Issay's Essay -8ページ目

久留島武彦記念館(3)-2 -久留島武彦氏のこと-

724 久留島武彦記念館正面(左)と玄関のウエルカムウォール

 明治4年(1871)廃藩置県で久留島家は東京に移住したが、通寛(みちひろ)は療養のため明治6年(1873)森町に戻って来た。翌明治7年(1874)6月19日、豊後の森陣屋で通寛の長男として久留島武彦が誕生した。母は中津藩・中金奥平家の恵喜(えき)で、武彦の妹(テル)は明治10年5月に生まれた。
 武彦は「殿町一番地の若様」として、元気な大きな声で挨拶する子どもとして育ち、明治16年(1883)、9歳のころ近くのお寺の説教会で鳴り物入りの日蓮の一代記や加藤清正の話などを聞いた。その年、玖珠町の7割以上が焼けるという大火で、住んで居た屋敷も学校も焼失し武彦は中津の母の実家に預けられた。
 小学校卒業後、大分の中学校、その後神戸の関西学院(英語教師の影響で信仰生活も)、父の死で、宗家からの指示でいったんは海軍予備学校に入るが1年で関西学院に戻り、明治26年19歳の時、神戸美以教会日曜学校の校長に任命され母と妹を神戸に呼んだ。ところが翌年日清戦争が勃発し近衛師団に徴兵。翌年、軍隊生活を描いた原稿をを匿名で博文社に投稿したものが好評を得ていた。
 帰国した後、尾崎紅葉や巌谷小波らと知り合い、結婚もして、就職などするが転職、会社閉鎖、倒産などと安定せず、ようやく横浜貿易新報社に入社したとき、日本初の口演童話会を開催した。
 間もなく日露戦争に召集。その後「週間子供新聞」を創刊、「児童劇団」を創設し定期公演を開催、明治41年(1908)34歳の時「世界一周観光旅行」に通訳で参加。帰国後「早蕨幼稚園」を東京に開園し、桃太郎主義教育を掲げる。つまり、個性を尊重し相助けていく共生の精神を大切にする教育である。さらに、自ら主幹の雑誌『お伽倶楽部』を通して日本にボーイスカウトを紹介。そしてオーデンセを訪問し、アンデルセンの復活を訴え反響を呼ぶなど世界的な童話活動を展開。口演活動は全国に及んだ。
 久留島武彦は、昭和35年(1960)4月29日横浜市の老松小学校で「狼に育てられた二人の少女」のお話をしたが、横浜の地で口演童話を開いてから57年、これが最後の講演となった。5月末に入院、内臓ガン末期が判明し同年6月27日、86歳での永眠だった。
 私たちの記念館訪問は、下関ICから約2時間、ナビが教えてくれたのは「童話碑」の建つ旧久留島氏庭園の前方広場だった。イメージが違う?たしかに建物があって記念館駐車場の標識もある。
 それは、新築の久留島武彦記念館で平成29年(2017)4月28日の開館だった。
 記念館の前に「継続は力なり」の石碑がある。記念館に入った正面には、お伽や物語に登場する人物や建物、犬やリス、虎、フクロウ、ツバメ、蝶々、ハチ、魚、植物、おもちゃなどとメルヘンチックな絵のど真ん中に、等身大の久留島武彦先生の絵が描かれ、明るく迎えるまさにウエルカムウォールの演出である。ここから館内を研究員の秋好さんに丁寧な案内を頂いた。
 写真は久留島武彦記念館正面(左)と玄関のウエルカムウォール

久留島武彦記念館(3)-1 -童話の里玖珠町と旧記念館-

723 平成9年当時の記念館内部と童話碑

 「久留島武彦賞」というのがある。公益財団法人日本青少年文化センターが、青少年文化の向上と普及に貢献した方々に贈るもので昭和35年(1960)に創設され、すでに第59回、個人約170人と65団体ほどの受賞があるようだが、下関市から黒瀬圭子(第50回)、横山真佐子(第53回)の両氏が受賞され現在も活動されている。
 このほど、黒瀬さんが横山さんを案内して、玖珠町の「久留島武彦記念館」に行くと聞いて同行した。この玖珠町は「童話の里」をキャッチフレーズに、子供たちが主役の町造りに取り組んでいて、それは、日本のアンデルセンと呼ばれ、日本を代表する口演童話家・久留島武彦氏の出身地に由来する。
 平成3年(1991)5月に開館していた「久留島記念館」を、私は平成9年(1997)9月に訪ねている。
 昭和25年(1950)には、久留島武彦の童話活動50年を記念して、久留島氏庭園(名勝)内に高さ7mの「童話碑」が建立され、除幕式の後、第1回日本童話祭が行われた。現在も、これは継続されているが、童話碑や庭園内の末広神社、栖鳳楼なども内部までその時に見学した。
 その当時の久留島記念館は、元、造り酒屋の荒木家住居に森藩政時代の資料や近代の豊後森(現・玖珠町など)の商店などが配った絵ビラなども収集展示されていたが、中心となる展示物は、久留島武彦の遺品や著書、交友関係の手紙や写真などが所せましと飾られた感じだった。
 当時、轟義禮さんに懇切な説明をうけ、裏庭に面した銀木犀の香いっぱいの部屋でお茶を頂き優しく丁寧な町の人を感じたのが忘れられない25年前の思い出である。
 大分県中西部、JR久大本線、大分自動車道、国道210号線などがほぼ東西に延びている玖珠町は、頂上がテーブル状の伐株山(きりかぶさん=標高685.5m)がシンボルで、筑後川上流の玖珠川など清らかな水に育まれ雄大な自然が広がる町である。
 昭和30年(1955)に2町2村が合併して発足した面積288平方km、人口約1万4千人(2022.11)で、商農業が発達し周辺の高原は純農村地帯である。
 近世になり、村上水軍で活躍し伊予国の1万4千石を領していた来島康親氏(のち姓を久留島と改める)が、西軍に属して関ケ原の戦いに敗れながらも、慶長6年(1601)豊後森に旧領と同じ1万4千石で封じられ、角牟礼山麓に陣屋を設け、以来260年間にわたってここを支配した。
 森藩2代通春が、元和2年(1616)に名字を来島から久留島と改めた。10代通明(みちあき)の弟・通寛(みちひろ)が16歳の時、藩主・道明が健康不安で家督を弟に譲ろうとしたが、道寛は生まれつき病弱体質で家督は叔父・道胤に渡り11代藩主、次いで息子の通靖(道靖)が最後の12代藩主となった。
 このシリーズは、『久留島武彦評伝-日本のアンデルセンと呼ばれた男-』(金成妍著・求龍堂)と『チャンス はハゲおやじ-久留島武彦の心を育てる名言集-』(金成妍著・梓書房)を参考にさせて頂いた。
 写真は平成9年当時の記念館内部と童話碑

癸卯(みずのとう)のうさぎ年(2)-2

722 市内の小学校で12年前に撮影した少女に抱かれた「ウサギ」

 12年前のウサギ年、ある小学校の「うさぎ」を取材させて頂いたとき「うさぎ小屋」に張り紙があった。たしか「まど」さんの…と思い出して調べてみると『まど・みちお詩集』(岩波文庫)に「うさぎ」と題して掲載されていた。
 「うさぎにうまれて/うれしいうさぎ/はねても/はねても/はねても/はねても/うさぎで/なくなりゃしない/うさぎにうまれて/うれしいうさぎ/とんでも/とんでも/とんでも/とんでも/くさはら/なくなりゃしない」と続いていた。うさぎの優しさ、うさぎの躍動感、無限に広がる草原、その行動が環境を破壊することはない。
 警戒心が強くストレスには弱い、絶えず周囲を警戒、したがって敏捷(時速60~80㎞)、飼いうさぎは慣れると様々な感情も現し甘えん坊の時もある。好奇心も旺盛。これらの性格が物語の中では、機知を働かせて悪の象徴タヌキを懲らしめる「カチカチ山」となったり、相手を侮って負けてしまう愚か者「うさぎとかめ」になったりする。
 しかし、昔からお月さんの模様は、餅つきのウサギに見えたことから、古来ウサギが月に棲む説話が伝わり、仏教においても「捨身慈悲・滅私献身の象徴」とも言われている。
 これは「猿と狐と兎が、道端にうずくまった老人を助けようと、木の実や果物、魚などをとって来て老人に与えるが、兎は何もとってくるものが無く、猿と狐に焚き木に火を点けてもらい「肉を食べて下さい」と言って火の中に兎は飛び込んだ。倒れていた老人は帝釈天だった。兎の慈悲行に感心した帝釈天は兎を月に登らせ、永遠にその姿をとどめた」と言うのである。慈悲深い献身の象徴としての動物とされている。
 謡曲『竹生島』では「緑樹影沈んで魚木に登る気色あり月海上に浮かんでは兎も波を奔るか面白の島の景色や」とある。延喜式には「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」と。
 今どきの子どもさんは、「月に兎なんか住めるものじゃァない。あれは隕石がぶち当たって出来たクレーターという凸凹なんじゃ」などと、兎角、知恵がつき理屈が早い。
 嘘をついてはならない。人のものを盗んではならない。これは悪知恵。知恵だけでは人間は出来ない、正直な心とゆるぎない信念が必要と言われる。
 「写真も小説も嘘だらけ…」分かっていてもこの嘘は解釈、読み方次第の問題、例えば証明写真と言っても人間が一枚の平べったい紙になっている、見た目は似ているけど、そんな平べったいものでない、本物は、真実は…もっともっと奥深いもの。
 兎に角、兎も角、うさぎは多産で繁盛に富むため豊穣をつかさどるとして、山の神は白兎に乗って山を巡る、福島県の愛宕山では残雪が雪兎に見えるころなると「種まき兎」だと言われる。夢やロマンが生活ににじむ。
 悪知恵のウサギが、サメに皮を剥がれ、先輩神様にとんでもない治療を教わり、泣いていた兎は大国主命に助けられ白兎になった。兎は反省しただろうか?
 昨年の漢字は「戦」だった。さて癸卯年、氏神様に頂いた神社暦による恵方は南南東とあった。戦もコロナも御免こうむりたい。本年は如何なる展開となるでしょうか。
 写真は市内の小学校で12年前に撮影した少女に抱かれた「ウサギ」