中世のふるさと5 -大内氏の出自-
「大内」を広辞苑で見れば「室町時代周防長門および豊前の守護大名。古くは周防の在庁官人で多々良氏を称。」とあり、琳聖太子は出ていない。
ところで、大内氏が渡来系民族と最初に公言したのは第25代大内義弘のときで、戦国時代の貴族の系図に発想したであろう。その弟26代・盛見も「琳聖太子の末裔」だと主張し始めたのは、対鮮貿易を有利に展開しようとするものだった。
(ここで、第25代とあるのは琳聖太子を初代とした大内氏系図による)
百済の国王・聖明王の第三子・琳聖太子は、すでに前史で「推古19年(611)に下関の永福寺と専念寺を開いた」と触れたが、太子は周防国多々良浜に上陸しその地名に因んで「多々良(多々良は製鉄技術を意味する)」を名乗り周防国大内村に居住した。
下松の地名伝説に「推古天皇17年に鷲頭庄青柳浦の松樹に大きな星がかかり‥これは異国の太子が日本に来臨するにあたり北辰が太子を護降臨した。‥3年後、琳聖太子が来朝」という降松神社の由来だが、防府に太子帰朝の因縁と関連して面白い。
また防府市高井に所在する大日古墳(史跡=前方後円墳・全長約45m、前方部幅約20m、後円部の径約19m、横穴式石室をもつ。県内唯一の家形石棺を持つ古墳として注目されている)は、琳聖太子の墓と伝えられている。
また山口市大内御堀の乗福寺境内後方には琳聖太子供養塔という13重の石塔があるが、大日古墳とともに太子の実在を証する史料がないというのも哀れである。
周防国府の記録で、弘仁13年(822)には、帳簿の書手14人、紙筆墨を作る者47人、武器を作る者61人、雑役200人、国博士、医師、学生30人、医生6人が居たなどとあり国衙のなかには役人500名、家族を合わせれば2千人を超えたと推定されている。
こうした、在庁官人で地方の豪族もその職を世襲し仁平2年(1152)の史料に、多々良3名・賀陽2名・矢田部・日置など、そして正治2年(1200)には権介多々良弘盛(第17代)が筆頭に大原・土師・中原・大江・佐波・矢田部・賀陽・日置氏などの名が見える。
もっぱら多々良姓を名乗っていたこの一族が大内介(おおうちのすけ)と称したのは第16代・盛房のときからだが、官名は変わっていないようだ。
このころ、源平両氏最期の戦場となる壇之浦の合戦になる前に、盛房には源氏方に味方するわけがあった。それは、周防国大内介としての盛房が清盛の怒りをかったのか、盛房は常陸国、その子弘盛は下野国、その弟鷲頭盛安は伊豆国に流され、その後治承2年(1178)の大赦令で許され国元に帰ったが、ひそかに平氏への憎しみを抱いていたであろう。義経の西下を知って源氏への加勢を決めた。
写真は、琳聖太子と伝えられる墓(大日古墳=右)と供養塔(乗福寺十三重塔)
中世のふるさと4 -国府の成立と執務-
中世への流れのなかで、長門における古代からの事績として国や国衙(こくが=国府)、神社、寺院、そして和同開珎鋳銭所などのことを書いてみたが、もう一度防長両国成立を振り返っておきたい。
景行・仲哀天皇、あるいは神功皇后に関する実在性はともかく、熊襲征伐、新羅への出兵などの伝説は、防長が本州最西端地であり、大和政権にとっては重要な場所であったに違いはない。国造(くにのみやつこ)という地方行政官が各地の首長に任命され地域を管掌、貢納(こうのう)などの義務が課せられた。
七世紀半ば、律令制が成立し地方には国郡里制が施行され、長門国(厚狭・豊浦・美祢・大津・阿武の5郡)、周防国(大島・熊毛・都濃・佐波・吉敷・玖珂の6郡)が出来て、都から派遣された国司が司る中央集権的な支配が行われるようになった。郡の中には里があり里はのちに郷と改まった。
国司は、長官の守(かみ)のほかに掾(じょう)・目(さかん)各1名と史生(ししょう)の3人からなっていて、周防国ではのちに目1人と次官になる介(すけ)が置かれた。これら官人の仕事は国府において行われるので、そこでは現地採用の在庁官人や雑役夫が相当数あったと思われる(現在の役所と同様)。
このような国司が執務する政庁を中心に国府が形成され、防府が周防国府、長府が長門国府、それぞれ地名の由来となっている。
執務は、一般民政から司法さらには軍事まで多岐にわたり、防府国府は方8町(東西約868m、南北約850m)の府域北部中央に、方2町(東西215m、南北216m)の国庁が置かれた。現在、防府市国衙・多々良・総社・警固・勝間町に広く国府の跡が保存され昭和12年(1937)に史跡指定されている。
また長門国府は、下関市長府の忌宮神社付近と推定されているが、具体的な位置などの解明はできていない。
昔々、「租庸調(そ・よう・ちょう)」というのを習ったことがあるが、律令制時代の一般農民には様々な課役が課せられた。田の収益、戸ごと、成人男女の人頭税、産物税、あるいは歳役の代納物などである。例えば、綿・塩・糸・アワビ・米・紙・椿油・ごま油・鹿皮、銅なども‥角島に万葉碑があるが和海藻(にぎめ=わかめ)を貢進した木簡も発見されている。
その頃からすでに、統制社会、税金を搾り取られる制度があったとは‥持ちつ持たれつはいいけれど、飢饉の苦しみを想像するのはつらい・・・・。
写真は防府市に残る史跡「周防国衙跡」
旅の記念品37 -飛騨の切り絵-
白川郷から五箇山、八尾、古川、高山などと訪ねたことがある。
ふと「下関でしょう、遠い九州からようこそ」と言われた。それも、各所である。かれこれ25年ばかり前のことだが、そのとき自分自身その場所が岐阜県か富山県かも曖昧だったことに気づいた。また、古川町の隣・国府町で「下関といえば長門ですから安国寺は宇部の東隆寺ですよね、下関にとまった宿で土笛を買いましたよ」といわれ思わず驚き嬉しかったこともある。最近はクロアチア情勢が連日流れているが、ロシアが進攻した1年前は、それがどこに位置しているかさえ気が付かなかった。
その旅は八尾の「風の盆」が目的だったが、天領の高山とその周辺に興味もあって、古川の町にも立ち寄った。
古川町は、当時は岐阜県吉城郡で平成16年(2004)周辺町村合併で、飛騨市の一部になっているが、訪ねたときは面積約100km2(平方キロメートル)、人口1万6千人位だっただろうか。
天正13年(1585)羽柴秀吉の佐々成政攻めに伴って飛騨に入った金森長近が、翌天正14年(1586)に増島城を築き、養子の金森可重を城主として軍事行政の中心とした。町割りは高山に模して碁盤目状に、その後一国一城令で廃城、元禄5年(1692)に6代藩主・金森頼時が出羽国に入封後、飛騨古川は天領となったが、城下町の機能はそのまま、飛騨街道の要衝として栄えた。
古川町に着いたとき、目についたのは「飛騨古川まつり会館」だった。古川祭りは、気多若宮神社の例祭で、4月に9台の屋台が提灯をともして曳かれる重要無形文化財であり、会館にはその歴史資料や神輿、屋台も展示され、フロアーの中央にはからくり人形の仕組みを実演できるコーナーと、『起し太鼓』の迫力を再現する別館の立体映像ホールもあった。
入館者がかなりあって、ここの主任さんの案内があまりにも熱心なのに驚いた。小さな農業中心の町なのに観光への情熱は「古川やんちゃ祭り」さながらの情熱とパワーを見せつけられた思いだった。
そのまま、白壁土蔵群に添う水路にコイが泳ぐ小路を歩き、出格子の商家が続く街並みを散策、ここで和ろうそくの三嶋ろうそく店を覗くと、明和年間(1764~1772)創業と聞いた。店頭に「遂に来たぞ」と書かれた色紙があって、なんと故・土門拳(写真家)のサインがあって嬉しくなった。蒲酒造場は宝永元年(1704)の創業である。
切り絵工房ではカッターナイフで一生懸命に作品を作っている姿を見た。飛騨の切り絵は、成程、飛騨の匠にも似た根性を感じる実感があって、このとき記念品を購入した。B5サイズ、ノート程のプリントで、絵ハガキ代わりという『古川百景』の3枚である。
ところで、古川を歩いているとき大きなお寺の向こうで、少女2体のブロンズ像とそばに文学碑を見かけた。「二月のなかば過ぎると/信州のキカヤに向う娘たちが/ぞくぞくと古川の町へ/集まってきます/みんな髪は桃割れに/風呂敷づつみをけさがけにして/「トッツァマカカマ達者でナ」/それはまるで遠足にでも/出かける様に元気に/行ったのでございます」最後に小さく「野麦峠より」とあった。
それは山本茂美著『あゝ野麦峠』の一説で、“製糸工場の奴隷的労働、そこで病を得て兄に背をわれて故郷に帰る途中「あー飛騨が見える」と言って死んでいった少女”の何時か見た映画『あゝ野麦峠』の悲しい場面を思い出した。そういえば『キュウポラのある町』の原作者・早船ちよの出身もこの古川だったとそのときに聞いた。
高山や古川の祭り屋台を作り上げた、飛騨の匠の技術は、律令時代から庸・調の税が免じられた頃から人材派遣で、薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺などと神社仏閣の建立にかかわった。飛騨の多彩な木材を活かす木工集団は、雪国にはぐくまれた祭りのパッションにもみられる。過酷な山国に、明治時代の経済を支えた製糸工場などの産業もこの熱情によるものであったか、緻密な切り絵の記念品は、飛騨古川の匠と悲しき少女を偲ばれるものだった。
写真は土蔵群に添う小路と古川祭りの飛騨の切り絵と製糸工場に向かう少女の銅像


