Issay's Essay -39ページ目

旅の記念品18 -木曽路木工品-(2)-2

631 中山道木曽路馬籠の藤村記念館入り口と木工品のぐい呑み

 宿場の主であれば、行きずりの旅人から江戸方の黒船や生麦事件、松陰の踏海事件、あるいは京都での禁門の変、長州征伐などの情報も入って来る。
 半蔵は、勤皇派はと佐幕派のうごめく世相の中で、主義主張は持っていても、木曽谷の住民として中立を旨に村民のため生き抜いていた。
 『夜明け前』第一部の終わりには「一か月以上も続いた〈ええじゃないか〉の賑やかな声も静まって‥…半蔵の目の前、何となく雄大な気象が浮かんだ」と、未来への期待が膨らむ。幕藩体制からのご一新。新政府からも半蔵は馬籠戸長を命じられていた。
 ところで『夜明け前』第二部に入って、新政府になると木曽谷の伐木はなお一層厳しくなり入山さえも禁止となる。明治6年、半蔵は、筑摩県福島支庁(旧山村代官所)からの出頭命令で、馬籠から木曽谷を辿って50数キロ七つ目の福島宿に付き、羽織はかまの正装で出頭すると、役人からの御沙汰は「今日限り、戸長免職と心得よ」と、一枚の紙きれを渡される。半蔵は、山里の暮らしが良くなればと山林立入嘆願書を起草していたが、新政府はこれを察知しての解任指令であった。
 木曽谷の人々は苦しくっても、細々と山の恵みで生きその知恵が生活のすべてに活かされていた。生きるか死ぬかの請願書は、提出前無惨につぶされたのである。
 「ご一新がこんなことで良いのか」。ご維新の近代化、夜明けを信じていた庄屋・戸主を務めた人の、社会への憧れや願望が、地域社会の中で葛藤しながら、無気力に瓦解する様は、現世の何処かにも存在するが、馬籠への帰路に就いた半蔵の無念が迫る。
 さて、福島宿から馬籠宿の間には、竜宮城から帰った浦島太郎が住んだという「寝覚ノ床」、木曽ヒノキの集散地として栄えた上松、常勝寺の須原、外敵を防ぐため街道を曲げて作ったという野尻宿、ひっそりとした三留野には大正11年(1922)に掛けられた桃介橋(福沢桃介が水力発電のために架けたもの)がある。そして妻籠宿。昭和43年(1968)から町並み保存事業がすすめられ、昭和51年(1976)には重要伝統的建造物群保存地区に選定され多くの観光客を集めている。本陣、脇本陣、歴史資料館などが整っている。伊那への追分、吉川英治で有名になった「男滝・女滝」を越えれば、木曽十一宿一番南の馬籠宿。石畳の坂道、馬籠本陣は明治28年(1895)の大火で焼失し、昭和22年(1947)旧本陣跡に藤村記念館は建てられた。脇本陣史料館などがある。
 木曽路の記念品をと思って書き始めたが、長々と島崎藤村の『夜明け前』に終始してしまった。実は、木曽路に並んでいたお土産は、手打ちそば、五平餅、栗菓子、地酒、自然水、それに晴雨兼用のヒノキ傘、そして木工品などで、木工品とて俎(まないた)、おひつ、木桶、曲げ物(弁当箱など)、櫛製品、ろくろ細工(盆・椀・皿・湯飲みなど)、タンスや漆器など。おしなべて持ち運びに不便で、さして必要なものもなく何か買った記憶もない。
 今、見当たるものは馬籠脇本陣の側で求めた小さな木製のぐい呑みだけである。
 写真は中山道木曽路馬籠の藤村記念館入り口と木工品のぐい呑み

旅の記念品18 -木曽路木工品-(2)-1

630 中山道木曽路の福島宿関所跡と山村代官所

 妻籠、馬籠を訪ねたのは5度ばかりだろうか。この内、長野の善光寺からの帰りに妻籠で宿泊した記憶はあるが印象はほとんどない。一番の最近は平成23年(2011)11月で、この時は島崎藤村の『夜明け前』の主人公・青山半蔵が代官所に呼び出されて行った福島宿の状況やその道のりなどを感じたいとおもってのものだった。
 映画やドラマなどでも関所の情景はある。下関にも関所が在ったかも知れない。箱根では街道の印象は残ったが関所のイメージは残っていない。いずれにしても実際は、どのようなものだったかという実感がなかった。
 東海道の箱根や荒井、中山道の碓氷などと並び天下の四大関所の一つだった福島関は、関所の建物を復元していると聞いて、チャンスがあれば出かけたいと思っていた。
 中山道のほぼ中ほど福島宿に着いたとき、木曽川に落ち込むような断崖が狭まった集落のやや高台に、関所跡の建物などが復元され一帯が公園となり史跡となっていた。いかにも関所らしい門構えから上番所・下番所などが建てられ、関所提灯と幅広い幔幕が張られ風格をそなえた建物にみえた。これが資料館になっているのだが、特に厳しく取り締まっていた「入り鉄砲、出女」に関する女手形の証文や沢山の火縄銃などが並べてあった。
 資料館の女性は「近くの駐車場の近くから登ると、島崎藤村の姉が嫁いだ「奇應丸」の薬で有名な高瀬家がありますよ」と親切に案内された。駐車場のその場所には綴れ折の石段が高く続いており「藤村初恋の小路」の看板と「まだあげそめし前髪の林檎のもとに見えしとき・・・」の『初恋』の詩碑が立っていたが、登っていく気力はなかった。
 目的は、対岸の山村代官所跡と興禅寺である。先ずは興禅寺、ここは山村氏の菩提寺で東洋一の広さを持つ石庭があるというのだが、境内に入る前にかなり広い庭二つがあってそれから宝物館、当時境内が工事中で順路が違っていたのは後で気付いたが、期待した石庭は、視覚的な制約があったかも知れないが、京都の竜安寺とはかなり違う印象だった。
 このお寺は、木曽家の菩提寺で木曽義仲のお墓があって、それをお参りしたとき種田山頭火の句碑『さくらちりをへたるところ旭日将軍の墓』を発見、さらにもう一つ『たまたま詣でて木曽は花まつり』というのもあった。
 山村代官所跡の屋敷が現存するのは、下屋敷の一部で、戦国大名木曽氏の旧臣だった山村氏が関ヶ原の功労で木曽代官を命じられ同時に関所もあずかって、明治維新まで木曽十一宿を含む木曽一帯を治めてきた。
 「木曽路はすべて山の中である」これはあまりにも有名な『夜明け前』の書き出し部分である。平坦地の少ない木曽谷に住む人々にとっては、そのすべてを山に頼って生きるしかなかったのだが、藩制時代は尾張藩の直轄地としてそのほとんどは住民の立ち入りを禁止され、一部雑木や下草などの利用は許された場所でも停止木と呼ばれる木曽五木(ヒノキ・サワラ・ネズコ・ヒバ〈アスナロ〉・コウヤマキ)については伐採禁止。「ヒノキ一本首一つ」まさにその罪で打ち首になったものもいる。
 『夜明け前』の青山半蔵は、藤村の父・島崎正樹がモデルと言われ、馬籠宿の庄屋・本陣・問屋の家に生まれ地域村民の暮らしを支えながら、本陣の主として少なからず宿場の行く末に気を配る立場にあった。
 写真は中山道木曽路の福島宿関所跡と山村代官所

旅の記念品17 -竹田姫だるま-

629 史跡岡城址と竹田姫だるま

 現在の大分県の一部豊後の国の岡藩(現在の竹田市)は文禄3年(1594)に入封した中川秀成から13代・中川久成まで、一度も変わることなく中川家が7万石の藩主として存続した。その居城・岡城は緒方三郎惟栄が文治3年(1185)に源義経を迎えるために築城したと伝えるが定かではない、後に大友氏の一族・志賀氏が改修そして秀吉の時代に、中川氏が入府した。
 岡城跡(史跡)は、大手門、西の丸、家老屋敷、鐘楼門跡などが残り眼下に稲葉川、遠く阿蘇、祖母、傾山などの展望が素晴らしく、全国桜名所百選の一つでもあり、朝倉文雄制作の滝廉太郎銅像がありその近くには土井晩翠の『荒城の月』詩碑も建っている。
 また、岡藩の江戸後期には藩医の出身である文人画家・田能村竹田が出ていて居宅・旧竹田荘(史跡)が存在する。
 この大分県の竹田地方には、正月に郷土人形の姫ダルマを使った「投げ込み」という行事があった。そもそもは「起き上がり」「福女」などと呼ばれていた。この姫ダルマのモデルは三百数十年前の岡藩の下級武士・雑賀氏の妻「綾女」と言われている。
 由来は「ある年末のこと、禄高が少なく“いさかえ”も絶えず、雑賀家を出ようとした綾女が行く当てもなく道端に倒れていたところを、正月になって夫が救い出した。その出来事によって、家族の愛情が深まった雑賀家は、その後夫も昇進して繁栄した」というもの。
 そのことから家族円満商売繁盛の象徴として女性の形のダルマが作られるようになり、この地域の青年団などにより、それぞれの家庭が栄えることを願って、そのダルマを正月の未明に各家々に配って回る風習「投げ込み」が行われるようになった。配る人をホギト(祝う人)といい、贈られた家は祝儀を渡してダルマを家に飾った。
 「一家の支えである奥さんが明るく元気なら、その家は安泰。昔は、農作業などそれぞれの家が助け合わないと暮らしが成り立たなかったため、こんな風習が始まった。
 大正時代には5~6軒のダルマを作る人もあったという。戦後はいなくなって、伝統があると言っても、一旦途絶えると再現するのは難しいことで、これを復活させようと声をあげ苦労して復したのが、後藤姫だるま工房の先代である。
 かわいらしさと気品を備えた姿がいろいろ紹介され、そのフアンも広がり、作る人、贈る人、貰って喜ぶ人があって、竹田地方は2012年の豪雨被害をも乗り越え、お正月の縁起物がようやく民芸品として復活してきた。姫だるまの後ろには厄除け子孫繁栄を願う宝珠が描かれている。
 写真は史跡岡城址と竹田姫だるま