旅の記念品35 -波のり鯨-
昭和30年代、下関の漁港に活気があったころ、造船、船具、魚函など市内の水産漁業関連業者も活気があった。ふと、漁網会社の方が「生月(いきつき)に行って来た」と言われ『平戸・生月』を意識し、それが長崎県であることを知った。
長崎県北西部、平戸藩松浦氏の城下町・平戸は島である。鎖国前は中国・ポルトガル・オランダとの国際貿易港、平戸の名前はヒラドツツジで有名だった。
昭和52年(1977)に、全長665m幅10.7mのトラス吊り橋構造で深紅の大橋が九州本土と田平地区に渡され、さらに平成3年(1991)平戸島から長さ960m、幅6.5mのスカイブルーの生月大橋が架けられた。ずいぶん後の架橋だから、当時は船で渡ったであろう「生月に行って来た」と言われた実感を、私は後になって感じた次第である。
私が、最初に平戸に行ったきっかけは吉田松陰である。彼が、藩の許しを得て旅立ったのは嘉永3年(1850)8月25日、21歳で、最初の第一歩が「九州遊学」の平戸行で『西遊日記』の冒頭に「心はもともと活きている、活きているから、何か物事に接すると触発され、心は感じ始める。こうして啓発されるから旅は有益である」(要約)とあった。
平戸を訪ねたとき、生月は隠れキリシタンの集落があり、旧藩政時代は西海捕鯨随一の島であることも知った。その後もしばしば平戸・生月を訪ねたものである。
ここでは、生月の捕鯨について記してみたい。
縄文時代の遺跡に石銛などがあって捕鯨の行われたことは推測できるが、専門的な捕鯨を始めたのは、紀州から伝わった鯨組の組織であり、生月では享保10年(1725)から館浦の田中長太夫と畳屋又座衛門正勝の共同経営の鯨組による突き取り捕鯨が始まりと言われている。田中が経営を引いたのちに、漁場は島北端の御崎に移され、網掛け突き取り捕鯨を採用して軌道に乗り、畳屋氏は平戸の殿様から益冨の姓を頂いた。
その益冨組は、壱岐を始め西海各地の漁場に進出して繁栄、発展を続けた。益冨組が享保10年から明治6年(1873)までに捕獲した鯨は21,970頭、収益は332万両、最盛期には3千人以上の人々が働いていたという。
網組の捕鯨が終わっても、沿岸では細々と銃殺捕鯨が続けられていたが、明治時代の終わりには共同経営・共販体制をいち早く確立して漁業経営を順調に伸ばした。
イワシ不調のときはアジ・サバ大型巾着網に転向して東シナ海から日本海まで出漁し大量の漁獲量を誇った。
生月大橋を渡ってすぐ近くに平戸市生月町博物館・島の館があり1階展示室中央に大きく江戸時代の捕鯨の様子をジオラマ展示し、空中には10mもあるミンククジラとツチクジラの骨格があり、ほかに二階展示室には島の暮らし、隠れキリシタンなど注目する展示物が並ぶ。島の自然の見どころは塩俵の断崖などもあるが、生月魚籃観音(基壇3m、像高18m、重量150トン、昭和55年4月29日建立)は、世界平和と海難者魚介類の霊を追悼し、漁船の航海安全を祈念するために建立されている。
記念品は、マッコウクジラをデザインしたものであろうか?何時何処で求めたかの記憶もないが小さなもので「平戸波のり鯨」と書かれて、ケースの片隅に置かれていた。和歌山の太地、佐賀県唐津と共に古式捕鯨を思い出させる記念品である。
写真は生月町博物館の捕鯨展示コーナーと「平戸波のり鯨」
