Issay's Essay -2ページ目

中世のふるさと8 -源平の合戦-

742 下関市の海峡まつりでの源平海上パレード

 源平二大勢力で、先ず政権をとったのは平氏で、平清盛は太政大臣とまでなった。
 『平家物語』には、平氏一族の知行国は30余か国、荘園は500余ヶ所、それらの多くは西国にあった。清盛は当時の中国(宋)との貿易で大きな利益を上げ、経済力を充実させ、瀬戸内海を勢力基盤としていたが、奢れる平氏久しからず。
 寿永2年(1183)先ず木曽義仲に攻められて都落ち。次いで、頼朝が弟の義経、範頼を派遣して一の谷の戦い、屋島の戦いと平氏を追い詰め、遂に、平氏の平宗盛、事実上は知盛が長門の彦島(当時は引島)に城を構え、幼帝安徳天皇をいただき、九州の水軍や山鹿、菊池、松浦など武士団を集めて源氏の進攻に備えた。
 一方の源氏は、周防大島まで来ると範頼は豊後の臼杵惟隆、緒方惟栄を味方につけ、義経は防長の大内氏、厚東氏、豊田氏、伊予の水軍までも味方につけた。周防国府の在庁官人で船奉行であった船所政利は櫛崎船と呼ばれる早船12艘を義経に献上した。(早船は長府の串崎海賊衆あるいは柳井の串崎という説もある)
 関門の海域や地理に疎い義経はこの協力を喜んだ。
 寿永4年(1185)3月24日、源氏840余艘、平氏500余艘(『吾妻鑑』)での合戦は正午ごろ始まり、はじめは潮に乗り平氏が有利に戦を進めたかに見えたが、関門海峡の流れが西流れになった機を見て、義経の猛攻は遂に平氏を追い詰め日没には滅亡させた。
 平氏の総大将宗盛と時忠は捕えられ、教盛・知盛ら武将のほとんどは入水、討死した。清盛の妻二位の尼は神器を奉じ、安徳天皇・建礼門院母子ともに入水。ところが建礼門院は源氏方に救われた。天皇と神器はその後も探索されたが、天皇は波の底に、神器の内、宝剣は失せてしまった。
 (源平合戦の模様は、下関でもしばしば語られ内容も様々にあるが大要は同じである)
 海戦に強いはずの平氏は、屋島で失敗し、関門海峡でも潮の流れで深追いして失敗。天皇を巻き込んで完全に滅亡した。ここで名実ともに鎌倉幕府によって武家政治が幕を開くことになった。
 決戦が下関で行われ、武家政治へと転換した封建社会は、元治元年(1864)12月、高杉晋作の下関功山寺挙兵から討幕運動が始まり江戸幕府瓦解、明治維新をきっかけに武家政治が終わり近代社会に向かう端緒の舞台が下関だった。
 写真は下関市の海峡まつりでの源平海上パレード

「グリンピース」に思う

741 初夏の爽やかさを感じるグリンピースと平成25年下関港に入港した日新丸(右)に残っていた傷

 この季節、食卓に上がるタケノコやフキそしてエンドウ豆は、何といっても初夏の色合いと香りをともない、まさに旬のイメージをそのまま運んでくれる。
 先日、取り立てのエンドウを少々頂き、莢(さや)から「グリンピース」を取り出す快感に季節を満喫した気分になった。同時に、莢の中に6~8粒がつやつやと綺麗に並び育った、自然の美しさにも感動した。
 吸い物や卵とじなどに、ちらっと添えた「絹さや」も彩が素敵だし、「さやえんどう」のシャキシャキした触感も嬉しい。もちろん「グリンピース」は、あっさりと煮豆、そして豆ごはんとして頂いた。
 マメ科の1・2年生の蔓草。原産地はエチオピア、中央アジア方面で中国から日本に8世紀ごろ伝わったとされる。メンデルの遺伝学に利用されたのもエンドウだった。
 ところで、「グリンピース」と言えば、捕鯨基地下関にとっては日本の調査捕鯨船団と「グリンピース」の船が幾度となく遭遇し妨害されたことを思い出してしまう。
 もともとは「地球の多様性の中で生命を育む能力を確保する」を目的にオランダに籍を置いた団体である。反核から気候変動、森林伐採、遺伝子工学、そして商業捕鯨など国際問題のキャンペーンに取り組んでいて、その名も「波を立てるな委員会」であったが、後に環境を意味する(グリーン)そして平和を意味する(ピース)をくっつけた造語「グリンピース」を造り改名している。
 ところが、その意図や実施に過激な行為もあって、批判を受けた。中でも、この組織にいた、ポール・ワトソンらは1977年に、「グリンピース」は軟弱だとして袂を分かち、エコテロリストの組織「シーシェパード」を設立し、反捕鯨のためであればと過激な行動を開始、2005年からの南極海の日本の商業捕鯨を妨害、2010年には和歌山県大地町の反捕鯨問題なども引き起こしている。(もちろん日本だけの問題ではないが)
 2013年4月、捕鯨母船・日新丸が下関のアルカポートに帰港した時、船体各所に残る傷跡は忘れられない虚しく悲しい傷痕だった。これは南極海で活動中の日本鯨類研究所の調査捕鯨船としての日新丸が、給油用タンカーからの給油中に「シーセパード」が妨害を加えたものだが、イメージとして「グリンピース」の迫害と思ってしまうのである。
 初夏の爽やかなエンドウ豆を味わうとき、いつも、もう一方の「グリンピース」を思いだしている。捕鯨基地と標榜する下関市としては、商業捕鯨となってからは調査捕鯨船団の出航、帰港の時のような盛り上がりもなく、学校給食などはあっても、市民としてはクジラに親しむ機会はまったく無くなった。「反捕鯨」さえどこ吹く風、クジラは遠い存在になりつつあるような気がしてならない。
 写真は初夏の爽やかさを感じるグリンピースと平成25年下関港に入港した日新丸(右)に残っていた傷痕

中世のふるさと7 -厚東氏と豊田氏-

740 宇部市棚井浄明寺から見る厚東氏の霜降城跡

 皇極2年(643)周防・長門の間にあたる厚東郡棚井(現・宇部市の一部)に配流された物部武忠が地名をとって厚東武忠と称したのが厚東氏の始まりと伝えられている。
 古代大和政権の豪族勢力の中に蘇我氏らとともにあった物部氏だが、仏像の尊信問題で反対の立場をとった物部守屋が、用明2年(587)蘇我馬子、厩戸王(聖徳太子)らに滅ぼされた。厚東武忠は、その物部守屋の末裔である。
 厚東氏は、旧厚狭郡東部の武士であったが徐々にその勢力を広げることになる。
 厚東氏2代・武基(草壁醜経と書かれた本があるが、そうであるなら長門の国司となっていて大化2年(650)に白雉を孝徳天皇に献じたという人物だが果たしていかがなものか)。3代・武道で、長保元年(999)に比叡山の僧・栄久を招いて吉部に吉部寺(後の持世寺)を創建、宇部に川津寺、厚東に正福寺を創建して祈願所とした。4代・武綱で東岐波に宇佐八幡宮を勧請し南方八幡宮の社殿を創建した。5代・武仁、6代・武晴で須恵に万福寺、棚井に神宮寺を建て祈願所にしている。仏教反対の系譜でありながら次々と寺院の建立は不思議なことである。
 7代・武光の時代にいたって武威は高まり、治承3年(1179)霜降城を築き引地、吉見にも支城や要砦を築いた。城は南北約660mのわたる霜降山4峰上に位置して、南から前城(標高247m)、本城(250m)、後城(240m・235m)で構成され、土塁や空堀などの遺構が認められている。ちょうど源平合戦のころ、一の谷の戦(1184)では平氏に味方していて、ここが陥ちてから、壇ノ浦の戦い(1185)では義経に属して源氏の制覇に助力している。
 豊田郡の開拓者として、平安時代中頃に周防権守藤原長房の子・藤原輔長が初代豊田郡領主としてこの地に下向し一ノ瀬に居館を構え定住したと伝わる。
 (豊田氏の系図では、関白藤原朝臣道隆の子孫と伝え、隆家、経輔を経て長房の代に周防権助に補任(天喜2年=1054)され、その子輔長が豊田姓を名乗ったとされるが、藤原系には輔長の名は見えず、在地領主として周防の地に根を降ろした豪族で系図は粉飾とみられている)
 本州西端豊浦郡の北東部山脈に分水嶺に広がり、木屋川がつくる豊田盆地の南東山中の一ノ瀬である。西側標高186mを山城にして領主の基礎を築いた。2代・輔平は豊田・大津両郡の領主、3代・輔行は豊田大領、4代・輔継は豊田惣領、5代・種継が豊田大領、6代・輔隆となり7代・種弘は応安2年(1167)正月、豊田郡司となった。
 平清盛全盛期の種弘は、子息種俊を郡内の肥中街道沿いの八道に、種房を稲光および宇内に配するなど、豊田郡周辺に確かな地歩を築いていった。
 源平争乱の時代には平氏地行国として当然平氏方についていたが大内・厚東両氏同様に源氏の味方になっている。戦闘に加わった実績は資料に見当たらない。
 写真は、宇部市棚井浄明寺から見る厚東氏の霜降城跡