旅の記念品36 -近江八幡のヨシ工芸品-
今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』が始まって、普通に見ているが、天下布武の信長のイメージも、狂気ともいえる残忍性があり、ドラマがどのように展開するだろうか。その信長に関係して色あせたヨシの壁掛けが目につき、四半世紀も前に湖東三山から安土城跡、近江商人の町や彦根城などを巡った情景を思い浮かべた。
安土城は、天正4年(1576)正月に、織田信長が丹羽長秀を総奉行として築城に掛かり約3年で完成。標高199mの山頂に、外見は5層で実質7階、総高さ約35mの豪壮な天守閣が建てられたという。4階が八角形、5階は四角、わが国初の本格的な天守閣を持った城郭だった。城はその後焼失したが、金箔などのついた瓦が出土していて、その時も全域で発掘調査が行われていると聞いた。
近くの「近江風土記の丘」に安土城址、観音寺城址の両城郭史跡、さらに瓢箪山古墳など「城と考古」を主テーマにした、なんだか中世ヨーロッパのロマネスク建築を思わせる「安土城考古博物館」もあり、思えば信長の西洋文化に興味を抱いた建物で、城は無いが、信長の気障で狂気な印象を現したものだと感じた。
この時、明治10年に八幡東学校として建てられたユニークな建物が観光事務所に利用され立ち寄った時、観光物産協会の方が「特産品としては、八幡瓦の文鎮、淡水の真珠、近江兄弟社のメンタームもこの町なんです。それにイ草やヨシの工芸品も‥『あきんどの里』にありますから」などと言われて求めたのが、ヨシの壁掛けだった。
司馬遼太郎の『街道をゆく』の冒頭は「湖西の道」に始まる。『「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう私には詩がはじまっているほど、この国が好きである』シリーズは、湖西の安曇族(あずみぞく)、信長のことなどからあの長編が始まる。
メンタームの近江兄弟社と聞いた時には、ふと懐かしさも感じたが、近江八幡市は、現在の日牟礼八幡宮あたりには八幡堀があり、これは豊臣秀次が八幡城築城の際に西の湖から開削し、内堀として防衛と同時に琵琶湖航行の寄港地としたことで、商業の賑わいに貢献し、その付近に蔵も多く、白壁や、板壁に囲まれた屋敷が現在に残り、昭和56年には「伝統的建造物群保存地区」に指定された。
この近江人気質は、質素、倹約、勤勉、堅実などなど、自分一人ではなく家人、奉公人にも徹底させる根性で、わずかな資本を元手に、多くの人に愛され信頼され、都会や地方にまでを相手として豪商となり、江戸時代には「商人」といえば「近江商人」だった。
淡海(あわみ)の国は近江の国となった。思えば滋賀県の中央部は日本最大の琵琶湖(約650km2(平方キロメートル))であり県の6分の1を占める。この湖にヨシの群落があり、近江八幡市の水郷は重要文化的景観第1号として指定され、水郷巡りの観光船も出ている。
私は、当時の国民年金会館にとまり琵琶湖河畔の静寂な風景を眺めた記憶が残っている。別に水郷巡りをしたわけでもないが壁掛けはその情景を想い出させてくれた。
写真は水郷近江のヨシ壁掛けと近江商人の銅像
市議選に感じたこと
我が迫町の現職市会議員が、昨年亡くなったことで「今後、地域の相談相手は?」と思いながらも自治会の動きもなく、市内では「あの人が出るらしい」と幾らかのうわさがあっても選挙の雰囲気は、ほとんど感じなかった。ところが1月中旬ごろ、ポスター54枚用の掲示板が各所に立てられた。昨年は、銃撃事件で安倍晋三元首相の死亡もあり、地元の政界分布図も微妙に変化しつつあると報道されても、街中に目立った動きもなかった。
任期満了に伴う下関市議選の告示は1月29日。定員34人に対して現職29人と新人20人、合計49人の立候補。旧1市4町が合併した平成19年(2007)の時は59人(定員38)で異常に多かったが、これに次ぐ多さ。前回2019年より8人多い。投開票は1週間後の2月5日。
告示の日、ポスターや新聞の立候補者を見ても、ほとんど知らない名前ばかり。
私の写真展に立ち寄られ各所の行事等で活動されている何人かの現職議員を知っている程度で、公示翌日から不在者投票可能である。
私は、いつものように都合のいい週半ば気温も穏やかになった日に不在者投票を済ませた。そのとき、庁舎近くの掲示板を見たが顔写真と名前ばかりで主義主張はほとんどない。貼られてない方もあったが、これだけの写真を並べられると流石に壮観で見るのに時間もかかった。
市内の何ヶ所に掲示板があるのか知らないが、この材料だって馬鹿にならない。選挙後どのように処分されるのか。4月には衆議院補欠選挙も予定されている。それぞれ大切な議員を選ぶのだから必要なことかもしれないが、この経費も相当なものであろう。
不在者投票を終えて帰ってみると、選挙管理委員会発行の全候補者を紹介した「選挙公報」が届いていた。候補者の立候補にあたっての主張だが、人柄は幾らか見えるが政治信条は抽象的で同じような内容になっていた。
『未来』という言葉が目立った。「未来を目指す」「未来を聴く」「未来を拓く」「未来へまっすぐ」「未来を想い本気で動く」「未来のためチャレンジ」「子どもは未来まちづくりも未来」「ともに未来へ進もう」「未来を見据えて」「ともに生きる未来を創る」「下関の心を未来の子どもたちに」「教育が未来を変える」「若者に未来を」などなど。『夢』も多かった。「子どもたちの夢がかなう街に」「子どもたちが夢を描ける・・」「夢を実現に」「夢を咲かせるお手伝い」など。
議員さんとしては『未来』は当然の職務、どのような未来?そして『夢』ってなんですか?そこに具体性もなく、人任せって感じなのだ。
候補者たちが描く『下関の姿』が垣間見えるコメントとして「明るい楽しい下関へ」(あと下関を略す)「だれ一人取り残されない」「美しい」「元気な」「笑顔で心通う」「活力とぬくもりのある」「あたたかな」「人に優しい」「日本一優しい」「福祉と経済の」「市民が主人公の」「いじめゼロの」「明るく活気ある」「文化都市観光都市平和都市」「人との絆が暮らしを向上させる」。並べてみると、これも常識的で、意気込みが空振りというところ。
もう一つ(対策はともかく)何を言いたいのか、「医療費中卒迄ゼロ」「国保・介護保険の負担軽減」「大軍拡・大増税反対」「教育環境改善」「小・中校トイレ・窓など改善」「夜間保育」「給食費無償または援助」「子ども医療費援助」「地産地消」「漁業創生」「バスなど交通事情の見直し」「地場産業の進展」「若者流出ストップ」「若者企業の援助」「高齢者サポート(安全・AI機器取扱い)」「海峡の町を活かす」「議員は民意を吸収・市政監視を」「議員定数削減或いは考慮」「子育てしやすい環境造り」「一人ぐらし対策」「現場第一主義」などとあった。威勢の良い姿勢そして願望、それに聞き覚えの党是など、ベテラン議員は「経験と実績さらにその先へ」「実行力」とゆとりはあるが「老齢者は地域のため戦う」これは如何なものか。
残念ながら、年金受給者の気持ちを端的に表したものは一人もなかった。年金は減らされ、医療費負担が2割へ。それに光熱費は急激な値上げである。第一生命の「さらっと川柳100選」に「また値上げ/節約生活/もう音上げ」とあったが、まさに実感である。
相対的には、良い方ばっかりで皆さん当選してほしい『選挙公報』だった。
私の1票はすでに終わった後だが、その後も、推薦葉書や応援電話もいくらかかかって来た。家の前を選挙カーが通るが、誰が通過したのかさえ聞き取れないスピードである。聞こえるという煩わしさも難儀だが、解らないのは騒音でしかない。市議選は選挙区間が短いので、こうした騒音もそのうち終わってしまい、2月5日が投開票日だった。
翌朝の地元新聞には、開票結果は7日付で掲載とあり、投票率42.33%は前回を1.3%下回り過去最低と報じられた。期日前投票者数は27,414人(前回比773人増)で過去最多。ちなみに当日有権者数は211,687人(男97,089、女114598)だった。
開票結果は、現職26人、新人8人が当選。党派別では、自民17人、無所属6人、公明5人、共産3人、立民、れいわ、社民各1人が当選し、れいわ、立民が新たに議席を獲得し共産が1議席を減らした。安岡克昌(自民現)氏が前回に継いでトップで当選5回目。
自分が投票した人は、どうにか当選、贔屓にしていた方も。そして不在者投票後に是非と紹介された新人宮野氏が3位。
新人乱立のこの度は「こうした若者に期待をと願っての選挙」だったのだろうか。
写真は下関市庁舎横に張り出された市議選候補者のポスター
中世のふるさと3 -長門国前史2-
和銅年間、わが国最初の造幣局が全国6ヶ所に造られた。その一ヶ所が長門国長府で、わが国最初の貨幣「和同開珎」が鋳造(和銅年間=708~714)された。
明治44年(1911)長府覚苑寺あたりで多くの出土遺物が発見されたことで、ここに長門鋳銭司が置かれたとして史跡に指定された。出土品は重要文化財で市立博物館に保存されている。その長門鋳銭所は、天平13年(741)に廃止され、天長2年(825)に周防鋳銭司での鋳銭が始まった。
ところで、平成3年から奈良県立万葉館建設のため発掘調査が行われたとき、富本銭鋳造跡を含む大規模の飛鳥池工房遺跡が発見されて、日本最古(683)の富本銭の発見で「長門の日本最初」というキャッチコピーは返上となった。
和銅3年(710)には平城京遷都があり、これ以降、各国府において奈良の都に準じた国衙が整備されることになり、周防国は防府に、長門国は長府(現在の忌宮神社を中心に東西南北300m位)に国府が置かれ、国衙の町が出来てその北側には45代聖武天皇(天平13=741ころ)の勅願による国分寺と国分尼寺が建設された。(長府という地名は長門の国の国府が開設されたことから、長門の国府がつづまって長府となり、防府も同様)。
国分寺は、天平13年(741)に建てられた由緒ある寺で朝廷や大内氏、毛利氏の崇敬が厚かったが、明治23年(1890)南部町の現在地に移ったものの戦災で堂宇が焼失、所蔵する絹本着色十二天曼荼羅図と木造不動明王立像は重要文化財である。その後、長府の寺跡から国分寺瓦が出土し、昭和52年の寺域調査で寺の東限を示す土堤や創建当初の軒瓦も出土し、礎石の一部や瓦類は市立歴史博物館に保管されている。
長門国分寺は、長府宮の内に「国分寺跡」の碑が建っていて、あぁこの辺りだったのかと感じるが、国分尼寺は、はっきりした区画は分かっていない。
本州の西端、海峡のある下関では国家の平安をはかろうとした国分寺、国分尼寺の存在のほかに、古くから多くの社寺建立があった。
住吉神社、忌宮神社、永福寺、専念寺など古代のものを除いて、貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請した亀山八幡宮は、延長元年(923)に「外朝正門鎮守」の別号を受け、また産土神として住民の信仰対象として9世紀後半には鎮守八幡宮となった。また同じころ伊崎稲荷神社、内日神社、菅原神社、四王司神社などの古社が創建した。
普応寺は、9世紀に唐の洪種仙人の創建と言い、永福寺、専念寺と共に大陸の玄関口という性格を感じる。
また竹生寺、福昌寺、東蓮寺、蓮台寺なども平安時代創建の古寺である。
この長門地区は、地形的に律令国家の要衝として山陽道に長門関が置かれ臨門駅、客館があり、かなり大規模の軍団も置かれていたことなどは、文献上確かに存在したことは分かるのだが、何処でどのように蠢いていたのか、おそらく国家支配であっただろうがその管理や、地方豪族や民衆の様子は伝わってこない。
10世紀半ば藤原氏が政治の実権を握った摂関政治から上皇による院政の時代に移ってゆくころ、各地で国司や地方の武士たちあるいは有力農民も勢力を増し、私有地や武力をたくわえ勢力を高めた。やがて全国の武士団は巨大化し、棟梁として勢力を誇ったのが清和源氏と桓武平氏で両氏共、東国に勢力をふるったが、平氏は将門の乱など一部の内乱で伊勢に根拠地をおいた末裔が、清盛時代に全盛を極めることになる。
このころ、防長2州には、周防に大内氏、長門に厚東氏、その一部に豊田氏の3豪族があったが、実質的には大内、厚東両氏が対立関係を続けていて、12世紀後半には平氏の支配する知行国になっていた。
写真は長門鋳銭所跡碑と出土品一部(下関市立歴史博物館所蔵)


