3月です。

あれから1年がたつとは・・・。

 

心に残した深い爪痕。

 

事を受け入れるまでには、

長い長い時間が必要でした。

 

苦しくて苦しくて。

 

 

そんな渦中

 

2011年7月、雑誌に掲載された

白取春彦さんの『超訳 般若心経』

 

この文章に助けられました。

 

 

 

全文読んでいただきたいのですが、

ここでは抜粋して、ご紹介させていただきます。

 

かおりのやすらぎブログ

    

『超訳 般若心経』

より抜粋

 

翻訳:白取春彦

 

 

<抜粋>

 

そこに見えているのは人間か。

そこにあるのは物か。

おまえの眼に映るものは何か。

見えているものが

人であろうが物であろうが、

さらによく、見つめよ。

それがつまらなく感じるまで、

他の瑣末(さまつ)なものと

見分けがつかなくなるほどに見つめよ。

それが人か物か

わからなくなるまで見つめよ。

 

さあ、どうだ。

何か起きたか。

何も起きない。

心が動いたか。

いや、

心はかえって静かになり、

今では心すら無い状態だ。

見えているものは何か。

人であろうが物であろうが、

そこにあるものは、

大きくも小さくもない。

強くもない。

ただ、

それはそこにあるものでしかない。

あたかも、そこにあるかのように

自分の目に映るものでしかない。

 

だのに、

なぜ今までそれをおまえは怖れていたのか。

利害からか。 妄想からか。

憎しみからか。 愛着からか。

思い出からか。 想像からか。

金の有無からか。

それをも見つめよ。

 

自分の心を

まるで過去の汚れた遺物を

調査するかのように見つめよ。

逃げずに見つめよ。

 

見つめれば、もう静かにわかるはずだ。

本当は何もなかったということが。

 

見えるものと自分の心を勝手につなげて

気持ちをいたずらに動かしていたということを。

 

自分が損得や勝ち負けにこだわっていたから

焦りや感情に縛られていたということを。

 

見えるものすべてを

自分のくだらない自尊心の物差しで はかっては

勝手に評価や判断をしていたということを。

 

すべてを自分のものだと思い込む

利欲の根性に染まっていたということを。

 

つまるところ、

自分が卑しかったということを。

 

だから、そういう自分のすべてを捨てろ。

気持ちまでも捨てろ。

そして、

自分というものの

いっさいがっさいを捨て去れ。

 

ただ、命だけは残しておけ。

 

・・・・・・・
 

 

白取春彦(1954年  - )評論家、翻訳家
主な著書に、2012年にミリオンセラーとなった『超訳ニーチェの言葉』、『仏教「超」入門』ほか多数。
「超訳 般若心経」は雑誌『日経おとなのOFF』2011年7月号に掲載される

 

 

香薬のあじわい

 

 

 

破格の出来事

 

どう受け取っていいのか分からないこと

を消化するために、

ひとは哲学をするのではないでしょうか。

 

既成概念では、あてはめきれず

 

 

でも、受け取らなければならない現実を

 

最終的におさめるのには、

この詩に書いてあることしかありませんでした。

 

『見えるものと自分の心を勝手につなげて

 気持ちをいたずらに動かしていた

 ということを。』

 

神様に選ばれたか、選ばれなかったかの違い。

 

 

最終的には、

そう思わなくては納得できなかった。

 

 

きっと、

これから先も力強く生き続けるためには

 

あった出来事さえも執着しないこととして、

『捨て去る』ことが必要なのでしょう。

 

人間はうまくできている。

 

 

忘れること

 

慣れること

 

これがそなわっているから、

どんな時も生きていける。

 

 

最終手段であり最強手段。

 

 

この手段しかないなんて、

 

そんなことが人生にはあるのですね。

 

 

 

『心の香薬』もくじ