幽玄の花を見た-能楽キャラバンin下関から-
「能楽大会が下関市民会館で行われますよ」とプログラムを添えて、宮本隆吉さんからお手紙をいただいたのは新春早々のことだった。
宮本さんによれば、文化庁が、質の高い文化芸術活動を全国20地域・35会場・71公演という日本全国能楽キャラバンと銘打って日本全国を回る能楽の鑑賞の機会を設け、コロナ禍の萎縮を乗り越えて、地域の文化芸術の振興推進を目的に支援し、能楽界全体を巻き込んだ大きなイベントを生み出して下関もその一会場になった。通常ではとてもこの規模の開催は難しいことですと言われる。
プログラムによれば、市民会館の大ホールで1月22日(日)、演目は観世流能が『屋島』と『葵上』それに大蔵流狂言で『呼声』となっていた。
『屋島』は、平家物語に出てくる屋島の戦いを典拠にした世阿弥の作品というだけでも観たいと思ったが、出演者を見て驚いたのはシテが宮本茂樹、ツレは谷弘之助とあって写真も掲載されていた。宮本さんは宮本隆吉さんの御子息で下関市出身、一昨年(令和3年度)の下関市芸術文化振興奨励賞受賞者であり、谷さんは美祢市出身とある。いわば主役の二人が、この地方の出身者の出演なのである。
一般に、こうした上演は撮影禁止なのだが、宮本さんは、奨励賞受賞後郷土初公演であり、せめてその舞台の何枚かを記録に残したい。と思って宮本さんに電話してみた。案の定「こうした記録は観世会の専門担当者で行っていますが‥一応、訪ねてみましょう」と言われ、この件は、後日「当日受付で書類を出して頂くようになりました」と電話があった。(お手数をかけたが、当日の手続きで一件落着)
私と「能」とのかかわりは、写真を始めた当初、近所に宝生流の方が住まれていて、門司?での発表会に連れられ確か『猩々』ではなかったでしょうか撮影させられたことがあって、その後、忌宮神社、東行庵などと亀山能で写真を撮った程度、専門的なことは分からないが、赤江瀑さんに『世阿弥』の文章があったり『風姿花伝』の話が出たりしたことや『平家物語』の様々な状況が「能」の演目になっていることからの興味は持っていた。
『屋島』(能での曲目は『八島』で、観世流では『屋島』と表記している)の物語は、源義経の霊が出て合戦の様子を語る修羅場もので当然勝利者の物語だが、舞台が屋島の浦に設定され旅の僧と漁翁(前シテ)が展開する前半と義経の霊(後シテ)による後半にわかれた約2時間の公演だった。
旅の僧が2人の僧を連れ讃岐(香川県)屋島に着いた時には日暮れになり塩屋に一夜をと漁夫(ツレ)に請い漁夫は漁翁に、見苦しい場所と一度は断るが都からと知り宿を貸す。その日は朧月夜で、そこから漁翁の回想が始まり、元暦元年(1185)3月18日平氏は海上、源氏は水際に陣取り、源氏の総大将は源義経、その立ち姿は見事なもの、平氏側景清と三保谷四郎との錣騒動、佐藤継信の最期など・・・その回想が詳しいので旅の僧は漁翁の名前を聞くが、「よし常の浮世の夢ばし覚ましたもうなよ」と、義経の霊であることをほのめかして姿を消す。
ここで間狂言、那須与一が扇の的を射る様子などを「義経・後藤兵衛実基・与一・語り手」の1人4役(アイ)で、所作表情豊かに語る場面がみごと。
そして後半に、舞台は旅僧の夢の中、義経の霊(豪華な戦姿)が現れ、何かのはずみに弓を落とし、弓が流れて行くのを追っかけて行く弓流れの場面、危機一髪で弓を取り返す。
この行為を、家来の増尾十郎兼房は、命をはってまで危険にさらすのは感心しないと誡めると、義経は「弓が欲しかったのではない、名誉のため、運が尽きていないなら敵に渡すまいと取りに行ったのだ」…その後、義経は壇の浦で教経との奮戦、修羅の世界を舞う・・やがて夜が明けるころには、鬨の声と思ったのは浦風・・義経の霊は去ってゆく。
笛・小鼓・大鼓が心地よく、舞の床の音の響きに臨場感があった、これらは写真では表現できない。老齢の自分には地謡は聞き取りにくいし内容もほとんど分からないが、あぁ!粗筋が流れていく効果音には感じた。ここでは『呼声』『葵上』はもう止そう。
「シテ」宮本茂樹さんが、ふるさとの舞台に演じた源義経の霊は、かって義経が見せた海峡の八艘飛びを凌ぐ、誠の花であった。それは、父・隆吉さんから注がれた水のDNAが咲かせた花であったかもしれない。ゆったりした大寒の時刻の流れの中で、幽玄の世阿弥世界の花を見させていただいた。
写真は下関で宮本茂樹さんが演じた能舞台『屋島』の2場面
私の本棚-エキマチ読書室-
昨令和4年12月初旬、下関市竹崎町の大丸下関店7階のJOIN083に「思わぬ出会い 私の本棚-エキマチ読書室」というコーナーが設置された。
これは、市内出身者で活躍した、または活躍中の在住者に借りた愛読書や蔵書の一部を自由に読んでもらい「その人たちがどんな本を読んできたのか、どんな本に影響されたのかを知って、本の持つ力を多くの人に感じてもらえたら」という企画である。
そこには、亀山八幡宮の竹中恒彦名誉宮司、みもすそ川別館の西山玲子女将、松琴堂の西原由美社長、映画監督の故、佐々部清氏、元山口新聞編集局長の佐々木正一氏と私の6名がそれぞれ50~60冊を提供して書棚に並べられた。
継いで、元西中国信用金庫理事長・山本徹氏や元山口銀行頭取・相談役だった故・田中耕三氏が加わることになっている。
エキマチ下関推進協議会の主催で、下関商業開発が特別協賛となっていて4月頃までここで開催されるという。
このお世話をされているのが、元山口新聞の佐々木正一さんで、彼とは40年以上も前から付き合っていることもあって、昨年の夏ごろ「市内の人たちの読んでいたいろんな本をシーモールあたりで並べてみたいが40~50冊位出してもらえんじゃろうか」と相談され、差し当たってあまり必要でも無い本を提供しておいた。
まさか、最初の発足が6人(間もなく8人)とも思っていなかった。しかも愛読書でも何でもない本であるから、戸惑いもあったが仕方ない。
竹中さんは、流石に郷土史に関わる『柳田國男集』や郷土誌など、西原さんは『赤毛のアン』や『ハリーポッター』などのシリーズ、佐々部氏は映画化した『半落ち』の原作本など、いずれもその人を知る貴重な本が並んでいる。
私の読書歴と言って語れるものは何もない。長い文章が苦手で、映画を見て感動したら原作を読んでみるとか、郷土作家の古川薫氏や長谷川修の作品などは出版されるとその都度読んでいた程度。しかし、古川さんの本はサイン本で提供するに忍び無かった。
今回、私の提供した本には『ちくまの森』(15冊)「心洗われる話」「とっておきの話」などとある様に、安野光雅・井上ひさし氏らが監修したシリーズで、多くの作家の短編や随筆などから選択したもので、意外性もあり読みやすいものである。
写真に関する本はあまりなく、しいて言えば『被写体』(三浦友和著)であろうか、これは俳優としての本人とタレントだった奥さん(山口百恵さん)が、仕事としてあらゆる場面で被写体となる場合や、有名人として日常カメラマンに追われ付きまとわられる心境などがさりげなく書かれたもので、私たち写真を写す人間として考えなければならないことが各所に書き表された本だった。
私の読書は、文章の一部に写真との関りがあれば良いとか、郷土と或いは生きるためのヒント「さわりだけ」でいいという感覚かもしれない。『奥の細道』『草枕』などの冒頭とか、『山椒魚』『セロ弾きのゴーシュ』などに悲しみと愛そしてユーモア、こんな単純さで良い。お伽や旅の世界、人物語も良い。
長谷川修の「ヘリュウム氏」に感動したし、古川薫の『暗殺の森』を読んだ時は今度こそ直木賞だとも思った。
記憶の発想も乏しくなった現在、先日の新聞に読書感想文入賞作で、小学校4年生の文章に「SDGs」のことが具体的に書かれていたのに驚き、本の影響力をいまさらながらに感じた。
今回の「エキマチ読書室」は、一部に机や椅子なども置かれ「自由に読んでください」とは言われているが、何となく寄り付きにくい雰囲気が気になっている。
写真は、下関大丸での「私の本棚-エキマチ読書室-」のコーナー
久留島武彦記念館(3)-3-記念館と館長-
記念館の内部展示の説明は、先ず、久留島武彦文学賞の概要、最近の情報などのコーナー、背景の壁面には久留島氏の著作・著書の表紙が壁面一杯にそして名言集12が並ぶパネル。「あごを忘れるな」「継続は力なり」「子どもを疑うな、味方であれ」「身動かざれば心働かず」「子どもに魂を入れるのは、身近な大人である」などなど「チャンスはハゲおやじ」というのもあって「どんな意味ですか?」と聞いてみた。「チャンスには前髪があって、自分に気持ちが無ければ一瞬に通り抜ける。気が付いたとき捕まえようとしても髪毛が無い、一生懸命に勉強し、目的をもって身構えなくてはいけない」ユーモアを交えながら口演をされた様子をうかがえる言葉である。よく聞く「継続は力なり」が彼の言葉とは知らなかった。
記念館の廊下を突きあたった南西の角には、机や椅子もあって窓ガラス越しに旧久留島邸内に建てられた「童話碑」が見られる場所になっていて、壁面は全国に久留島氏を顕彰する4基の「童話碑」を紹介している。回廊を北に向かい左は、「授乳室」と「いぬはりこの間」子どもが自由に本やオモチャに親しめる場所で、逆に右側の「大広間」は、大人が久留島氏を学ぶ部屋になっていて中央にはタッチ式のモニターで生涯の歩みを検索できる。年表も写真やイラストも入れて楽しい。コーナーには口演の肉声も聞かれる設備もある。好きな食べ物は?嫌いなものは?などのコーナーもあった。
北側の西の部屋が「ものがたりの部屋」久留島氏の童話作品を壁面に映し出し物語を聞く部屋である。キノコ状の椅子がポツポツと置かれて楽しい。間もなく黒瀬さんの6年前に収録された物語が流れると聞いて、次の「日本を旅する部屋」「世界を旅する部屋」を急いで廻って、またその部屋に戻った。
他に「久留島先生ゆかりの部屋」「出会いの部屋」などあったが、今回はそこで企画展が開催されていた。(ここでの説明は略す)
館長は、金成妍(キムソンヨン)さん。昭和53年(1978)韓国釜山生まれで、九州大学大学院で平成20年(2008)に博士学位を取得された、文学博士である。その年、第48回久留島武彦文学賞を受賞されている。九州大学に通っていたとき、恩師が亡くなられる3日前に久留島武彦追悼集を手渡され、それから久留島氏について研究を始めたのがきっかけで、7年をかけて調べ上げたのが『久留島武彦評伝』であり、出版にこぎつけたのが平成29年(2017)1月で、同年3月、玖珠町の同記念館に館長として迎えられた。この新記念館が、誰にでも久留島武彦を親しく知ってほしいと魅力ある構成となっているのは、金さんが建設の初期から助言されていたであろうことを感じた。
一巡したところで、お菓子とお茶を頂きながら館長さんと歓談した。
横山さんは、初対面の館長に一つの活動である選書会の状況を説明する『本をえらぶ日』を、着いたときに渡されていたのだろう、金館長の話のはじまりは親しげに本の中の写真を指しては「此の表情ですよねぇ」と、相手の眼を見て話しかけられる。
この話題は、撮影者の私としては大変有難く嬉しいものだった。この本をめくりながら、たて続けに、子どもたちの目の輝き、或いは表情、感情の変化などを、自分の言葉と表情で近くの人に話しかける金館長に私自身が感服した。この辺りは、写真のリテラシーの問題であり、どんな写真を見ても、すらすらと、自分の思いで写真を読みとる人に出会うことはほとんどないので驚きでもあった。
そして「写真からの選択も大変だったでしょうね」とも声をかけられた。「たしかに写した本人は私ではあっても、この表情を醸し出しているのは、横山さんのブックトークの見事さであり、子どもたちの豊かな感受性からなんです・・」とは答えたものの、写真の選択、捨てがたさの思いは、金館長が久留島武彦の活動を綿密に調査し『生涯の口演動員数は晩年の手帳や新聞記事の調査で正確に把握出来た数だけで2百万人を超えており、それは東京ドーム公演36回分に匹敵します・・』などと書かれている、出版の際の編集者の思いにも通じるものがあったのだろう。短い時間ながら嬉しいひと時だった。
横山さんも、こうした話に終始して「もう少し聞きたいこともあったけど本当に楽しかった、下関で久留島氏が講演したときのことを思い出してくれる人がいないかねぇ」などと話しながら帰関した。
写真は記念写真(左から横山・黒瀬・金・秋好さん)と話題豊富で相手の眼を見て親しく語りかける金成妍館長


