仮面を被って生きる私たちへ――日常に潜む「人間性の末期」と、己事究明のすすめ
私たちは、一体いつまで「仮面」を被って生き続けるのだろうか。
政治の世界を見渡せば、党利党略や組織の論理というゲームに最適化され、自分の頭で考え、自分の心で痛むことを放棄した大人たちが溢れている。
しかしこれは、決して政治家という特殊な人種だけの間違えではない。私たちの日常、つまり会社や地域、SNS、日々の生活の至る所に、同じ病理が潜んでいるのではないだろうか。
社会のシステムが複雑になり、多様な現実が交錯する現代において、「何が正しいのか、どうすればいいのか」は誰にも分からない。
すべてを見通せる人間など存在しない。だからこそ、私たちは互いの限界を認め、言葉を尽くして対話するはずだった。
しかし今の社会は、その「分かり合えなさに向き合う煩わしさ」をあっさりと放棄し、思考停止や冷笑主義、あるいは「上からの指示や世間の空気に従う方が楽だ」という自己保身に流されている。
関心を持たなくても、自分の生活はそれなりに回っていく。だがその影で、生活もおぼつかない誰かが確かに存在している。
その非対称性から目を背け、自分の良心に麻酔をかけて生きる。それは知識がないという意味の「バカ」ではなく、人間としての恥の感覚や、他者の痛みを感じるセンサーを麻痺させて平然としているという意味での、「つける薬のない状態」なのだと思う。
自分にウソをつき、自分の良心を裏切ることに慣れきってしまった人間は、他者に対しても、社会に対しても、平気でウソをつくようになる。
そこに「人間としての恥ずかしさ」という感性感情が1ミリでも残っていなければ、私たちはもはや人間として生きているとは言えないのではないか。
では、このシステムとして「末期」を迎えたような世界で、私たちはどこから出発すればいいのだろう。
答えは、驚くほど簡単で、そしてこれ以上なく重い。
一分でもいい、ただ坐す(ざす)ことだ。
「無になれ」ということではない。静かに目を閉じ、自分の内奥を見つめたとき、そこに去来するものは何だろうか。
自分が傷つきたくない、損をしたくないという「保身」なのか。それとも、他者の痛みに寄り添おうとする「利他」なのか。
そのとき湧き上がってきた剥き出しの感慨こそが、他ならぬ「自分」という存在そのものである。
仏教の言葉に「己事究明(こじきゅうめい)」という歪みのない教えがある。己とは何者か、自分は今どう生きているのかを徹底的に突き詰めること。
この自問自答、人間としての土台を築く営みがあって初めて、私たちは自分の人生の、あるいは社会の、真の主体になれる。
社会の喧騒や、誰かが作った分かりやすい正論、あるいは冷めきった無関心に流されそうになるとき。
私たちは一度立ち止まり、仮面を脱いで、ただ坐らなければならない。
自分自身にウソを突き通す生き方をやめ、内なる良心と対峙すること。それだけが、この時代において、私たちが「人間」であり続けるための唯一の砦(とりで)なのだろう。