んじる。己を一歩退かせる慎み深さの中にこそ、凛とした品格が宿っていました。
今、私たちが目にするのは、他者への無関心が招く「怠惰な不敬」か、あるいは自己顕示が招く「過剰なアプローチ」のどちらかです。しかし、真に力のある佇まいとは、そのどちらでもありません。過度な自己主張を消し去った後に残る、静かで、安定した、揺るぎない存在感です。
結びにかえて:私たち自身の「身持ち」を正す
「人間としての佇まいが消えた」とリーダーを糾弾することは容易です。しかし、この問いは巡り巡って、私たち一人ひとりの生き方にも突きつけられています。
私たちは日々、目の前の人と誠実に向き合っているでしょうか。
言葉の多さや効率性だけに囚われ、内面を磨くことを忘れてはいないでしょうか。
佇まいとは、一朝一夕には作られません。だからこそ美しいのです。
現代という騒がしい時代だからこそ、私たちは今一度、東洋の「徳」と西洋の「インテグリティ」に立ち返り、言葉を介さずとも信頼を紡ぎ出せるような、凛とした「身持ち」を自らの暮らしの中に静かに取り戻していきたいものです。