中世のふるさと3 -長門国前史2-
和銅年間、わが国最初の造幣局が全国6ヶ所に造られた。その一ヶ所が長門国長府で、わが国最初の貨幣「和同開珎」が鋳造(和銅年間=708~714)された。
明治44年(1911)長府覚苑寺あたりで多くの出土遺物が発見されたことで、ここに長門鋳銭司が置かれたとして史跡に指定された。出土品は重要文化財で市立博物館に保存されている。その長門鋳銭所は、天平13年(741)に廃止され、天長2年(825)に周防鋳銭司での鋳銭が始まった。
ところで、平成3年から奈良県立万葉館建設のため発掘調査が行われたとき、富本銭鋳造跡を含む大規模の飛鳥池工房遺跡が発見されて、日本最古(683)の富本銭の発見で「長門の日本最初」というキャッチコピーは返上となった。
和銅3年(710)には平城京遷都があり、これ以降、各国府において奈良の都に準じた国衙が整備されることになり、周防国は防府に、長門国は長府(現在の忌宮神社を中心に東西南北300m位)に国府が置かれ、国衙の町が出来てその北側には45代聖武天皇(天平13=741ころ)の勅願による国分寺と国分尼寺が建設された。(長府という地名は長門の国の国府が開設されたことから、長門の国府がつづまって長府となり、防府も同様)。
国分寺は、天平13年(741)に建てられた由緒ある寺で朝廷や大内氏、毛利氏の崇敬が厚かったが、明治23年(1890)南部町の現在地に移ったものの戦災で堂宇が焼失、所蔵する絹本着色十二天曼荼羅図と木造不動明王立像は重要文化財である。その後、長府の寺跡から国分寺瓦が出土し、昭和52年の寺域調査で寺の東限を示す土堤や創建当初の軒瓦も出土し、礎石の一部や瓦類は市立歴史博物館に保管されている。
長門国分寺は、長府宮の内に「国分寺跡」の碑が建っていて、あぁこの辺りだったのかと感じるが、国分尼寺は、はっきりした区画は分かっていない。
本州の西端、海峡のある下関では国家の平安をはかろうとした国分寺、国分尼寺の存在のほかに、古くから多くの社寺建立があった。
住吉神社、忌宮神社、永福寺、専念寺など古代のものを除いて、貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請した亀山八幡宮は、延長元年(923)に「外朝正門鎮守」の別号を受け、また産土神として住民の信仰対象として9世紀後半には鎮守八幡宮となった。また同じころ伊崎稲荷神社、内日神社、菅原神社、四王司神社などの古社が創建した。
普応寺は、9世紀に唐の洪種仙人の創建と言い、永福寺、専念寺と共に大陸の玄関口という性格を感じる。
また竹生寺、福昌寺、東蓮寺、蓮台寺なども平安時代創建の古寺である。
この長門地区は、地形的に律令国家の要衝として山陽道に長門関が置かれ臨門駅、客館があり、かなり大規模の軍団も置かれていたことなどは、文献上確かに存在したことは分かるのだが、何処でどのように蠢いていたのか、おそらく国家支配であっただろうがその管理や、地方豪族や民衆の様子は伝わってこない。
10世紀半ば藤原氏が政治の実権を握った摂関政治から上皇による院政の時代に移ってゆくころ、各地で国司や地方の武士たちあるいは有力農民も勢力を増し、私有地や武力をたくわえ勢力を高めた。やがて全国の武士団は巨大化し、棟梁として勢力を誇ったのが清和源氏と桓武平氏で両氏共、東国に勢力をふるったが、平氏は将門の乱など一部の内乱で伊勢に根拠地をおいた末裔が、清盛時代に全盛を極めることになる。
このころ、防長2州には、周防に大内氏、長門に厚東氏、その一部に豊田氏の3豪族があったが、実質的には大内、厚東両氏が対立関係を続けていて、12世紀後半には平氏の支配する知行国になっていた。
写真は長門鋳銭所跡碑と出土品一部(下関市立歴史博物館所蔵)
