人間の脳には3つの基本プログラムがある。
一つは「空白」を埋めようとするはたらきである。
どこかの街角ですれ違った人を見て、
「アレッー、どこかで会った人だなぁ、ウーン誰だっけ?」
家に着いても必死に思い出そうとする。
「わからない」ということを知ろうとしたり、
または、自分勝手に解釈して納得させてしまうはたらきが脳にはある。
「質問」という行為は、まさに意図的に相手の脳に空白をつくり、
答え(気づき)を導き出そうとする、「質問力」というすごい力を持っている。
二つ目のはたらきは、脳は同時に二つ以上の仕事が苦手である。
一つの仕事が終わらないうちに、「コレやって!」、
無理や!、集中力を欠くときとはこんなときである。
マルチタスクはディスプレー上でのこと。
焦点化の原則という。
見たいものしか見えない、
焦点のあたっているものしか気づかないし見えない、ということ。
「ハーイ、みなさんこちらに注目してくださぁーい!」
聞こえなかった人だけがよそ見をしている。
三つ目は、脳は苦しみや痛みを避け、「快」を求めるというもの。
自分に不快な思いをさせた人は避けたい、
一度味わった苦しみからは逃げたいものである。
私たちは自分の脳なのにどう取り扱ったらいいのかが分からず、
脳の勝手気ままさに操られ、悩まされ続けている。
自分の脳は自分の幸せのために使う道具、心もだが、使いこなそう。
そう思ったら「脳科学」「心理学」の本が先生となり、
新しい発見で"人間というもの"により興味がわいてきたのもいいが、
先生が多すぎて積読になりそうなのである。
『世界で通用する人がいつもやっていること』、
脳科学者の中野信子さんの本である。
その中に、「誰かのためになることをする人は、快感を得られる」という一節がある。
かつて、禅に初めて出会ったころ、
「自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心をもたなくてはならない」という教えを知った。
自分が先に渡るのではなく、他人を渡そう、という意味であるが、実に深い意味がある。
人間はだれも自分がかわいい。
自分の利益を度外視してまで、他人のために尽くことは並大抵のことではない。
凡人だから、自分のためになることを追求しよう、だが、それがイコール他人のためになるようなことだったら天も許してくれるだろう。
自利が利他になるように生きられたらいい、そして、「自未得度先度他」を銘としよう。
禅を通して、そんな風に考えることにしている。
同じく中野信子さんの『脳科学からみた「祈り」』という本には、
「配慮範囲」という尺度がでてくる。
運の良い人、悪い人の差は、その人が配慮できる範囲で決まってくるというもの。
京大の藤井聡教授の「他人に配慮できる人は運がいい」という論文から、
「認知的焦点化理論」で「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、
その人の運の良し悪しが決まってくるという。
その研究では「利己的な傾向を持つ人々の方が、
そうでない人よりも主観的な幸福感が低い」、
「利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、
周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い」、
という結果が示されている。
また、「配慮範囲」には「関係軸」と「時間軸」があり、
自分から離れれば離れるほど、範囲が大きく広くなるという。
利己的で自分のことしか考えず、目先の損得にしか関心がない人は配慮範囲が狭い。
逆に、他人(関係軸)や遠い将来(時間軸)のことまで思いを馳せることができる人は、
配慮範囲が広い。ひとつの分かりやすい尺度である。
人間の脳が快を求めるなら、
配慮範囲の広狭はその人が自ら選んだ結果のことである。
結果の責任はもちろん他人ではなく、自分にある。
人間の運(の良し悪し)というものは、
『陰隲録(いんしつろく)』袁了凡(えんりょうぼん)の教えにあるように、
「禍福は人間の力ではどうすることもできない天の命ずるところである」のではなく、
謙虚さや積善、改過という道徳的精進によって、
人としての本質を追究すればこそ実現されるものであると、私は思っている。
そういう意味では、配慮範囲を大きく広くしていくということは、
人間としての本質的価値である徳性を養う意味にも通じるものである。
自分のこころを磨き高めることで運は運ばれてくる。