鹿児島への旅(4)-1
兄弟家族で鹿児島への旅を思い立ったのは昨年1月のことで春になったら出かけてみようよ!と話し合って、いよいよその春が来たとき新型コロナ感染流行の兆しでこれをやむなく延期していた。すでに1年を経過し、コロナは一応都会に集中して第4波の声もいくらかは聞こえるが、思いきって2泊3日の予定で出発した。
鹿児島といえば、仙厳園(磯庭園)だけはと拝観していない一人に是非と立ち寄ったものの尚古集成館と共通入場券(1000円)となっていた。本当は両方をじっくり拝観したいところだが庭園だけにして常識的に西郷南洲顕彰館と南洲墓地。黎明館や維新ふるさと館、城山公園も申し訳ないが割愛して、西郷隆盛銅像や照国神社とその周辺「歴史と文化の道」を散策、この辺りはガス灯が沿道沿いに建っているが、その総延長は仙台駅前の五番街を抜き日本一になったと聞いていた。たまたまガス灯の点検掃除をしていた作業員がいたので聞いてみると「2ヶ月一度の作業、火山灰が降りますからねぇ」といわれる。こんな努力もあって町全体が何となく美しく見えるのだろうなと感じた。
天文館あたりで食堂に入った。手の消毒は勿論だが狭い入り口で一人一人体温検査である「大丈夫ですよ!」と愛想は良いが、あのピストル式体温計は気色の良いものでは無い。食堂内は広く気分の落ちつく空間だった。店員さんに「明時館跡の碑がこの近くにあるでしょう?」と訪ねてみたら、少し間があって「あれは、2キロ位のところです」何と思い違いをしているのか?それ以上はこちらも黙ってしまった。現在は、天文館は色こいい「文化通り」と呼ばれる南九州一の繁華街だが、安永8年(1779)に島津重豪の命によって天文観測が行われた場所で、京都や江戸に次いで設けられた天文台で、天文館通りとはこれに所縁の名である。今に伝わる鹿児島暦もここでうまれた。食事が終わってアーケードを潜ると、すぐ近くにその石碑を確認した。
鹿児島市内に「荒田」という地名があり荒田八幡宮が鎮座している。祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命で、広い境内にはご神木の巨大なクスノキがあり以前はマムシ除けに利益のあるお宮だが、ビルや住宅街に囲まれた現在は、文教や海運、安産の面で篤い信仰があるという、社殿の横には「田ノ神さま」なども祀られていた。
近くの高台には長島美術館がある。市街地を見下ろす展望台として有名なので、城山公園の代わりに登ってみた。午後は気温が上がったせいか、噴煙が少し見える櫻島も霞んでいる。ここの屋外彫刻も素晴らしいコレクションである。
鹿児島市郊外に清泉寺摩崖仏がある。かって、川辺の曹洞宗宝福寺の末寺だった清泉寺は、中世から近世にかけて島津氏に崇敬され栄えていたが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で廃寺になった。旧清泉寺境内の跡には石垣や覚卍和尚以下の墓、五輪塔群などが苔むして散在するが、私の目的は摩崖仏で、本尊の阿弥陀如来摩崖仏は低い位置ながら尊像も見事、他に、島津忠良を供養した在家菩薩像と妙有大姉二体の摩崖仏を少し見上げる場所に発見したときは感動だった。やはり、此処を目指して来た甲斐があったと思った。
久しぶりに、すこし塩分のある指宿温泉に宿泊、夕食はカツオに黒豚のしゃぶだった。
写真は、清泉寺摩崖仏の阿弥陀如来と天文館跡の石碑
バイオマス発電所
我が家(下関市彦島迫町2丁目)の西方、直線距離約500m、道路を歩けば約15分ばかりの、海岸に面した約4万5千平方kmの敷地(同迫町7丁目)に、一昨年(2019)の夏ごろから建設工事が始まったバイオマス発電所が、約2年半を経て外郭工事が殆ど終わり、住民希望者への説明会が実施された。
一度に10名単位で4日間、都合8回。2021年4月下旬、75%の進捗状況で、あとは細部の配管、配線、構内の舗装、外郭整備、それに並行して設備の検査、作動点検、各機械類の試運転など。この間随時、バイオマス燃料積載船の入港などが来年(2022)1月まで続き、来春2月には営業運転になるというのである。
町内の発電所新工場、早速申し込みをしてその予定日に見学させて頂いた。
挨拶と施設の説明のあと構内で外観を見ながら工事状況を見学、その後、質疑の時間など入れて約1時間半の予定だった。
そもそも、よく耳にするバイオマス発電は、生物資源を活用する発電とは思っているが、果たして燃料は何だろう?木材にしてもペレットやチップなどもある。町内の回覧もいい加減に見ていたことで全くの素人である。
九州電力傘下の九州未来エナジー㈱直系の下関バイオマスエナジー合同会社により、建設し、完成後は同社が営業運転するという。
当日は、売電先の中国電力(株)がその分岐点の所で作業されていた。
燃料は、木質ペレットとPKS(パーム椰子殻)が主で、地元の県や市から木質チップの使用も要望されている(これは条件次第)。木材を燃やす、これはCO2を発生するが「カーボンニュートラル」の考え方で環境問題に影響ないとここでも説明があった。
燃料は年間約31~34万t(1000t/日)、水は5000t/日、これに相当する排気や水蒸気、排水、或いは木灰が排出されることになる。発電出力74,980KW(一般家庭約14万世帯分)と説明、発電効率は約40%と言われたが・・すこし良すぎる感じもしないではない。
現場を歩きながら、表の港湾道路から少し入っての設備はやはり格段に大きいと感じた。ボイラーやペレットサイロなどの高さは約30m。足場や構造体の最高部は約50mある。ボイラー下部から排出される灰などを処理する施設はそこからトラックなどに直接積み込まれる高さがあって、トラックヤードになっていた。
蒸気タービンと発電機は3階部分にすでに据付は完了しているといわれるが、そこまで登ることも無く、これは一台だけの設置で、定期検査の期間一年に1ヶ月は休止期間があると現場説明された。(発電プラントをこれだけ長い間停止ししていいものか。これは不思議な感じだった)。港湾施設からのペレット運搬はトラック輸送。ペレットの輸送船は7月ころ入港と聞いた。
今回の説明は、今から始まる検査試運転の工程で時折安全弁から蒸気噴出、機械設備からの試験装置などからの音が出ることの予告であり、出来るだけ防音に配慮するがそのことを伝えておきたいとのけん制だったか。
環境問題、大きな問題はなさそうだが、実際に稼働する運転状況の音を感じていない。例えば、タービンや発電機の回転による音や振動はどれほどのものか?鉄骨構造の建屋、しかも金属板の壁面で果たしてどれ程の遮断効果があるだろうか。共鳴の音響も気になっている。粉塵対策は可成り気配りした施設だと感じたが、排気量の多さ灰の排出量にもまだ気がもめるところではある。
写真は燃料用ペレット(サンプル)と建設中の発電所ボイラー設備
旅の記念品20 -萬福寺魚梆文鎮-
京都宇治といえば先ず平等院である。私が2度目に宇治に向かったのは平成15年(2003)で、この時は名門カーフェリーだったので大阪南港から宇治西インタ-まで高速、途中で食事を済ませても平等院には午前8時前に到着。当然、開館と同時に入館した。
資料を見ていると山形からの高校生、修学旅行の一群が通り過ぎ、鳳凰の展示された部屋でレンズ付きフイルムであろうか誰かがシャッターを切った。そのカメラは暗い場所ではフラッシュが点く、監視員の女性が「撮影禁止です」と大声で叫びその方向に走っていったようだが、誰だかは解からなかったかもしれない。
レプリカでも良いから、文化財に親しめる(写真が撮れる)場所がほしいものだ。
平等院は、帝釈天、十一面観音地蔵菩薩、別室の壁画「阿弥陀来迎図」も素晴らしいし、池の対岸から見る鳳凰堂(十円硬貨の絵柄)は、何時見ても美しい建物である。
そして平等院のそばを流れる宇治川は、源平争乱のとき佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをした場所であり見落とされない場所でもある。
ところが、下関人として宇治といえばやはり訪ねておきたいのが黄檗山萬福寺である。
「山門を出れば日本ぞ茶摘うた 菊舎」の句碑が三門前に建っている。「またやって来ましたよ」と呟くだけである。その年は下関出身の一世を風靡した美濃派の女流俳人・田上菊舎生誕250年だった。しかしここで何があるということも無く、この句碑に出会い、そして萬福寺に入るのである。
萬福寺は、曹洞宗・臨済宗とともに日本の三禅宗の一つである黄檗宗の大本山で、中国福建省から招聘された隠元禅師が、承応3年(1654)30名の弟子とともに来日したときは63歳だった。万治元年(1660)隠元は将軍徳川家綱に拝謁、万治3年(1660)には幕府によって宇治に土地が与えられ、翌・寛文元年(1661)隠元は新寺を開創し黄檗山萬福寺と名付け、以来建立が続けられ延宝7年(1679)にほぼ完成するのだが、隠元はこれをまたず寛文13年(1673)世寿82歳で示寂された。(皇室から大光普照国師を宣下されている)
隠元禅師は、日本に滞在中、仏教文化にとどまらずインゲン豆・スイカ・孟宗竹・レンコンを食生活に、また普茶料理も広めた。
現在、約12万7千㎡(4万2千坪)の禅宗大寺院の境内は、回廊で囲まれた23棟の明朝建築様式の堂宇が左右対称に配置され、国内では数少ない中国情緒のある七堂伽藍であり、そのすべてが重要文化財に指定されている。
三門をくぐると正面に天王殿、その奥に大雄宝殿(本堂)その奥に法堂と西から東に一直線上に並んでいる。
天王殿には、弥勒菩薩の化身といわれる大きな金色の布袋像が中央に安置され、その背後には本尊と対峙するように韋駄天像が安置、大雄宝殿はチーク材を用いた寺内最大の建物で、本尊・釈迦牟尼仏像、脇侍に阿難と迦葉。さらに十八羅漢像を安置。書くと限がないが、黄檗のお経には鳴物(木魚・太鼓・鉦など)と合わせるものがあるそうで、その木魚の原型といわれる大きな魚梆(かいばん=ぎょほう=開梆・かいほう=魚鼓・ぎょこ)が回廊に吊るされている。これは時を知らせ、集会をかける合図に叩いて用いられる。
説明書には、丸い木魚は魚梆の頭と尾を結んで円としたもので霊魂不滅の象徴として、仏教倫理の基本である「善因善果、悪因悪果」の因縁を表したものだが、これを鳴らした時の流れは再び返るものでは無く、一会一期なるがゆえに、伸びたままの形になっている。鯉に似た姿で玉をくわえているのは、私たちの人間の心になぞらえて、貪・瞋・痴の三毒(欲張り・立腹・愚痴)を表していて、三毒のない世界を即ち極楽浄土というと書かれていて、言いかえれば、この玉はあぶく(煩悩)、これを打ち鳴らすことで多少なりと三毒を浄化、煩悩から解放されるのだという。
広い境内は、撮影自由、観光客も監視員もいない、しかし無作法は必然的に遠ざける雰囲気である、まさにここは穴場であろう。「正法眼蔵」その心理にたどり着くためには、自分自身の心に向き合うことというのが「黄檗宗」の教えとか・・・。
寺を出るときは、もう一度、布袋様の前に行く。手を合わせ、心を鎮めると、大きなお口は煩悩を吸い込み、徳を授けて下さるというのである。
田上菊舎は、寛政2年(1790)3月、初めてここを詣で、黄檗の見聞に耳目を驚かせ、たたずまいに酔いしれて三門を出たときに、思わず門前から里人の茶摘みうたが聞こえてきたのであろうか。彼女は文化12年(1815)にも再び参詣していて、文政9年(1826)享年74歳、長府にて死去した。
「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」しみじみと日本を感じた一瞬だったかもしれない。
新茶の時期、ふとこの俳句とともに萬福寺を思い出す。
写真は萬福寺山門前に田上菊舎の句碑と魚梆文鎮


