角島雑感
昨年10月の灯台写真展で、環境を語る写真としてのダルマギク撮影を目的に角島を訪ね、どうにかこれはクリアして、小学校敷地内の端に建つ歌碑に立ち寄ってみた。
角島は、古くから良質ワカメの採取が盛んだったことは、昭和38年(1963)秋の奈良平城京跡の発掘調査で、たくさんの土器などとともに「長門国豊浦郡都濃嶋所出穉海藻天平十八年三月二十九日」と書かれた木札(縦273mm、横36mm、厚さ7mm)が出土していることでもわかる。角島大橋を渡ったすぐ左の広場高台に「平城宮若海藻上進之地」碑と解説碑(速水史朗氏製作.1994)がある。
大化の改新からほぼ100年、聖武天皇の時代(和同開珎が利用され日本書紀が奏上されたころ)防人が西国に配備された。角島のワカメは朝廷に献上(税金として差し出し)され天皇の食膳に供されるために、島の若者は国司に引率されて「干しワカメ」とともに鮮度を落とさない工夫もして「生のワカメ」も運ばれたであろう。こんな説明板がこの歌碑の側に立てられている。
歌碑には「角島の迫門の若布は人のむた荒かりしかとわがむたは和布(万葉集巻16読人知らず)」とあり、これは「角島の瀬戸のわかめは、他人には荒々しかったようだが私には優しく素直だった」と、角島の純情な乙女を九州西岸の防備に当たるために派遣された防人たちが「わかめ」になぞらえて詠んだものと解説されている。この歌碑の文字は、角島出身で長く下関で教職に就かれていた書道家・道岡香雲氏である。
この由緒ある角島は、面積4.1平方キロメートル、周囲約17㎞、山口県の西北にある日本海(響灘)に浮かぶ島で、牧崎と夢崎の二つの岬が牛の角に似て突き出しているので「角島」と呼ばれた。以前は、特牛港から渡海船で20~30分もかかる農漁村の離島だったが、平成12年(2000)11月、本州の豊北町神田と島の東端を結ぶ角島大橋(全長1780m、幅6.5m)が完成したことで、車での往来が可能となった。
その当時の人口は1000人ほどだった。その後、平成17年(2005)には豊北町など4町が下関市と合併して、角島も新しい下関市の行政範囲となった。
島には、日本でも5ヶ所しかない特大のフネレルレンズを使用し明治9年(1876)に初点灯した角島灯台(令和2年12月重要文化財に指定)があり、現在は角島大橋などとともに観光資源にもなっている。
万葉歌碑の建つ、角島小学校は3月に廃校となって半年ばかり、その校庭を一望したとき、もちろん児童の姿も声も無い。様々な色に塗られ虹色に輝いていた遊具は何となくくすみ、ポールにはためいていた校旗も無いことが寂しかった。
令和2年は、角島大橋20周年だったが特別な盛り上がりも無かった。この橋が出来たことが果たして角島の島民にとってどれほど良かったのか?もちろん消防や医療などの緊急事態は大幅に改善されたことは確かだし、観光客もこのところ年間100万人位になっているという。
ところが、人口はこの20年で700人程に減少している。これは、少子高齢化社会で何処も一緒だと言って良いものでは無い。(下関市過疎地域自立促進計画によれば)「農漁村の基盤が脆弱だから若年労働力は他都市に流出してしまうのだ」と当たり前のごとく書かれているが、簡単に言わないでほしい。子供たちが減少したから小学校は廃止、スクールバスで13㎞も離れた統合した学校に通わせなければならない。こんな場所に、仮に仕事場所があったとしても若い夫婦が居住してくるはずもないであろう。
教育の現場を確立しなければ地域の先行きはおぼつかない。文部省の方針にとらわれず、古くから教育先進の山口県としての英知が過疎化対策の先駆けとなる発想で教育に取り組む必要があるのではないだろうか。
角島の、自然と現在の人情に支えられた環境が、100万人の観光客を迎え支えているが、その対応は老人ばかりでこれも過疎地の現実である。夏場の車の渋滞、或いは治安を思えば架橋の功罪はと思わざるを得ない。
橋でつながったからもう離島ではない!離島以上の負の現実を将来の地域振興を見据えた行政の真剣さを必要としているのだ。あのころの離島振興策の原点を、今こそ思い起こさなければならない気持を想起させる校庭の風景だった。
写真は廃校になっている角島小学校校庭
和布刈神事とワカメのこと
旧暦元旦の早朝、関門海峡の両岸で和布刈(めかり)神事がある。
門司の和布刈神社では、明るく照明された神社前で多くの報道陣を集めて賑々しく神官がワカメを刈る様子がテレビなどで放映されるので有名だが、対岸の下関側ではひっそりと厳粛に行われる。いずれも大切な神事だが公開義務のある文化財指定の違いである。
下関側の長門一の宮・住吉神社の起源は、神社鎮座のはじめ践立命(ほむたてのみこと)が神功皇后の勅により壇ノ浦の和布(わかめ)を元旦の供物として献じた故事に始まり、秘事としてこれが連綿と続けられ、同神社の祭事の中でも最も重要なもので、文化財指定は頑なに否定されてきた。
もう少しこの神事を書いてみると、晦日の朝に餅をつき、大宮司はその夜の定めた時刻に神官2人と氏子中から選ばれた男子6人とで神前に、出向きの旨を奏上して装束を整え、神官の持つ神鉾を先頭に松明を連らねて壇の浦に向かう。この道は和布刈り道と呼び、往路と帰路は違っていた。(これは現在の道路事情で変った)壇の浦のみもすそ川尻東に火立岩があり、これに注連縄を張り篝火を焚いて餅を備え、神事を営む。それから海に入って和布を刈り、これを持ち帰って元朝の神饌として祭典が行われる。
壇の浦周辺の漁師たちは、和布刈祭がすむまでは和布を採って売ることは堅く戒められていて、神事についても「神事の松明を見たもの神威はかり難し」と言われ、これを覗き見て片目がつぶれたとの話もある。この日は境内から参道に掛けて、物売りの屋台が軒を連ね、特に農具・植木の市が立ち早朝から多くの参拝客でにぎわう。
その元朝の祭典は、本年2月12日も午前6時から確かに催行されたようだが、私が出かけたのは正午ごろだった。何時もならそれでも十分に賑わっていたのだが、本年は屋台が3軒、人影(参拝客)は全く見えないという状態だった。
毎年、市内の随所に掲示が出されバスにはポスターなども貼って広く人の目についていたのだが、本年はコロナ禍でこれらの宣伝は差し控えられたのだろう。これが影響していたようだが、従来と全く違った雰囲気に戸惑いも感じた。その中で見つけた写材が、回廊に干された和布で、これは今まであったか如何か?とにかく初めての発見であり圧倒された。
いつもの様に「開運ワカメ」を幾袋か頂いて帰った。
さて、このワカメは、日本人の食卓には欠かせない存在で、私の家でも朝食の味噌汁の具に豆腐や大根などとともに定番である。
ワカメは、日本各地の沿岸に生育する海藻で、長さ1メートルほど、冬から春にかけて盛んに生育し扁平な中筋から羽状の葉が伸び初夏になると基部に胞子葉(めかぶ)を作り、遊走子嚢をつけ枯れてしまう1年生である。
若さに通じることから、漢字には「若布」があてられるが、和布・稚海藻などがある。
食用として干物のほか、酢もの、和えもの、汁の具、煮物、かき揚げなど。湯通しした「めかぶ」は、みじん切りにするとねばねばしてくるが、わさび醤油で食べると美味しい。
ワカメには、アルギン酸やカルシュウム、ヨードなどの栄養分が含まれ、高血圧や動脈硬化を防ぐことも期待されている。
生ワカメ、干しワカメ、塩蔵ワカメなどが流通し、鳴門や三陸外海ものが有名だか、関門海峡から日本海沿岸のものは、万葉集にも詠まれた角島和布のように古く良質の和布が生産されていた。このことは次回に触れるとして、最近は養殖も盛んである。
写真は住吉神社境内に吊るされた生ワカメと和布刈祭開運わかめ
旅の記念品16-隠岐の駅鈴-
横綱牛の記念品で隠岐を語ったので、続けて隠岐で最も印象深く残っている駅鈴を取り上げておきたい。
駅鈴(うまやのすず・えきれい)は、千三百年の昔、孝徳天皇大化2年(646)駅伝の制度が制定され、官人の公務出張にさいして、朝廷から支給された鈴で、中央政府から諸国の国府に対して支給されていた。
駅鈴は、諸国の官人が公用で都へ上京するとき、また中央から地方に公務で赴くとき、駅の馬や人夫を徴用するための身分証明として使ったもの。即ち、都に通じる主要道路上(東海道・山陰道など)5里(20キロ)毎に駅を設け、馬や人夫を常備し、公用の官人の通行に供した制度があった。
駅伝の制度が定められた理由は(1)交通道路未発達のため、迅速、火急を要する通信のために駅伝による駿馬を常備する必要があった(2)諸国から、貢税の運搬、官人の通行のため、馬や舟を常備する必要があった。
隠岐国には、2個の駅鈴が配布されており、現存している駅鈴は此処にある2個だけということで、奈良時代の交通資料として重要文化財に指定されている。
澄み切った音色は古代の響きを伝えている。
この隠岐国駅鈴は、国造の末裔である玉若酢神社宮司、億岐家伝来の保管である。江戸時代、光格天皇寛政2(1790)年に新宮殿(京都御所)が落成した時に、古式に倣って隠岐の駅鈴を儀式に用いられこのとき駅鈴を納めるに使った朱塗りの唐櫃を御下賜されこれも重要文化財として億岐家宝物殿に保管されている。
私は、宝物館で駅鈴の話を長々と聞きながらどうしてもその音が聴きたいというと、実物の鈴の音を採ったテープがありますからと聞かされた。それはあたりの静寂を突き抜けるまさに凛とした涼やかな音色でその一瞬に感動させられた。そして、どの様に分析されたのか、金属の成分分析をされて復元された鈴があった。お望みならと、うり二つの鈴を見せられその音色もまずまずだった。値段も手ごろだったので隠岐の記念品として分けて頂いた。
余談になるが、後になって松阪市の本居宣長記念館を訪ねたとき「宣長が、2階の住まいから家人を呼び出したときに使用したのが鈴です」と、展示室のケースの片隅に置かれた鈴が、まさに駅鈴だったのに驚いた。奈良時代に使用されすでに散逸しているものの一つの駅鈴が国学者のもとにあった。宣長の時代、まさかレプリカでもあるまいに・・これが本物だったら重要文化財なんだが?・・不思議な気持ちだったが詮索はしなかった。
私が求めたものは、レプリカではあるが、気分なおしに時々これを遠慮なく振って鈴音を聞いている。
写真は、本物そっくりの駅鈴と隠岐の島の億岐家宝物館


