癸卯(みずのとう)のうさぎ年(2)-1
「うさぎ」と言われて、すぐに口ずさむのが「うさぎ追いしかの山/小鮒つりしかの川‥」)と『故郷』(高野辰之作詞・岡野貞一作曲、尋常小学校唱歌・1914発行)だが、実際にうさぎを追った経験もない。「うさぎうさぎ/何見てはねる/十五夜お月さま見てはねる」(うさぎ)、「もしもし/かめよかめさんよ‥」(うさぎとかめ)、「ソソラソラソラ兎のダンス‥」(兎のダンス)、「大きな袋を肩にかけ…ここに因幡の白兎…」(大国様)などであろうか。
そしてふと「カチカチ山」(太宰治・1945)、久留島武彦に『なだれうさぎ』もあったなどと童話を思い出す。古イなぁと言われそうだが『兎』(志賀真哉・1946)、『兎の眼』(灰谷健次郎・1974)それに『ガラスのうさぎ』(高木敏子)もある。
いやいや『ちいさなうさこちゃん』(ディック・ブルーナ)、『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)、グリム童話に「うさぎとはりねずみ」もあると言われそうだ。
今の人は『鬼滅の刃』の中で歌われる「小山のうさぎ」かも知れない。
ところで私は、国宝『鳥獣戯画』(京都・高山寺蔵)の擬人化された動物たちの姿に世相の皮肉が込められていて好感を持っている。権威の象徴として猿、蛙と兎は庶民を表しているとも言われるが、申年生まれの私としては兎と蛙に追われているのが情けない。
それはともかく、蛙が鮮やかに兎を投げ飛ばしている場面は気持ちがスーッとするし、周囲の蛙はケラケラ笑らっている。ところが隣の絵を見ると蛙は兎の耳を噛みついている。いわばこれは反則行為である。巧みな筆致と愛嬌のある親しみ、単純化された見事な絵画である。コロナ感染が始まった3年前に、この絵柄のマスクを孫娘が贈ってくれた。
赤間神宮には、「うさぎ2匹が餅搗きをしているのを見ている安徳帝」の大絵馬が本年も水天門横に飾り付けられた。「うさぎは仲良く平和という印象があり、世界の平和と皆さんの幸せ、笑福の願いを込めて描いた」と話されたと報道されていた。
冬毛が白くなる種類もあるからか、冬の季語に「兎」がある。
写真は、本年の干支「うさぎ」を描いた赤間神宮の大絵馬
旅の記念品 34 -金色堂の釜敷-
サンデン交通(株)に始まる下関文化バスの講師(案内人)を、私が依頼されたのは平成6年9月の第422回からで、第545回の平成24年3月までお世話した。足掛け19年、124回各所を探訪したことになる。その間、平成17年には第500回を迎えることになるので、年初から記念企画として500回記念展覧会と東北(会津若松と平泉)を訪ねたいと計画し、現地訪問は10月、記念展は11~12月に実施した。
今回の記念品は、下見の帰りに福島空港売店で南部鉄風鈴と一緒に求めた南部鉄の瓶敷(釜敷)だが、風鈴は軒にぶら下げていて何時しか錆びてなくなってしまった。瓶式は直径10㎝の円形で中央部に金色堂が透かしで鋳込まれている。
ここでは南部鉄器の話よりも、下見で中尊寺訪問したときの様子を書いておこう。
平泉に着くと、桜の御所や毛越寺などを見学してホテルに一泊した。ホテルの支配人は「中尊寺は、本当は下から歩いてお参りする方が良いのですがねぇ」と言われる。どうやら裏道がありそうだと事情をきいた。丁度、世界遺産への熱意が高まったころだった。
朝、8時にホテルを出て境内入り口の案内所に着くと「秋は、観光客が多いし早めに来られるという計画は良いことです。(コース?)団体では金色堂の方から下りながらの説明が一般的ですが、本来は‥まぁお年寄りもいらっしゃれば仕方ありませんねぇ」
下見では、その下からという道でいよいよ中尊寺境内へ。
「本当は歩いて・・」と言われたが、最初の月見坂の両側は伊達藩が植樹したという杉並木があり、まさにタイムトンネルの効果がある。ひと汗かいた頃左側に弁慶堂がある。文政10年(1827)の建立で、本尊は将軍地蔵、堂内には義経と弁慶の木造が安置されているらしいが時間が早くてまだ閉まっていた。すぐ前、道の右側は東物見台で展望が開け、北上川の手前左手が「前九年の合戦」の舞台である。衣川古戦場跡で正面が束稲山、藤原氏が栄えた当時は1万本の桜が植えられていたと言われ、西行法師がここで詠んだ「きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは」の歌碑が建っていた。
坂道はその辺りまでで、地蔵堂、薬師堂を過ぎると右手に本堂がある。本堂は中尊寺一山の中心となる建物で本尊は阿弥陀如来、本尊の脇に不滅の法灯があり、延暦寺から分けられ最澄が灯して以来、消えたことの無い天台宗の象徴的な灯とされている。中尊寺の主な儀式は此処で勤められるという。
本堂の側面から出ると、朝の光に美しく屋根が見えたのが峰薬師堂、その前に不動堂、そして大日堂、鐘楼と続く。阿弥陀堂、弁財天堂まで来ると道は開けて、左手に宝物館(讃衡蔵=藤原三代、清衡・基衡・秀衡の偉業をたたえる宝堂、国宝・重要文化などを含む3000点を収蔵展示する)があり内部を見てため息をつく。この出口のところに脇道があるが、バスの観光客はあの坂道を往復することなく横の道から入山出来るのである。
すぐに木立の奥に金色堂・覆堂が見えた、昭和37年から43年まで7年をかけて解体修理され、防湿、防塵、防虫のためガラススクリーンで覆われた空調完備の保護施設であり外観は平安様式の建物になっていてさほどの違和感はない。
堂内に入ると、思わず「ついに来ましたよ」とつぶやくほどに美しい。今まで写真では見ていても実感はやはり違う。そして秀吉の黄金の茶室とはわけが違うと思った。螺鈿と金箔の奥には藤原4代の遺体がそこにあるという重みが伝わってくるのである。ただ文化財公開で撮影禁止というのは残念。国宝第一号世界遺産を目指す祈りの里、ガラスの奥は平泉の心であり、単なる観光地ではない。
堂を出ると、松尾芭蕉の旅姿の像と句碑が建ち「五月雨の降り残してや光堂」とあった。そして、その奥に経蔵と旧覆堂、その中には藤原三代を描いた物語絵が掲げてあり秀衡と義経対面の場面もあった。奥に白山神社、能舞台と見て、また月見坂まで下るのであるが、ここまでくる意味は確かにあったと、あの光堂の感激が続いていた。
ここで、切りたいところだが少し続けよう。義経は、追われおわれて平泉につき秀衡に与えられた館に居たが、間もなく秀衡が亡くなると泰衡の軍勢に不意打ちされて自刃するのが、近くの高舘である、丘の上にちっぽけな義経堂もある。芭蕉は「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んでいる。
文化バスは2ヶ月後の10月に会津若松と平泉を訪ねたが「やっぱし、現地を訪ねてよかった、そして双方とも、戦だけはあってはならなかった」と感じる旅となった。
写真は南部鉄瓶敷と文化バス500回記念で中尊寺金色堂を訪ねた一行の記念写真
中の浜遺跡
JR山陰本線川棚温泉駅から国道191号線を北(小串方面)に向かうと、左手すぐに踏切があり、そこから松谷方面(海側)に向かい700mほどで少し広い県道245号線の交差点に出る。その右折で、中の浜大橋の川棚川を渡る。橋を超えるとすぐに左折。これは細い道になるが100mも行かない所で右側に太陽光発電施設(サンシティ松屋発電所)があり、正面の川筋には「山口県指定文化財・中の浜遺跡」と書かれた大きな看板が見える。即ち、この三差路を右折して細い道を共同墓地の中に進むと道が途絶えるあたりの右側に史跡標識が建っている。つまり松谷集落の北側川向うに「中の浜遺跡」がある。
くどくどと道案内をしたが「中の浜遺跡」は、北の「土井ヶ浜遺跡」(下関市豊北町)、南の「梶栗浜遺跡」(下関市大字冨任)とならんで、響灘に面する西海岸の砂丘上に営まれた弥生時代(前期~中期)の集団墓地である。響灘沿岸は北部北九州と共に弥生文化を最初に大陸から受け入れた場所であり、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地が多く発見されている。
大陸或いは朝鮮半島から、はるばると海を越えてきた人々が海岸近くにムラを造り、水田を開いて生活を始めたのが今からおよそ2300年前、そして周辺の人々にも米作りの技術を伝え新しい文化の時代が開けた、つまり弥生時代の幕開け。
「中の浜遺跡」は、まさにこうした人々が残した墓地の跡で、現在の共同墓地を中心に砂丘全体に広がっていて弥生前期から数百年にわたり営まれ、103体を超える人骨が確認され川棚平野の大規模埋葬遺跡で「土井ヶ浜遺跡」とならぶ響灘の集団遺跡と言われている。
この遺跡は、昭和35年(1960)に金関丈夫氏を団長(無田地方総合研究調査団)として第1次調査が始まり、その後広島大学考古学研究室(第2~4次)、東京教育大学考古学研究室を中心(第5~8次)、豊浦町(第9次)などによって調査が行われ、埋葬習俗集落が明らかになった。
墓の種類は様々で、ただ墓穴を掘っただけの土壙墓のほか、覆石墓、箱式石棺墓のほか土器棺墓が見られ、石棺墓の占める割合は6割を超え、土井ヶ浜遺跡とは大きく異なっていた。中には、墓に上で火を焚いたものもあった。土器棺墓は9例確認され、響灘では群を抜いて多い。これは北部九州の甕棺文化圏からの影響があったかとも言われる。
また、墓に備えられた副葬品には、ムラ長の権威をしめす武器、装身具、壺などが数多く、例えば丁寧に作られた壺に豊浦地方独特の山形重弧文のほか綾杉文、稲穂の文様など多種があった。中期になると、青銅器、銅戈の切っ先なども出土しているが、北九州に比べると数は少ない。貝輪や貝小玉類は近海で採れるものが多かった。
こうした、墓地の構造や埋葬のしかたなどから複数の集団から成り立っていたこと、断体儀礼(手首を切り離す)或いは二枚貝を遺骸の上に置く例などが見られ、死に対する特殊な思想も伺われる遺跡であったことなどが検証されている。
昭和50年3月22日に史跡指定され、昭和60年10月24日追加指定された「中の浜遺跡」市内でも貴重で重要な遺跡である。雑草には覆われていないが「どっこい生きている」という存在感がある。
県道245号線にはバスが通っているのだろうか?そうだとしたら、バス停や駐車場なども整備されてほしいし、子供たちも見て楽しめる説明板も設置するなど、知る人ぞ知るという感じの状態でなく、市内の遺跡全体にいえることだが、もっと積極的にアッピールする方法を考える必要があるのではないだろうか。
写真は「中の浜遺跡」の部分


