旅の記念品18 -木曽路木工品-(2)-2 | Issay's Essay

旅の記念品18 -木曽路木工品-(2)-2

631 中山道木曽路馬籠の藤村記念館入り口と木工品のぐい呑み

 宿場の主であれば、行きずりの旅人から江戸方の黒船や生麦事件、松陰の踏海事件、あるいは京都での禁門の変、長州征伐などの情報も入って来る。
 半蔵は、勤皇派はと佐幕派のうごめく世相の中で、主義主張は持っていても、木曽谷の住民として中立を旨に村民のため生き抜いていた。
 『夜明け前』第一部の終わりには「一か月以上も続いた〈ええじゃないか〉の賑やかな声も静まって‥…半蔵の目の前、何となく雄大な気象が浮かんだ」と、未来への期待が膨らむ。幕藩体制からのご一新。新政府からも半蔵は馬籠戸長を命じられていた。
 ところで『夜明け前』第二部に入って、新政府になると木曽谷の伐木はなお一層厳しくなり入山さえも禁止となる。明治6年、半蔵は、筑摩県福島支庁(旧山村代官所)からの出頭命令で、馬籠から木曽谷を辿って50数キロ七つ目の福島宿に付き、羽織はかまの正装で出頭すると、役人からの御沙汰は「今日限り、戸長免職と心得よ」と、一枚の紙きれを渡される。半蔵は、山里の暮らしが良くなればと山林立入嘆願書を起草していたが、新政府はこれを察知しての解任指令であった。
 木曽谷の人々は苦しくっても、細々と山の恵みで生きその知恵が生活のすべてに活かされていた。生きるか死ぬかの請願書は、提出前無惨につぶされたのである。
 「ご一新がこんなことで良いのか」。ご維新の近代化、夜明けを信じていた庄屋・戸主を務めた人の、社会への憧れや願望が、地域社会の中で葛藤しながら、無気力に瓦解する様は、現世の何処かにも存在するが、馬籠への帰路に就いた半蔵の無念が迫る。
 さて、福島宿から馬籠宿の間には、竜宮城から帰った浦島太郎が住んだという「寝覚ノ床」、木曽ヒノキの集散地として栄えた上松、常勝寺の須原、外敵を防ぐため街道を曲げて作ったという野尻宿、ひっそりとした三留野には大正11年(1922)に掛けられた桃介橋(福沢桃介が水力発電のために架けたもの)がある。そして妻籠宿。昭和43年(1968)から町並み保存事業がすすめられ、昭和51年(1976)には重要伝統的建造物群保存地区に選定され多くの観光客を集めている。本陣、脇本陣、歴史資料館などが整っている。伊那への追分、吉川英治で有名になった「男滝・女滝」を越えれば、木曽十一宿一番南の馬籠宿。石畳の坂道、馬籠本陣は明治28年(1895)の大火で焼失し、昭和22年(1947)旧本陣跡に藤村記念館は建てられた。脇本陣史料館などがある。
 木曽路の記念品をと思って書き始めたが、長々と島崎藤村の『夜明け前』に終始してしまった。実は、木曽路に並んでいたお土産は、手打ちそば、五平餅、栗菓子、地酒、自然水、それに晴雨兼用のヒノキ傘、そして木工品などで、木工品とて俎(まないた)、おひつ、木桶、曲げ物(弁当箱など)、櫛製品、ろくろ細工(盆・椀・皿・湯飲みなど)、タンスや漆器など。おしなべて持ち運びに不便で、さして必要なものもなく何か買った記憶もない。
 今、見当たるものは馬籠脇本陣の側で求めた小さな木製のぐい呑みだけである。
 写真は中山道木曽路馬籠の藤村記念館入り口と木工品のぐい呑み