Issay's Essay -6ページ目

中世のふるさと2 -長門国前史1-

730 忌宮神社と豊浦皇居址の碑

 神話のころだが、景行天皇は長門地方に穴門国造(あなとのくにみやつこ)と阿武国造を任命したとある。(西暦80年のころだが、すでに本州西の果てまで(下関地方)大和政権下にあったことを意味する)
 下関に関わる伝説として見逃せないのは、仲哀天皇が熊襲平定のため。「豊浦の宮」を現在の忌宮神社境内に建て政務をとった(仲哀2年=193)。天皇は筑紫(香椎)で病没したため、神功皇后は遺骸を豊浦宮に残して新羅に出兵。戦後、天皇の霊をこの地に祀っり、ひつぎは大和に帰った。(忌宮神社には、その後、聖武天皇の時代に神功皇后を、また応神天皇も祀られた)
 神功皇后が三韓出兵の時、表筒男、中筒男、底筒男の託宣で、三神の和魂は皇后にそって寿命を守り、荒魂は出兵の先鋒となって船を導き勝利を得させるというもの。皇后は託宣どおり凱旋を得て、穴門の山田邑に三神様を祀った(仲哀9年=200)のが現在の一の宮住吉神社である。
 また秦の始皇帝11代の孫・功満王が帰化した際に、仲哀天皇に蚕種を献上した(仲哀4)などの伝説がある。欽明天皇の時代(561年)新羅国の使いが難波から船で穴門に帰ったとき穴門館という建物が修理された。つまり、臨門駅を設けて外国人をもてなす穴門館(後の臨海館)も設置されていたと伝えられている。
 推古天皇19年(611)には、百済の琳聖太子が日本に帰化して、永福寺、福生寺(専念寺)を開いたとある。
 古代と呼ばれるこのころに、大化の改新(大化元=645)があり、国郡制により穴門・阿武の2国を合わせて長門国とし「国府を豊浦(現在の長府)」に、国司には草壁連醜経(くさかべのむらじしこふ)が派遣された(大化2)。
 この国司が、厚狭で捕獲した白い雉を朝廷に献上したところ「めでたい」として年号を「白雉」と改め、長門の国は産物を治める調役を三年間免除とされた(白雉元=650)。
 そのあと、朝鮮半島の新羅は中国(唐)と共に、百済と百済救護に出兵した日本のとの連合軍の戦いが白村江で戦われ、唐の水軍に敗れて百済は滅亡した(天智2年=663)。この敗戦で、天智天皇は唐・新羅軍の侵攻を心配して、早速太宰府に城を築づき、長門にも、筑紫に続き城を築いた(天智9=670)と言われているが、長門ではその城の場所が確定されていない。
 壬申の乱(天智天皇の死後、大友皇子を擁する近江朝廷に対し大海人皇子が起こした反乱=672)で、大友皇子は自殺し、大海人皇子が飛鳥浄御原宮に即位して40代天武天皇となった。41代持統天皇のとき飛鳥から藤原京、次の42代文武天皇のとき大宝律令の撰定。そして43代元明天皇は元号を和同と改元した。
 写真は忌宮神社と豊浦皇居址の碑

中世のふるさと1 -シリーズの切掛け-

729 下関市火の山からの関門海峡

 昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本家三谷幸喜)は、中世の初め平氏から源氏に移行して鎌倉幕府成立、いわゆる藤原氏を中心とした貴族が権力を握っていた時代から武士が支配する封建制度に変わる頃が舞台でドラマの主人公は北条義時だった。
 北条と言えば、西国では元寇を思い浮かべるがドラマはここまで進行しなかった。
 その時代に、下関の支配者たちはどうだったのか『下関市史年表』を繰ってみると、記述はまことに少ない。
 本州の最西端にある下関は、南東部が関門海峡を隔てて九州が間近にある。海峡は西の玄界灘から朝鮮半島、中国大陸に広がり、内陸と大陸とを結ぶ交通の要衝として船舶の寄港地でもあった。
 下関については『日本書紀』や『古事記』に「穴戸」「穴門」と書かれた地名あり、ほかに赤間(赤目)・赤間関(赤馬関)・関・馬関などとも称されたが、貞観11年(869)9月27日付の太政官符には、すでに下関とあるという。
 下関は、その地理的条件から、いわゆる縄文時代や弥生時代には朝鮮半島や中国あたりから人の渡来があり、多くの遺跡が存在して、発掘された甕や壺などの土器や石器、祭具、土笛、人面、植物や動物の骨などの遺品や遺構などから、その家族や集落を形成した生活文化も確認されている。
 昨年、延行の仁馬山古墳が新下関の落合新橋あたりからその姿がはっきりと見えるようになったが、この古墳時代(3世紀末~7世紀頃)に国内の文化は発達して国家成立の動きがあった。
 これ以前の、いわゆる神代というか仲哀天皇などこの地とかかわりのある天皇にしても生没年や在位など不明瞭であるし、大化の改新(36代孝徳天皇)あるいは「壬申の乱」が終わった第40代天武天皇のころようやく古代を抜けるが、そのころが古墳時代末期であり、大和の豪族らが勢力争いをしながらも政権を保ち、そして東アジアとの交流、律令国家へと地方の豪族を傘下に利用しながら発展させていたのであろう。
 この間、遣隋使・遣唐使などの航路で瀬戸内海が利用され、関門海峡のある穴門(長門)には、山陽道最終の臨門駅に外国人接待のために設けた「穴門館」という駅館があったというのだが、その遺跡はいまだにはっきりしていない。
 そこで年表では、あまりにも少ない事実を少しふり返ってみたいと思った。
 とはいっても郷土史家でもない私は、たいそうな文献を探るわけでもなく、手持ちの本(例えば、下関市教育委員会発行の本や、山口県や下関市のことなどが掲載された百科事典や地名辞典、伝説や小説など)から「中世前期のふるさとの歴史」をみることにして、その時代の事跡に接したとき自分が納得できればとの思いで「受け売り・拾い読み」のような「メモ書き」をすることにした。
 さて、どれほど続くことか、或いは大内興亡になるかとも思っている。
 写真は下関市火の山からの関門海峡

旅の記念品35 -波のり鯨-

728 生月町博物館の捕鯨展示コーナーと「平戸波のり鯨」

 昭和30年代、下関の漁港に活気があったころ、造船、船具、魚函など市内の水産漁業関連業者も活気があった。ふと、漁網会社の方が「生月(いきつき)に行って来た」と言われ『平戸・生月』を意識し、それが長崎県であることを知った。
 長崎県北西部、平戸藩松浦氏の城下町・平戸は島である。鎖国前は中国・ポルトガル・オランダとの国際貿易港、平戸の名前はヒラドツツジで有名だった。
 昭和52年(1977)に、全長665m幅10.7mのトラス吊り橋構造で深紅の大橋が九州本土と田平地区に渡され、さらに平成3年(1991)平戸島から長さ960m、幅6.5mのスカイブルーの生月大橋が架けられた。ずいぶん後の架橋だから、当時は船で渡ったであろう「生月に行って来た」と言われた実感を、私は後になって感じた次第である。
 私が、最初に平戸に行ったきっかけは吉田松陰である。彼が、藩の許しを得て旅立ったのは嘉永3年(1850)8月25日、21歳で、最初の第一歩が「九州遊学」の平戸行で『西遊日記』の冒頭に「心はもともと活きている、活きているから、何か物事に接すると触発され、心は感じ始める。こうして啓発されるから旅は有益である」(要約)とあった。
 平戸を訪ねたとき、生月は隠れキリシタンの集落があり、旧藩政時代は西海捕鯨随一の島であることも知った。その後もしばしば平戸・生月を訪ねたものである。
 ここでは、生月の捕鯨について記してみたい。
 縄文時代の遺跡に石銛などがあって捕鯨の行われたことは推測できるが、専門的な捕鯨を始めたのは、紀州から伝わった鯨組の組織であり、生月では享保10年(1725)から館浦の田中長太夫と畳屋又座衛門正勝の共同経営の鯨組による突き取り捕鯨が始まりと言われている。田中が経営を引いたのちに、漁場は島北端の御崎に移され、網掛け突き取り捕鯨を採用して軌道に乗り、畳屋氏は平戸の殿様から益冨の姓を頂いた。
 その益冨組は、壱岐を始め西海各地の漁場に進出して繁栄、発展を続けた。益冨組が享保10年から明治6年(1873)までに捕獲した鯨は21,970頭、収益は332万両、最盛期には3千人以上の人々が働いていたという。
 網組の捕鯨が終わっても、沿岸では細々と銃殺捕鯨が続けられていたが、明治時代の終わりには共同経営・共販体制をいち早く確立して漁業経営を順調に伸ばした。
 イワシ不調のときはアジ・サバ大型巾着網に転向して東シナ海から日本海まで出漁し大量の漁獲量を誇った。
 生月大橋を渡ってすぐ近くに平戸市生月町博物館・島の館があり1階展示室中央に大きく江戸時代の捕鯨の様子をジオラマ展示し、空中には10mもあるミンククジラとツチクジラの骨格があり、ほかに二階展示室には島の暮らし、隠れキリシタンなど注目する展示物が並ぶ。島の自然の見どころは塩俵の断崖などもあるが、生月魚籃観音(基壇3m、像高18m、重量150トン、昭和55年4月29日建立)は、世界平和と海難者魚介類の霊を追悼し、漁船の航海安全を祈念するために建立されている。
 記念品は、マッコウクジラをデザインしたものであろうか?何時何処で求めたかの記憶もないが小さなもので「平戸波のり鯨」と書かれて、ケースの片隅に置かれていた。和歌山の太地、佐賀県唐津と共に古式捕鯨を思い出させる記念品である。 
 写真は生月町博物館の捕鯨展示コーナーと「平戸波のり鯨」