中世のふるさと1 -シリーズの切掛け- | Issay's Essay

中世のふるさと1 -シリーズの切掛け-

729 下関市火の山からの関門海峡

 昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本家三谷幸喜)は、中世の初め平氏から源氏に移行して鎌倉幕府成立、いわゆる藤原氏を中心とした貴族が権力を握っていた時代から武士が支配する封建制度に変わる頃が舞台でドラマの主人公は北条義時だった。
 北条と言えば、西国では元寇を思い浮かべるがドラマはここまで進行しなかった。
 その時代に、下関の支配者たちはどうだったのか『下関市史年表』を繰ってみると、記述はまことに少ない。
 本州の最西端にある下関は、南東部が関門海峡を隔てて九州が間近にある。海峡は西の玄界灘から朝鮮半島、中国大陸に広がり、内陸と大陸とを結ぶ交通の要衝として船舶の寄港地でもあった。
 下関については『日本書紀』や『古事記』に「穴戸」「穴門」と書かれた地名あり、ほかに赤間(赤目)・赤間関(赤馬関)・関・馬関などとも称されたが、貞観11年(869)9月27日付の太政官符には、すでに下関とあるという。
 下関は、その地理的条件から、いわゆる縄文時代や弥生時代には朝鮮半島や中国あたりから人の渡来があり、多くの遺跡が存在して、発掘された甕や壺などの土器や石器、祭具、土笛、人面、植物や動物の骨などの遺品や遺構などから、その家族や集落を形成した生活文化も確認されている。
 昨年、延行の仁馬山古墳が新下関の落合新橋あたりからその姿がはっきりと見えるようになったが、この古墳時代(3世紀末~7世紀頃)に国内の文化は発達して国家成立の動きがあった。
 これ以前の、いわゆる神代というか仲哀天皇などこの地とかかわりのある天皇にしても生没年や在位など不明瞭であるし、大化の改新(36代孝徳天皇)あるいは「壬申の乱」が終わった第40代天武天皇のころようやく古代を抜けるが、そのころが古墳時代末期であり、大和の豪族らが勢力争いをしながらも政権を保ち、そして東アジアとの交流、律令国家へと地方の豪族を傘下に利用しながら発展させていたのであろう。
 この間、遣隋使・遣唐使などの航路で瀬戸内海が利用され、関門海峡のある穴門(長門)には、山陽道最終の臨門駅に外国人接待のために設けた「穴門館」という駅館があったというのだが、その遺跡はいまだにはっきりしていない。
 そこで年表では、あまりにも少ない事実を少しふり返ってみたいと思った。
 とはいっても郷土史家でもない私は、たいそうな文献を探るわけでもなく、手持ちの本(例えば、下関市教育委員会発行の本や、山口県や下関市のことなどが掲載された百科事典や地名辞典、伝説や小説など)から「中世前期のふるさとの歴史」をみることにして、その時代の事跡に接したとき自分が納得できればとの思いで「受け売り・拾い読み」のような「メモ書き」をすることにした。
 さて、どれほど続くことか、或いは大内興亡になるかとも思っている。
 写真は下関市火の山からの関門海峡