旅の記念品37 -飛騨の切り絵-
白川郷から五箇山、八尾、古川、高山などと訪ねたことがある。
ふと「下関でしょう、遠い九州からようこそ」と言われた。それも、各所である。かれこれ25年ばかり前のことだが、そのとき自分自身その場所が岐阜県か富山県かも曖昧だったことに気づいた。また、古川町の隣・国府町で「下関といえば長門ですから安国寺は宇部の東隆寺ですよね、下関にとまった宿で土笛を買いましたよ」といわれ思わず驚き嬉しかったこともある。最近はクロアチア情勢が連日流れているが、ロシアが進攻した1年前は、それがどこに位置しているかさえ気が付かなかった。
その旅は八尾の「風の盆」が目的だったが、天領の高山とその周辺に興味もあって、古川の町にも立ち寄った。
古川町は、当時は岐阜県吉城郡で平成16年(2004)周辺町村合併で、飛騨市の一部になっているが、訪ねたときは面積約100km2(平方キロメートル)、人口1万6千人位だっただろうか。
天正13年(1585)羽柴秀吉の佐々成政攻めに伴って飛騨に入った金森長近が、翌天正14年(1586)に増島城を築き、養子の金森可重を城主として軍事行政の中心とした。町割りは高山に模して碁盤目状に、その後一国一城令で廃城、元禄5年(1692)に6代藩主・金森頼時が出羽国に入封後、飛騨古川は天領となったが、城下町の機能はそのまま、飛騨街道の要衝として栄えた。
古川町に着いたとき、目についたのは「飛騨古川まつり会館」だった。古川祭りは、気多若宮神社の例祭で、4月に9台の屋台が提灯をともして曳かれる重要無形文化財であり、会館にはその歴史資料や神輿、屋台も展示され、フロアーの中央にはからくり人形の仕組みを実演できるコーナーと、『起し太鼓』の迫力を再現する別館の立体映像ホールもあった。
入館者がかなりあって、ここの主任さんの案内があまりにも熱心なのに驚いた。小さな農業中心の町なのに観光への情熱は「古川やんちゃ祭り」さながらの情熱とパワーを見せつけられた思いだった。
そのまま、白壁土蔵群に添う水路にコイが泳ぐ小路を歩き、出格子の商家が続く街並みを散策、ここで和ろうそくの三嶋ろうそく店を覗くと、明和年間(1764~1772)創業と聞いた。店頭に「遂に来たぞ」と書かれた色紙があって、なんと故・土門拳(写真家)のサインがあって嬉しくなった。蒲酒造場は宝永元年(1704)の創業である。
切り絵工房ではカッターナイフで一生懸命に作品を作っている姿を見た。飛騨の切り絵は、成程、飛騨の匠にも似た根性を感じる実感があって、このとき記念品を購入した。B5サイズ、ノート程のプリントで、絵ハガキ代わりという『古川百景』の3枚である。
ところで、古川を歩いているとき大きなお寺の向こうで、少女2体のブロンズ像とそばに文学碑を見かけた。「二月のなかば過ぎると/信州のキカヤに向う娘たちが/ぞくぞくと古川の町へ/集まってきます/みんな髪は桃割れに/風呂敷づつみをけさがけにして/「トッツァマカカマ達者でナ」/それはまるで遠足にでも/出かける様に元気に/行ったのでございます」最後に小さく「野麦峠より」とあった。
それは山本茂美著『あゝ野麦峠』の一説で、“製糸工場の奴隷的労働、そこで病を得て兄に背をわれて故郷に帰る途中「あー飛騨が見える」と言って死んでいった少女”の何時か見た映画『あゝ野麦峠』の悲しい場面を思い出した。そういえば『キュウポラのある町』の原作者・早船ちよの出身もこの古川だったとそのときに聞いた。
高山や古川の祭り屋台を作り上げた、飛騨の匠の技術は、律令時代から庸・調の税が免じられた頃から人材派遣で、薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺などと神社仏閣の建立にかかわった。飛騨の多彩な木材を活かす木工集団は、雪国にはぐくまれた祭りのパッションにもみられる。過酷な山国に、明治時代の経済を支えた製糸工場などの産業もこの熱情によるものであったか、緻密な切り絵の記念品は、飛騨古川の匠と悲しき少女を偲ばれるものだった。
写真は土蔵群に添う小路と古川祭りの飛騨の切り絵と製糸工場に向かう少女の銅像
